その針を狂わせる
午後の日差しが降り注ぐクルーズ客船『セレシアンヌ号』のオープンカフェテラス。
心地よく吹き抜ける海風を浴びながら、神集島桜樹は分厚い専門書と睨めっこをしていた。
重厚な表紙には難解な遺伝子工学のタイトルが刻まれている。
十一歳の少女が読むには、物理的にも内容的にも重すぎる一冊だ。
「……これぐらい、簡単に理解できなきゃ恥ずかしいのよ。桜樹はパパの娘なんだから」
誰もいない空間で、桜樹は自分自身に言い聞かせるように呟く。
しかし、活字の羅列は桜樹の頭の中を素通りしていくだけで、知識として定着してはくれない。
若くして数多の病の解明に貢献する、世界的な医学研究者の父。
そんな忙しい父に代わって桜樹の面倒を見てくれている伯母も、引退して十数年が経つ今もファンが『セレシアンヌ号』を訪れる元国民的アイドルだ。
祖父母をはじめ、他にも各分野で名を挙げる親族が沢山いる優秀な一族の中で、自分だけがなにも持っていない。
だからこそ桜樹は努力しなければならないのだ。
父の威厳を損なわない立派な大人になるために――
「相変わらず、可愛げのねェ顔してんなァ」
不意に頭上から降ってきた声に、桜樹はビクリと肩を跳ねさせた。
顔を上げずとも声の主に目星は付いている。
そこに立っているのは、軽薄で不遜な、桜樹が最も忌み嫌う男だろう。
許可も得ず、勝手に向かいの椅子に腰を下ろすのは、桜樹が喉から手が出るほど欲しい才能をふいにして、棒に振ったような人生を送る忌ま忌ましい従兄だ。
「読書の邪魔だからどっかいって。桜樹はアナタみたいに暇じゃないのよ」
「そう冷たいコト言うなよ。俺は桜樹ちゃんにとって、世界でたった一人の従兄妹のお兄ちゃんだぜ?」
遠慮というものを知らない長い足が、テーブルの下で桜樹の足に当たりそうになり、桜樹は眉をひそめて足を引っ込める。
「アナタみたいな従兄、桜樹にとっては恥ずかしいだけなのよ。わかったら早くどっか行って頂戴。桜樹は忙しいの」
「忙しい、ねェ……? その難しそうな本が逆さまじゃなかったら、もうちょっと説得力あったんだけどなァ」
「えっ……!?」
桜樹は慌てて手元の本を確認した。文字は正しい向きで並んでいる。
カッと熱が頬に上るのを感じて顔を上げると、案の定、そこには館那谷幸宗が意地の悪い笑みを浮かべて頬杖をついていた。
「う、嘘ついたのね! アナタって人は本当に……!」
「ハハハッ! 引っかかるほうが悪ィんだよ。相手の動揺を誘って隙を作るなんて、カジノじゃ基本だろうが」
幸宗はテーブルの上に広げられたノートに目を呉れた。
そこには、拙い文字で必死に書き写された専門用語がびっしりと並んでいる。
「桜樹ちゃんさ、努力するのはいいけどよ。勝算のない勝負に全ベットなんてのは、勇気じゃなくて無謀って言うんだぜ?」
「桜樹は無謀なんかじゃないのよ。これは必要なことだもの。パパの名前に泥を塗らないために、桜樹にはこれくらいしかできないんだから」
「ふ〜ん。でも別に、テメェのパパはそんなこと望んじゃいねェだろ」
「そ、そんなこと……!」
言葉に詰まる桜樹を、幸宗は静かに見据える。
普段の軽薄な態度は鳴りを潜め、その視線はどこか冷ややかで、底知れない不気味さを湛えていた。
桜樹は唇を噛んだ。父はなにも言わない。優しい伯母も出来損ないの桜樹をたくさん褒めてくれる……
けれど、それが逆に桜樹を焦らせる。
期待されていないのではないかという不安が、常に胸の奥で渦巻いている。
「……別に、アナタには関係ないのよ」
「それが関係大アリなんだよ。テメェに無理させねェのが、お兄ちゃんである俺の務めだからなァ? それに、もしテメェがぶっ倒れたりしたら怒られんのは誰だと思ってんだ」
幸宗は懐からなにかを取り出すと、放り投げるようにして桜樹の手元に落とした。
「ほらよ」
それは色とりどりの紙に包まれたチョコレートが詰め合わされた、小さなギフトパックだった。
「取り敢えず糖分取っとけ。脳味噌がガス欠起こしてちゃ、入ってくるモンも入ってこねェだろ」
「……余計なお世話なのよ」
「あ〜あ、本当は桜樹ちゃんにあげるつもりじゃなかったのになァ」
桜樹は手元のチョコレートに一瞬、目を落とすが、誘惑を振り切るように文字の羅列へと視線を戻す。
「桜樹だって、別にこんなもの……!」
「背伸びしたところで一朝一夕で伸びるモンじゃねェだろ。身長だって、なんだって」
幸宗は立ち上がると桜樹の華奢な肩に手を置く。
桜樹が抗議の声を上げる前に、幸宗は「じゃあな」と背を向けて行ってしまった。
去り際、彼は思い出したように足を止める。
「あ、そういやそのチョコ、酒入りだったわ」
「はぁ!? 桜樹、まだお酒は……!」
桜樹が確認しようと慌てると「嘘だよ」と笑う声が聞こえた。
手の中にあるのは、ただのミルクチョコレートだ。
「ほんとに、嫌なヤツなのよ……」
桜樹は忌ま忌ましげに呟きながら、鮮やかな包み紙を剥がす。
あんなヤツから貰ったものなど捨ててしまいたかったが、食べ物を粗末にすることは出来なかった。
(……美味しい)
目の前には、依然として難解な専門書が広がっている。
しかし、先ほどまで感じていた文字に押しつぶされそうな圧迫感は、少しだけ薄れたような気がした。




