私のお姉さまってひどいんです!
その日、王宮では夜会が催されていた。
数時間前には列をなして王宮に吸い込まれて行った各家からの馬車が、今はその煌びやかな場所から逆方向に遠ざかっていくものもちらほらと見られる。そんな時間帯である。
とは言え、近辺では未だに灯りと共に楽団の音が微かに空気を揺らしており、華やかさを思わせる喧騒はまだ収まりそうにない。
同時に、何らかの不祥事でもあったのか、城内に散っている警備の数が催しの開始時より多く見られ、若干の物々しさを感じさせていた。
そんな中、夜会の賑やかさが薄らと耳に届く王宮の庭園で、見目麗しい若い男女が向かい合っていた。
貴族令嬢であろう女は、柔らかく波を打つライトブラウンの髪を下ろし、右耳の上にキラキラと光る美しい髪飾り。レースもフリルもふんだんにあしらった淡い桃色のドレスは、ちんまりとしたつくりのその令嬢を、益々幼く守るべき存在であるかのような印象に作り上げている。
対し、男は紺がかった黒髪を丁寧に撫で付けた涼しげな印象の美丈夫。華やかさは極力抑えながらも素材の良さが感じられる服装を着こなしており、その美貌を際立たせている。物腰が柔らかく、その所作を見るに高位貴族の令息であるのは間違いなさそうだ。
男は、目の前で息を切らせながら自身を見上げる令嬢に語りかけた。
「……ご令嬢、何かお困りのことでも?」
すると、ぼうっと令息を見上げ立ち尽くしていた令嬢は、ハッとした表情を見せた後ポロポロと涙をこぼし、名も名乗らないまま自身の身の上らしきものを話し始めた。
「わたくし、今日を楽しみにしておりましたの。ですが、同行している姉が、妄りに男性と親交を深めてはならないとわたくしのことをずっとずっと監視していて」
令嬢は姉と共に本日の夜会に出席しているのだが、その姉は令嬢が若い男性と話すのを許さず、壁際で監視しているのだと男に説明した。男は令嬢の話す状況をよく呑み込めないながらも、話を聞く姿勢を見せている。
「ですが……詳細は存じませんが、先程騒ぎがありましたでしょう? 不届き者がいたという」
「……ああ、そのようですね」
「わたくし恐ろしくて……それに、姉の監視からも逃げたくて、それで騒ぎに乗じて外に出ましたの」
つい今しがた、王宮の使用人だったものが無人の部屋に夜会の出席者を引っ張り込んだという騒ぎがあった。その被害者となった人物に対し、以前から邪な気持ちを抱いていたのだという。なお、今は既に収束している。
青ざめた令嬢は自らを抱きしめるように両手を身体に回し、か弱い子鹿のように震えている。見るものによっては庇護欲をそそるような仕草であろう。
「何故、貴方の姉君が監視を? ご令嬢を慮っているだけでは? このような場では良からぬ輩もいるでしょう」
すると令嬢は表情を変え、吐き出すようにきっぱりと告げた。
「いいえ、嫌がらせですわ。姉は、わたくしが若い男性と会話をしているのが許せないのです! 男性の目を引いたことで、手の甲を叩かれたこともあるのですわ!」
この令嬢は確か、スタンスフィールド子爵家の次女と先程会場で耳に挟んだ記憶がある――と男は思った。次女の名はキャスリンだったか。その“姉君”――と男は、視線を一時空に向ける。確か、壁際で静かに微笑んでいた目立たない令嬢が姉と呼ばれていただろうか。着飾ればさぞかし、と言った風貌の、磨かれる前の素朴な貴石のようなイメージの女性が思い出された。あの令嬢がスタンスフィールド家の長女であり目の前の令嬢の姉、エメラインだろう、と思い当たる。
“着飾ればさぞかし”と言うのはその姉である令嬢、夜会に参加するには余りにも素朴過ぎる衣装を身につけていたからである。装飾品もほとんど身につけてはいない。何故あの状態で家の者が送り出すのを良しとするのか理解に苦しむ程だったのだ。
そこでうっかり「あの慎ましやかなご令嬢がそんなことを……」と男が口に出した。
