ゆめとうつつ
クルーズ客船『セレシアンヌ号』の中で、ひときわ穏やかな空気が流れるコンサバトリー。
ガラス張りの天井からは陽光が惜しげもなく降り注ぎ、色とりどりの植物たちに恵みを与える。
そんな緑の匂いに満ちた温室のベンチで、可憐な少女と見紛うほど麗しい見目の少年が時折、顎に手を当てながら本を読んでいた。
朱色の瞳で静かに文字を追う司條明弥の隣には、だらしなく手足を投げ出すもう一人の姿があった。
「……んー、むにゃ……」
幸せそうな寝息を立てているのは、明弥や明弥の伴侶の側近であり護衛である鷹中蓮絆だ。
本来であれば周囲を警戒すべき立場の彼だが、今は無防備そのものの顔で明弥の肩に頭を預けている。
「……蓮絆。重い」
明弥は本から視線を外さずに、淡々と言葉を紡いだ。
その声には棘もなければ、熱量もない。ただ事実を述べるだけの冷ややかな響きだ。
「ん……あー、ごめんごめん。明弥くんの肩、ちょうどいい高さで、つい」
蓮絆は悪びれる様子もなく「ふあぁ」と大きな欠伸をすると片目を開けた。
瞼の裏に隠された金と銀の色違いの瞳が、片側だけ悪戯っぽく明弥を見上げる。
「……僕は君の枕じゃない。護衛がこんなところで居眠りをしてるなんて、どうなの」
「えー? 厳しいなぁー。でも、そう言うなら俺が起きるのを待ってないで、顔を叩くなりして起こしたらよかったのにー」
「……別に、そこまでして起こす理由がなかっただけ」
明弥は呆れるように小さく息を吐き、読んでいた本を閉じた。
「ん? もう読み終わったの? その本、かなり分厚いのに」
「……君が起きるのを待つ間、暇潰しに開いただけだから」
「それなら、俺はもうひと眠りするとしようかなー? 明弥くんも本の続きが気になるでしょ?」
「……今読んでるのは、わからない専門用語が多くて時間がかかりそうだから、いい」
蓮絆は興味深そうに、明弥の膝の上にある本の背表紙を覗き込んだ。
「そんなに難しい本を読んでるの? どれどれ……細胞研究の、プロトコル集……? なんで明弥くんがそんなものを……?」
「……図書館にあったのを適当に取っただけだよ。読んだことのない本だったら、内容は別になんだっていいから」
蓮絆は体をぐっと伸ばし、ベンチの背もたれに腕を回した。
その動きに合わせて、彼に染みついた薬品のような香りが漂った気がした。
「一度読んだら全部覚えちゃうってなると、そういう考えになるものなのかなー。その超絶記憶力、便利そうで羨ましいけど……全部覚えてるって、なかなかお気楽なことじゃないよねー」
「……どんなに忘れたいことも、一生忘れられないだけだよ」
見たもの、聞いたもの、感じたこと……全てを脳に刻み込んでしまう記憶力。
それは明弥にとって、武器であると同時に呪いのようなものだ。
蓮絆は真面目な面持ちで少しだけ目を伏せたが、すぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「じゃあ、俺が明弥くんの脳内メモリを楽しい記憶で上書きしてあげるとしよう!」
「……どういう意味?」
「こういうことー♪」
そう言うなり、蓮絆はパチンと指を鳴らす。
瞬間、明弥の視界が揺らいだ。
目の前にあった植物の緑が一斉に淡いピンク色へと変化し、蕾が早送り映像のように次々と開花していく。
思わず目を見開いた明弥の周りを、光の蝶たちがふわりと優雅に旋回した。
それは現実にはあり得ない、蓮絆が『化猫憑き』の力によって明弥に魅せている幻覚だ。
しかし、その光景はあまりにも幻想的で息を飲むほどに美しかった。
「どう? 綺麗でしょー。つまらない記憶の隙間に挟む“栞”くらいにはなるんじゃない?」
得意げに蓮絆が「ふふん」と笑う。
明弥は光の鱗粉を振り撒く蝶を目で追いながら、その白昼夢のような景色を網膜に焼き付けていく。
「……ピンクの植物って……悪趣味な色」
「まさかのダメ出し!? もっとこう、感動して「わぁ、すごい!」とかないの……!?」
蓮絆ががっくりと肩を落とすと同時に、幻想の蝶たちは霧のように消え失せ、植物が青々と生い茂る元の静かな温室が戻った。
再び訪れた静寂の中、明弥は立ち上がって本を脇に抱え直した。
ベンチに座り込んだままの蓮絆に背を向ける形となる。
「……でも、蓮絆としか見られない楽しい景色だった」
そのまま出口へと歩き出し、その場を後にした。
慌てて追いかけてくる足音を聞きながら、明弥は先ほどの光景を反芻する。
彼の言う通り、それは膨大な記憶の中でひと際鮮やかな栞となって残るだろう。
「……あの弟にして、この兄あり、か」
明弥は、自身の親友であり蓮絆の弟でもある少年の顔を思い浮かべる。
親友もあの護衛も、兄弟揃ってまったくお節介なことだ。
明弥の独り言は、柔らかな花の香りに溶けて消えていった。




