甘いお菓子にご用心!
茜色に染まる海を進むクルーズ客船『セレシアンヌ号』。
その船内、本日の営業を終えた『Cafe MAD HATTER』のキッチンは、甘く香ばしい匂いに包まれていた。
温かい砂糖とバターの匂いが漂う、焼き上がったばかりのクッキーを見つめ、空川莉華は小さく唸る。
「う〜ん……やっぱり、これはナシだよねぇ」
莉華の視線の先にあるのは、見た目はなんの変哲もない可愛らしいクマの形をしたクッキーだ。
しかしそれは、彼女の『変甘為薬』によって、“食べた者同士の精神を入れ替えるくすり”に変えられた代物だった。
兄や親友にちょっとした悪戯を仕掛けてやろうという出来心で生まれたものだったが、クッキーが冷めるにつれて良心が咎めてきたのだ。
「……うん、封印封印っ! あとで自分で処理しちゃおっと」
莉華はクッキーを天板から保存容器に移し、一旦、調理台の隅に追いやった……
その時だ。
「よォ、妹ちゃん。甘い匂いに釣られて幸宗くんが来てやったぜ♪」
背後から掛けられた声に莉華は肩を跳ねさせる。
振り返るとそこには、この船の所有者の親族であり、非常に強い権力を持つ館那谷幸宗がニヤニヤと笑みを浮かべて立っていた。
「幸宗くん!? もう、びっくりさせないでよ〜っ!」
「……おっ、茉莉ちゃんへの土産に丁度いいモンがあるじゃねェか。妹ちゃん、コレ、いい感じに包んで俺にくれよ」
幸宗は目敏く保存容器を見つけると、それを手に取り、透明な側面から中身を確認する。
莉華は慌てて容器を取り返そうとするが、軽く躱されてしまい、手に掴んだのは空気だけだった。
「それはダメ! それは失敗作っていうか……とにかく食べちゃダメなやつなのっ!」
「失敗作? 俺にはそうは見えねェけどな……まァ、そう言うなら念のためひとつ味見しとくか」
「えっ!? ちょっ、だからダメだって……!!」
彼が口にすることはおろか、親友への土産にされるなんて絶対にあってはならない。
しかし、莉華の制止も虚しく、幸宗は容器を開けると、流れるような動作でひょいとクッキーを摘まみ上げ、そのまま口へと放り込んだ。
「別に、サクサクしてて甘ったるい普通のクッキーじゃねェか。さては妹ちゃん、独り占めしようって魂胆だったな?」
「う……確かにあたし一人で食べるつもりだったけど、そうじゃなくてっ……」
莉華は言葉の途中でふと冷静になった。
(……ん? よく考えたら“中身を入れ替えるくすり”は、二人が一緒に食べなきゃ効果が発動しないから……)
幸宗一人だけが食べたところで、効果は現れないはずだ。
そのことに気付き、莉華はホッと胸を撫で下ろした。
そう、大丈夫だ。効果はない。
今、彼が食べたものはただのクッキーとして消化されるだけ…………
……本当に?
「あ」
「ア? んだよ、妹ちゃん」
莉華の脳裏に数分前の記憶が蘇る。味見と称して、割れてしまったものを自分が食べたことを。
「あたしも……食べちゃったじゃん……!!」
だが、同時に食べたわけではない。もしかしたら効果はないのではないか? いや、ないはずだ!
そんな莉華の胸中などお構いなしに、不意に二人の視界がぐらりと歪んだ。
世界が反転するような浮遊感に襲われ、意識が遠のく感覚。
次に目を開けた時、莉華の視界はいつもより随分と高くなっていた。
「い、入れ替わっちゃった〜〜っっ!!」
思わず頭を抱えた莉華の口から出たのは、自分からはどうしたって出るはずのない低い男の声。
そして、目の前で頭を抑えているのは間違えようもなく自分だ……しかし、その少女は見たことのない笑みを浮かべて口を開いた。
「ハッ、なるほどなァ。テメェ、あのクッキーに妙な細工をしてやがったな?」
莉華の姿をした幸宗は、自分の手のひらを握ったり開いたりして感触を確かめている。
頭の回転が速い彼は、既にこの状況を粗方理解したようだった。
「……ってコトはだ。つまり今の俺は妹ちゃんの『菓子をくすりに変える能力』を使い放題ってわけだ」
「だとしても、変なこと考えちゃダメだからね……?」
「オイオイ、なに言ってんだ。そうとくれば、存分に楽しまなきゃ損だろうが。まず手始めに、るかるかに“笑うと変な顔になるくすり”でもくれてやるとするか……♪」
幸宗が呼ぶ「るかるか」が兄の愛称であることを莉華は知っている。
兄にそんなことをされては、自分のしでかしたことが一瞬でバレてしまう。
内心の動揺を隠しきれない莉華は、なにを思ったのか目の前の自分の体を軽々と持ち上げてみせた。
所謂、お姫様抱っこというやつである。
突然のことに固まっていた、腕の中の少女の顔がブワッと赤く染まる。
「なっ……!? テメェ、下ろせ……!」
「わぁっ、あたしってこんなに軽いんだ! それとも幸宗くんの身体が力持ちってだけ?」
「知るか! クソ、逆にテメェの身体は非力過ぎるだろ」
「ちょっ、暴れないでよ〜! 危ないでしょっ?」
自分の体にお姫様抱っこされるという奇妙な状況に、幸宗は顔を真っ赤にして暴れるが、莉華の体ではびくともしない。
その様子を見るに、先程まで思い浮かべていた企みは、すっかりどこかへ行ってしまったようだった。
「ねえ、幸宗くん! 折角だし、このまま遊びに行こうよっ!」
「ハァ? 行くわけねェだろうが! こんなトコ、誰かに見られたら堪ったモンじゃねェ……」
居心地悪そうに不機嫌な顔をする自分の顔を見ながら、莉華はふむ、と考える。
「そっかぁ〜……でもさ、幸宗くん。今の幸宗くんがあたしの『変甘為薬』を使えるってコトは、今のあたしは幸宗くんの『心握暗香』を使えるってコトだよね?」
莉華が言わんとすることを察した幸宗は冷や汗を浮かべた。
「ッ……テメェ……」
花の香りで人の精神を意のままに操る超能力……自分のものであるその能力について、幸宗は誰よりも理解している。抗うすべがないことを。
「もとはと言えば、ダメって言ったのに勝手にクッキーを食べた幸宗くんが悪いんだからねっ!」
「ハァ……クソ。わかったよ。付き合えばいいんだろ、付き合えば」
「やったあ! それじゃあ早速、出発進行~っ☆ 取り敢えずデッキで夕焼けでも見に行こっか!」
莉華は満面の笑みで、腕の中の少女の体を抱き直す。
「おい、流石にこの状態はやめろ……!」
「え~、いいじゃん! 幸宗くん、いつも偉そうにしてるし、お姫様扱いも悪くないでしょ?」
抵抗する自分の体を抱え、莉華は意気揚々とキッチンを飛び出した。
――数時間後、“くすり”の効果が切れて元の体に戻った莉華は、幸宗からこっぴどくお仕置きをされることになるのだが……それはまた別の話である。