すると目の前の令嬢、キャスリンは瞬時に顔を赤くし、目を釣り上げた。
そして「違うんです! 姉はふしだらなんです!」と宣った。
『ふしだら』と、男は頭の中で反芻する。仮にも自身の家族の話をしているのだから、もう少し湾曲な物言いをしてはどうか――という表情を、ほんの少しばかり。だがその表情は瞬時に散らされる。代わりに、薄く微笑み
「そうなんですね、私にはそのような方には見えなかったのですが」という言葉を吐いた。
「皆騙されているんです! 父も母も、姉にはほとほと手を焼いていて……従僕にも手を出すような、あばずれなのですわ!」
『あばずれ』と、男は再び頭の中で反芻する。そして、ほんの一瞬だけ眉間にくっきりと縦筋を入れたのだが、即、弛緩された。
キャスリンはそんな目の前の男の様子に気付かないのか、自身の姉についての至らなさを更に捲し立てる。
曰く、少しでも不快なことがあれば誰彼構わず手を上げる。曰く、お気に入りのあれこれを盗まれる、嘘をつく、不快な言葉を投げつけてくる、などなど……。
男は口端を軽く笑みの形に引き上げたまま、僅かに首肯しながら聞いている。その表情から内心を読むことはできない。だが、首肯はただの相槌で、是としての動きではないことは確かなようだ。
暫くして、キャスリンはハッと顔を上げ、男と目が合うと眉尻を下げた。
「すみません、初対面の方にこんなこと……皆様、姉の見た目に騙されることが多くて、心配なのです。わたくしとは異なり、至らない姉なので」
「いいえ、私が話を聞くことで、可愛らしい貴方の笑顔が戻るならば」
と、男は優美に微笑む。
キャスリンは男の発せられた言葉に耳まで赤くなっている。
だが、その瞳は爛々と輝き、何かの確信を得たような表情を男に向けた。
「そんなことより、漆黒の貴公……いえ、貴方様はなぜこちらに?」
と、キャスリンは一歩、男との距離を縮める。が、男は表情を変えずにそっと半歩ほど後退した。
「それは……少し、表に出て休憩をと」
「あら、ではわたくしと一緒ですね!」
キャスリンは再び一歩踏み出し、男との距離を詰める。そしてそのついでに、ほんの少しだけ男の腕のあたりに触れようとした――が、男はすぐさま避けるように、いや、寧ろ飛び退くように、腕を引いた。
思いがけず至近となった距離に、男は動揺したようだ。
しかし男はその動揺を気付かせない自然な様子で、すいと避けるように令嬢の横に位置を変え、「さあそろそろ戻らなくてはね、貴方の姉君も心配されているかもしれない」と会場へ戻るよう促した。男が自身をあからさまに避けたことに驚き、瞠目しているキャスリンのことは気づかない振りをしている。
男が足早に進み出すその後ろ姿を見つめながら、キャスリンは不満な表情をしていた。『エスコートはしてくださらないのね』とでも思っているのであろう。が、その後都合の良い考えに至ったらしい。密かに「さっきの反応……漆黒の貴公子様ったら、照れているのね。うふふ」と、男の耳に届かないほど微かな呟きを吐き、ほくそ笑んだ。世間の噂で聞いているよりも女性慣れしていないのかもしれない、などと思っていたのだろう。
✴︎
夜会の開催から数日後。
敢えて雑な様子で摘み上げた封書を怫然とした表情で見ている男が、ソファーにだらしなく身を預けている。
その紺がかった深い黒髪の男は、「ん」と促しながら至近にいる別の男にその封書を押し付けた。
プラチナブロンドの髪に淡いブルーの瞳のそのもう一人の美丈夫は、受け取ったそれをさらりと広げ目を走らせる。
「ふ。ずいぶん楽しい夜会だったんだね。僕も行ければ良かったかな」
「それを見て本気で楽しいと思えるなら、その女はお前にやる」
と、顔を顰めた男――社交界では“漆黒の貴公子”という通り名で呼ばれる、ステュアート公爵子息ランドルフは笑う男を睨みつけた。
