白い火花《後編》
エレベーターが最上階へと向かう僅かな時間が、永遠のように感じられた。
所々が焼け、焦げ臭さが染み付いた服のまま、鷹中茉莉と鷹中柊生、そして館那谷幸宗の三人は、重苦しい沈黙の中で押し黙っていた。
幸宗の腕は赤く爛れ、見るも無惨な状態だが、彼は涼しい顔で扇を弄んでいる。
その平然とした振る舞いこそが、これから会う人物――この船の総責任者である館那谷桜花への恐怖を、逆説的に煽っていた。
「……到着だ。顔を作れよ、テメェら」
扉が開く。
そこは窓がひとつとして存在しない『エデン』の退廃的な空気とは対照的な、極めて洗練された最高級スイートだった。
大きな窓枠の向こうには穏やかな海原が広がっているが、室内の空気は張り詰め、呼吸さえ憚られるほどの重圧に満ちている。
「遅かったわね。待ちくたびれて欠伸が出てしまいそうだったわ」
窓際に立つ館那谷桜花は、振り返りもせずに言った。
穏やかな語調だが、その声のトーンは低く、嵐の前の静けさを思わせる。
「それで……あたくしに、なにかお話しすることがあるのかしら?」
桜花の問いに、茉莉は怯えて身を縮め、柊生は顔を僅かに強張らせた。
そこへ幸宗が二人を庇うように一歩前へ出る。
その両腕は赤黒く焼け爛れ、皮膚が引き攣っていたが、彼はそれを隠そうともせずに口を開いた。
「あの部屋の件については俺の監督不行き届きだ、母さん。俺が視察の最中につい行き過ぎた要求をしたせいで、それがうっかりボヤ騒ぎになっちまった」
「あら。うっかり、ねえ」
「一応、弁明のために連れて来はしたけど、柊生くんと茉莉ちゃんは悪くねェ。全部、俺の不手際が招いた事故だ」
幸宗は飄々と嘘をつく。
双子の暴走を“事故”で済ませ、全ての咎を自分で被るつもりだ。
茉莉は唇を噛み締め、幸宗の痛々しい背中を見つめることしかできない。
柊生もまた、気まずそうに視線を床に落としている。
すると、桜花がゆっくりと振り返った。
年齢不詳の美貌が湛える表情は、能面のようになにも読み取れない。
彼女は音もなく幸宗に近づくと、その熱傷を負った腕を、愛おしげにそっと撫でた。
「っ……」
一瞬、幸宗の眉がピクリと動く。
だが、彼は表情を崩さない。自身の能力で痛覚を麻痺させているからだ。
「痛々しいわね、幸くん。……でも、貴方は痛くないのでしょう?」
「……まァな。便利な力に恵まれたモンで」
「ええ、そうね。……でも、あたくしは気に入らないわ」
桜花の瞳がすぅと細められる。
「貴方がその身を削ってまで、たかが商品を庇い立てすることが」
その瞬間、幸宗は頭の天辺から爪の先までの産毛を羽根で撫でられるような感覚に襲われ、全身が粟立つ。
勿論、誰も指の一本たりとも触れてなどいない。
それは桜花の『五感支配』が、幸宗の触覚認識を掌握したことを物語っていた。
彼女の能力は、その場に存在する全生物の全感覚を支配下に置く。
それを知る幸宗は、背中に嫌な汗が伝うのを感じる。
次の瞬間、彼にかけられていた洗脳の認識が、桜花によって書き換えられる。
つまり、有りもしない痛覚を上書きされたのだ。
「――ぐ、あッ……!?」
幸宗が膝から崩れ落ちる。
堰き止めていたはずの激痛が、津波となって彼の神経を蹂躙した。
脂汗がどっと吹き出し、喉の奥から苦悶の声が漏れる。
「幸宗くん!?」
「おい、幸宗!」
茉莉と柊生が駆け寄ろうとするが、桜花の一瞥がそれを制した。
動けばどうなるか分からないという圧力が、二人を縫い止める。
「見なさい」
桜花は苦悶に顔を歪める息子の髪を優しく梳きながら、冷ややかな目で双子を見た。
「これが、貴方たちが彼に負わせたモノよ。あたくしの大切な息子は、貴方たちを庇ったためにこの痛みを味わうこととなったの」
「ご……ごめ、なさ……っ」
「……クソッ……!」
双子の悲痛な声が響く。
自分たちが傷つけた。自分たちの行いのせいで、いつも飄々としている幸宗が、こんなにも苦しむ姿を見せている。
その事実は、どんな体罰よりも深く二人の心に突き刺さった。
「……ふう。分かればいいのよ」
今まで地を這うようだった桜花の話し方が、普段の穏やかなものになる。
途端、幸宗の呼吸も徐々に整っていった。
幸宗は荒い息を吐きながらも、ふらりと立ち上がる。その顔色は紙のように白い。
「……冗談、キツいだろ」
「懲罰よ。貴方は故意に虚偽の報告をしたんだもの。……いいこと? 柊生くん、茉莉さん」
桜花は双子の瞳を覗き込み、慈母のような笑みを浮かべて告げる。
「貴方たちは『セレシアンヌ号』が保有する最高級の商品であることを、ゆめゆめ忘れては駄目よ。そして、貴方たちがなにをもって“最高級商品”たるかを今一度、お考えあそばせ」
しかし、それは慈悲の言葉ではない。徹底的な管理の宣告だった。
「怪我は治すことが出来ても、信頼はそう簡単には直らないわ……これからは一層、精を出して働きなさい。今回は特別に、ご友人のあの子たちへの“とばっちり”は、なしにしてあげるから」
桜花は踵を返し、窓の外へと視線を戻す。
「もう結構よ、下がりなさい。……ああ、それと幸宗。貴方はすぐに医務室へ行きなさいね。傷跡が残ったら、見栄えが悪いもの」
「……へいへい」
部屋を出た三人を包んだのは、先ほどまでとは質の違う、重く冷たい沈黙だった。
部屋を出る背中を見送りながら、桜花は独り言つ。
「……躾のなっていない子猫ほど、可愛がりがいがあるというものね」




