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終末は旅客船で踊り続ける  作者: 成多摩せせり


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13/15

その針を狂わせる

 午後の日差しが降り注ぐクルーズ客船『セレシアンヌ号』のオープンカフェテラス。

 心地よく吹き抜ける海風を浴びながら、神集島(かしわじま)桜樹(おうじゅ)は分厚い専門書と睨めっこをしていた。


 重厚な表紙には難解な遺伝子工学のタイトルが刻まれている。

 十一歳の少女が読むには、物理的にも内容的にも重すぎる一冊だ。


「……これぐらい、簡単に理解できなきゃ恥ずかしいのよ。桜樹はパパの娘なんだから」


 誰もいない空間で、桜樹は自分自身に言い聞かせるように呟く。

 しかし、活字の羅列は桜樹の頭の中を素通りしていくだけで、知識として定着してはくれない。


 若くして数多の病の解明に貢献する、世界的な医学研究者の父。


 そんな忙しい父に代わって桜樹の面倒を見てくれている伯母も、引退して十数年が経つ今もファンが『セレシアンヌ号』を訪れる元国民的アイドルだ。


 祖父母をはじめ、他にも各分野で名を挙げる親族が沢山いる優秀な一族の中で、自分だけがなにも持っていない。


 だからこそ桜樹は努力しなければならないのだ。

 父の威厳を損なわない立派な大人になるために――


「相変わらず、可愛げのねェ顔してんなァ」


 不意に頭上から降ってきた声に、桜樹はビクリと肩を跳ねさせた。


 顔を上げずとも声の主に目星は付いている。

 そこに立っているのは、軽薄で不遜な、桜樹が最も忌み嫌う男だろう。


 許可も得ず、勝手に向かいの椅子に腰を下ろすのは、桜樹が喉から手が出るほど欲しい才能をふいにして、棒に振ったような人生を送る忌ま忌ましい従兄だ。


「読書の邪魔だからどっかいって。桜樹はアナタみたいに暇じゃないのよ」


「そう冷たいコト言うなよ。俺は桜樹ちゃんにとって、世界でたった一人の従兄妹のお兄ちゃんだぜ?」


 遠慮というものを知らない長い足が、テーブルの下で桜樹の足に当たりそうになり、桜樹は眉をひそめて足を引っ込める。


「アナタみたいな従兄、桜樹にとっては恥ずかしいだけなのよ。わかったら早くどっか行って頂戴。桜樹は忙しいの」


「忙しい、ねェ……? その難しそうな本が逆さまじゃなかったら、もうちょっと説得力あったんだけどなァ」


「えっ……!?」


 桜樹は慌てて手元の本を確認した。文字は正しい向きで並んでいる。


 カッと熱が頬に上るのを感じて顔を上げると、案の定、そこには館那谷(たてなた)幸宗(ゆきむね)が意地の悪い笑みを浮かべて頬杖をついていた。


「う、嘘ついたのね! アナタって人は本当に……!」


「ハハハッ! 引っかかるほうが悪ィんだよ。相手の動揺を誘って隙を作るなんて、カジノじゃ基本だろうが」


 幸宗はテーブルの上に広げられたノートに目を呉れた。

 そこには、拙い文字で必死に書き写された専門用語がびっしりと並んでいる。


「桜樹ちゃんさ、努力するのはいいけどよ。勝算のない勝負に全ベットなんてのは、勇気じゃなくて無謀って言うんだぜ?」


「桜樹は無謀なんかじゃないのよ。これは必要なことだもの。パパの名前に泥を塗らないために、桜樹にはこれくらいしかできないんだから」


「ふ〜ん。でも別に、テメェのパパはそんなこと望んじゃいねェだろ」


「そ、そんなこと……!」


 言葉に詰まる桜樹を、幸宗は静かに見据える。

 普段の軽薄な態度は鳴りを潜め、その視線はどこか冷ややかで、底知れない不気味さを湛えていた。


 桜樹は唇を噛んだ。父はなにも言わない。優しい伯母も出来損ないの桜樹をたくさん褒めてくれる……


 けれど、それが逆に桜樹を焦らせる。

 期待されていないのではないかという不安が、常に胸の奥で渦巻いている。


「……別に、アナタには関係ないのよ」


「それが関係大アリなんだよ。テメェに無理させねェのが、お兄ちゃんである俺の務めだからなァ? それに、もしテメェがぶっ倒れたりしたら怒られんのは誰だと思ってんだ」


 幸宗は懐からなにかを取り出すと、放り投げるようにして桜樹の手元に落とした。


「ほらよ」


 それは色とりどりの紙に包まれたチョコレートが詰め合わされた、小さなギフトパックだった。


「取り敢えず糖分取っとけ。脳味噌がガス欠起こしてちゃ、入ってくるモンも入ってこねェだろ」


「……余計なお世話なのよ」


「あ〜あ、本当は桜樹ちゃんにあげるつもりじゃなかったのになァ」


 桜樹は手元のチョコレートに一瞬、目を落とすが、誘惑を振り切るように文字の羅列へと視線を戻す。


「桜樹だって、別にこんなもの……!」


「背伸びしたところで一朝一夕で伸びるモンじゃねェだろ。身長だって、なんだって」


 幸宗は立ち上がると桜樹の華奢な肩に手を置く。

 桜樹が抗議の声を上げる前に、幸宗は「じゃあな」と背を向けて行ってしまった。


 去り際、彼は思い出したように足を止める。


「あ、そういやそのチョコ、酒入りだったわ」


「はぁ!? 桜樹、まだお酒は……!」


 桜樹が確認しようと慌てると「嘘だよ」と笑う声が聞こえた。


 手の中にあるのは、ただのミルクチョコレートだ。


「ほんとに、嫌なヤツなのよ……」


 桜樹は忌ま忌ましげに呟きながら、鮮やかな包み紙を剥がす。

 あんなヤツから貰ったものなど捨ててしまいたかったが、食べ物を粗末にすることは出来なかった。


(……美味しい)


 目の前には、依然として難解な専門書が広がっている。

 しかし、先ほどまで感じていた文字に押しつぶされそうな圧迫感は、少しだけ薄れたような気がした。

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