もう一人の男、“白銀の貴公子”と呼ばれるハノーヴァー公爵子息クリフォードは呆けた表情で「いや、この子はもうお前が1カウントでいいんじゃないの」と告げながら、手紙とランドルフとの間に視線を行ったり来たりさせている。
クリフォードは『是非一度我が家へ』と書いてあるぞと、ピラリと封書を指先で揺らしながらランドルフへ流し目を送った。
その様子を見て、溜息を吐きながらランドルフは呟いた。
「一応俺、公爵家の子息なんだけどなー」
「ふむ、呼びつけるとは中々胆力のあるご令嬢のようだ」
と、クリフォードは揶揄する。
「しかしきったない字だよな。これでも貴族令嬢なのかよ」
その言葉にクリフォードは改めて手紙をちらと見て、
「字は兎も角、見た目はどんな子なの?」と興味ありげに尋ねた。
ランドルフはしばし思案し、口を開く。
「小さくてふわふわっとして幼なげで可愛らしい感じの、中身は黒いニシキヘビって感じだな」
クリフォードは思わず吹き出した。
「ご令嬢、ひっどい言われようだな」
「考えてみろよ。いきなり近づいて来て、不躾に話しかけて来たかと思えば名前も名乗らず家族の愚痴だぜ。知らねえっての。そもそもお前誰だよ。俺に話してどうしろっていうんだよ」
ランドルフはその際に吐き出せなかった憤りを今発散しているようだ。
「それに言ってる話がいろいろおかしくてさあ」
と、ランドルフは再びソファーにだらりと体を預ける。因みに、ここはハノーヴァー公爵邸である。
「話、聞くことは聞いてたんだ?」
「聞きたくも無いけどあの手の女は適当にしとくと碌でも無いことを吹聴するからな。『ぞんざいに対応されたんですぅヒドイー』とかさ」
それで周りの取り巻きが慰めて、悪口の一つ二つを話して溜飲を下げるのだろう、とランドルフは口を尖らせながら話す。その様子は、かの夜会の日の貴公子然とした様子は見る影もない。
まるで幼子が不満を爆発させているかのようだと思っているのであろう、クリフォードはニヤニヤしながら聞いている。
「そもそも、騒ぎが怖くて外に走ってきたっておかしくね? 庭もある程度はライトアップされてるし警備もいるが、寧ろ室内の方が安全だろ」
「話を聞いた限りでは、お前を見かけて走って来たんじゃないの? 理由は後付けだろう」
「悍ましいが、そう考える方が自然かもしれないな」
ランドルフは嫌な話を聞いたとでも言うような表情で身震いをする動作を見せた。それを見、
「『悍ましい』って、いつものお前らしくなく随分過剰だな」
とクリフォードは笑う。
笑い事じゃねえ、とランドルフは憤った。が、すぐに冷静な顔を取り戻す。
「しかもその女の姉君、戻ったらめっちゃ笑顔で食べまくってたんだぜ。あの女、自分を監視してるとか言ってたけど絶対嘘だろ」
と、ランドルフはもりもりと嬉しそうにスイーツを口元に運ぶ令嬢を思い出した。そして、それを見た時にチラ見した、キャスリンの黒い表情も。
「それにしても、虐められてるだかふしだらだかあばずれだか知らないけど、身内の不始末なんて家の不名誉になることを赤の他人にペラペラペラペラ話す女なんて恐ろしくて近づきたくもない。よく他の子息どもはあんなのにチヤホヤするよな」
会場に戻ると、実際令嬢の側に幾人かの令息たちがわらわらと集まってきたのだ気色悪い、とランドルフは話す。
クリフォードが思い出したように言葉を挟む。
「そう言えば、その令嬢は人となりなどは知らなかったが話題にはよく上がる名前だな。その令嬢を気に入ってる者はまあまあいるらしいぞ。例えば、ティーダー侯爵家の次男とか」
「あいつか。あいついつも見る目がないんだよなあ。あんな構ってやったら面倒くさそうな女、俺は速攻で退場だが」
そして「じゃあ、あいつに押し付けてやるか」と独りごちながら、ランドルフは話のネタとなった封書を紙飛行機のように折り畳んで暖炉へ飛ばした。
