2:港湾地区 ≪ハーバー≫
エルフの朝は早い。
寝てないので当然だ。
僕は朝日が昇るのを待って、神に祈りを捧げる。月の女神に仕えてるのに朝日に祈るのは変だって?
そうかもしれないけど、月の神は夜にしてもいつだっている訳じゃないし。セレスティアンの教会では朝の礼拝が標準的なんだよ。
跪き、手を組み、頭を垂れ、目を閉じる。
耳から人の営みの音がゆっくりと消え去り、漂う臭いも遠ざかる。
膝が床に触れている感覚や、両の手を組んでいる感覚さえ消えて、溶けてゆく。
生きている者の持つ感覚は完全に失われる。これは普通なら言い表しがたい恐怖となるだろう。
だけども聖職者は恐怖を感じない。理由は簡単。そこに神が在られることを信じているからだ。
おはようございます神様。今日から南の大陸での日々が本格的に始まります。
あなたの御心に適う行いができますよう、お力添えください。間違っていればお叱り下さい。
そして小弱なる私が、神の御業を用いることをお許しください。
神に話しかける。大仰な言葉や美辞麗句、形式なんて必要ない、真摯に真心で話しかけるのであれば、神はお怒りにはならない。
祈りの本質は神との対話だと僕は思っている。神様からお言葉を頂けることはないのだから、祈りや願いと言われるのだろう。
勿論、神様からお言葉を頂けるのであれば、それは至上の喜びだと思うけど、すこし恐れ多くもある。
より具体的な神秘の力をイメージすると、その力に至る光の道筋が示される。
今日も精一杯頑張ろう。
人の世に時間にして1時間弱の朝の祈りは終わった。
早々に身支度を整える。
礼拝用のローブではなく、鎧を身に着ける。
鎧は大部分が固い革で出来ていて内側には厚手の当て布、胸当てと補強の部分に金属の板が施されている。カテゴリーとしては中装鎧と呼ばれる類だ。鎧の傷みなんかを確認しながらあちこちのベルトを締め、ひもを結び、身に付けるだけなら急げば5分以内で完了するが、今日みたいにゆっくりだと10分以上はかかる。
腰にいくつかのポーチが固定されたベルトを巻き、腰に剣を固定する。
三日月刀は月の神の象徴的な武器だ。一般的にはシミターと呼ばれる曲刀に分類される。見た目的にも使いやすさも実はレイピアの方が好みなのだが、戦闘そのものがそれほど得意ではないのと、教会で下賜されるこの剣は聖印としての役割もある。
ああ、聖印ってのは教会や神様の象徴とでも言えばわかるかな。貴族の紋章みたいなものだ。見た目だけでなくて、神秘の力を行使する際に必要となる。
聖印は首にも下げているけど、荒事中に持ち替えるのは難しかったりするので、何かと都合が良いのがこの剣って訳だ。
ヘルメット代わりになる大型の額当てをつけて、荷袋を背負う。最後に円形の大型盾を左手に半固定して準備完了。
正直言って、フル装備状態は僕には体力的にかなりきつい。全身を金属鎧で覆う戦士連中が信じられない。
昨日までより3割ほど重い足音を立てながら階段を降りると、酒場の喧騒が一気に大きくなる。
夜ほどではないにせよそれなりの人数がいる。結構繁盛してるんだななんて思いながら、カウンターに座る。
「おはようございます。朝食をいただけませんか?」
カウンターにいたお婆さんと呼ぶには少し早そうな人間の女性に声をかける。
「あら、神官さん、おはようございます。朝食は銅貨2枚になります」
「ではこれで」
腰の革袋から銅貨2枚を出してカウンターに置くと、
「確かに。少々お待ちになってね」
そう言いながら奥に下がるとすぐに戻ってきた。
「どうぞ召し上がれ」
木のお盆の上にパンが数カットと恐らくは魚をベースにしたスープが載せられている。
「ご婦人、お忙しいところ恐縮ですが、少しよろしいですか?」
僕はすぐさま銀貨をカウンターに置いて彼女に話しかける。おばちゃん、と呼んでも怒られはしないと思うが、なに、モノは言い様ってやつだ。
彼女は素早く銀貨をしまい、
「朝の時間は結構忙しいんですよ?ですが少しでしたら」
満面の笑みを浮かべながらそう言った。
僕は彼女にシティに入る方法を聞いた。結果は昨日の衛兵の話と同じで、情報としては確定できた。
話の中でこの店の掲示板にも色んな依頼が張り出されていて、シティーガードからの依頼も混じっている。時折ハーバーマスターからの依頼も混じっていて、それはある意味チャンスとなるらしい。確実ではないものの、報告の際にハーバーマスターとの顔合わせもあるそうだ。
道具屋や薬屋、鍛冶屋なんかのことを少し聞いてから、
「ありがとうございました」
そう言って食事を始める。
そのあとも彼女はしばらくそこに留まり、近所のいざこざとか、怪しい幽霊話とか、現在のトピックスを話してくれた。
そうしている間に僕は食事を終え、席を立つ。
「ごちそうさまでした。出かけてきますので、鍵をお返ししておきます」
「気を付けて行ってらっしゃいな、あ、ご出立、ではないのよね?」
「はい、契約期間中はご厄介になるつもりです」
そう言って一礼し、入り口付近の掲示板に向かう。
掲示板はこの港湾地区の縮図のようで、仕事の求人、問題解決の依頼、パーティーメンバーの募集に、個人的な伝言。一目見てなんのことやらわからないメモ。とにかく無秩序で、混沌としている。
順番に見ていく中で一つの依頼書に目が止まる。
<倉庫内の清掃業務>
内容:ハーバー地区の倉庫内に多数のクモが生息し、倉庫が使用不可能になっている。速やかにこれを駆除し、安全を確保してほしい。
依頼者:シーガル・ボロスコイ (ボロスコイ商会)
報酬:金貨1250枚 (実際の支払いは白金貨100枚と金貨250枚) 清掃後に確認の後支払い。
これが目についた理由は
「このタイトルじゃ冒険者の目に留まらないだろ」
と思ったからだ。シティーガードが関与していないという事は周囲への被害が出ていないという事だ。おそらくは、それ程大型のクモではないし、物凄く大量という事もないだろう。内容からすると支払いは悪くない。勿論予想が当たっていればだが。
安全確実な冒険なんてない訳だし、ここはひとつこれに着手するか。そう思い、出かけようとした時に
「お、いたいた、神官さん」
突然肩を叩かれて呼び止められた。
振り返ると、どこかで会った顔、そうだ、昨日話をした船員だ。名前はえっと・・・
「サザーランドだよ、神官さん。忘れちまった?」
「もちろん覚えていますよ、昨日はありがとうございました。それで、私に何か御用でしょうか?」
形式通りのお辞儀をして礼を述べてから、率直な疑問を投げかける。
「いや、実は神官さんに相談があってよ、悪いんだがとりあえず話を聞いちゃくれないか?」
少しだけ面倒ごとの予感。だけど無下に断ることは出来ないので、近くのテーブル席に座り、カウンターの方に目をやると、さっきのおばちゃんがこちらに頷いて近づいてきて、僕が言葉を出す前に薬湯の入ったカップを二つ、テーブルに置いた。
「これはサービスだよ」
彼女の言葉に二コリと笑いながら「お姉さん、ありがとうございます」と言って見送る。そしてサザーランドの方に向き直ると、いかにも聖職者な口調を意識して言った。
「さて、お話を聞かせてください」
25/02/17 誤字脱字の修正、一部表現の修正を行いました。