ジ、と微かな音を立てて、封書は炎と交ざり合い、灰になった。
二人は社交界で浮き名を流している公爵令息である。白銀の貴公子、漆黒の貴公子と密かに呼ばれ、令嬢たちの憧れの人物である。
婚約者不在、特定の女性も作らず、落とされることはあっても決して落ちないと言われている。
二人は言う『どうせ遊んでいられるのは今のうちだけだから』と。
何とか先延ばしにしている婚約者の選定も、どうせそのうち王家や親が決めること。自分の意思などほぼ通らない。
また、この国は妾の存在を許していない。
ならば、婚姻という足枷をはめられる前の多少の羽目外しは見逃されるだろう、見逃される身分ではあるだろう――高位貴族の子息である二人がそう考えるのは、自然なことなのかも知れない。
しかし、言い逃れができない年齢まで、あとほんの少し。その時までを期限に、二人は恋に落とした女の数を競う下衆な遊びをしている。
とは言え、それは自分に恋愛感情を抱いていると確信できた時点までで1カウントかつゲームオーバー。間違っても乙女を奪うような非情なことは行わない。貴族令嬢にとって婚姻時まで乙女であると言うことが重要な意味を持つと、承知しているのである。
稀に“相手の方が”その禁を犯そうとするのだが――
「何が『お情けを』だよなぁ」
と、ランドルフは呟く。
「何か言ったか?」
「……何でもない」
キャスリンに出会う直前の王宮での騒ぎ。実はランドルフは当事者であった。
加害者では無い。被害を受けた側として、である。見知らぬ女に部屋に連れ込まれそうになっていたのだ。体調を崩したふりをされ、油断したところで無人の部屋に突き飛ばされた。聞けばその女、王室の侍女で本人も低位ではあるが貴族であるらしい。今回の件で、恐らく貴族ではなくなるだろうが。
王室からは公爵である父親同席の場で内々に謝罪を受けている。そして内々に処理することで互いに同意している。
あの日、逃れる直前にその女はランドルフに言った。『一度だけ、どうかお情けを』と。
後で聞いたところによると、その忌まわしい部屋には強力な媚薬が何種類も準備されていたのだという。他にも精力剤の類もあったと聞き、ランドルフは強い吐き気を催した。
ふと、その話を思い出し、ランドルフは身を固くする。
捨て身の人間は恐ろしい。男も、女も。
その女を振り切り、警備の者に内々にするよう言い含めた上で後を任せ、自身を落ち着かせたところで足音が聞こえた。驚いて振り返ると、キャスリンがこちらに向かって走って来ていたのだ。その時のランドルフにとっては恐怖しか感じない、満面の笑みで。
その、自分を見つけて近づいて来たかの様子に、思わず婦女子のように悲鳴をあげそうになったのは流石に誰にも秘密だ。
あんなことがあった後に、朧げに名前くらいしか知らない女に不躾に近づかれるなど、たまったものではない。
しかも、あんな『私の上目遣いの顔、可愛いでしょ?』とでも言いたげに、自身を媚びた目で見上げるあざとい女に。『姉は私とは異なり至らないので』などとお門違いな発言をする女に。
――寧ろ、あの女が口汚く罵る姉の方が「寧ろ、その話の姉君の方が気になるな。声をかけてみようかな?」
ランドルフは自身の心の内を言葉にしたクリフォードへ微妙な表情を見せた後、小さく舌打ちをした。
「え? なんで舌打ち?」
クリフォードは、ランドルフへ戸惑いの目を向けた。
そして、今日も夜会は開かれる。
この二人の貴公子がこの後、キャスリンの姉エメラインに夢中になり、嘘吐きな妹キャスリンを含めた非情な家から救い出し、争うように婚約を申し込むことになるのは、また別の話。
そしてその後、キャスリンやその家族が往生際悪く立ち回り、最悪な運命を辿ることになるのも。
更にまた別の話――
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