おまけ 美雨って名前で呼んでみよう
さて、哀川さんと恋人同士になって2週間が過ぎようとしている。
最近の俺には悩みごと……というか、解決すべき問題があった。
それは――。
「もー、ハルキ君、また付け合わせにブロッコリー出すの? あたし、ブロッコリー嫌いって言ったのにぃ」
はい、哀川さんの食べ物の好き嫌いについてです。
俺の彼女、実は結構な偏食だった。
付き合う前は我慢して食べてたみたいなんだけど、恋人同士になって甘えん坊癖が出るようになり、次第に嫌いな物を主張するようになってきた。
今も哀川さんはキッチンに立っている俺の後ろから顔を出し、唇を尖らせている。
「ねー、ブロッコリー、やー」
「好き嫌いしてたらダメだよ。嫌いなものを避けてたら栄養が偏っちゃうんだから」
フライパンのなかのニンジンとジャガイモとブロッコリーを混ぜながら、口を酸っぱくしてお説教。
ちなみに今日の夕飯はハンバーグだ。
そっちはもう出来ているので、今はつけ合わせに火を通している。
「分かってるわよー。でも嫌いなものは嫌いなんだもん」
だもん、と同時に俺の肩に細いあごを乗せてくる。
くっ、可愛いなぁ……っ。
でもこの可愛さに負けたら、哀川さんの健康は守れない。
「分かってるならちゃんと食べてね? 哀川さんのために作ってるんだから」
「ニンジンだったら食べるわ。ハルキ君のニンジンと交換しましょ?」
「だめだめ。ブロッコリーはタンパク質が豊富だし、カリウムやビタミンKも摂れるんだ。全部、体に必要な栄養素だから、好き嫌いしてたら大きくなれないよ?」
「あたし、好き嫌いしててもとっくに大きいわよ? ハルキ君も知ってるくせにー」
と言うや否や、俺の背中に大きい胸をむにゅうと押しつけてくる。
うわ、柔らかい……っ!
「ほらほらぁ? ブロッコリーとニンジンを交換してくれたら、この大きいのでハルキ君の好きなことさせてあげる。何かあるでしょ、あたしにさせたいことやしたいこと」
くっ、なんて小悪魔的な誘惑なんだ……っ。
当然ながら付き合う前はここまでの攻撃はされなかった。
恋人同士になったからこその大ピンチだ。
正直、思わず理性が負けそうになってしまう。
でも俺とて、かつては僧正を名乗った男。
哀川さんの健康と誘惑を天秤にかけて、負けることなどありはしない。
「ごほん」
わざとらしく咳払い。
実は俺には一つ秘策がある。
以前から哀川さんは『パパみ』に弱そうな節がある。
なのでここは一つ、それを全開にして、
「あまりパパを困らせるんじゃありません。ワガママ言ってないで好き嫌いせずにちゃんとブロッコリーも食べなさい。いいね――」
肩越しに振り向き、言い聞かせるように告げる。
「――美雨?」
名前を呼んだ。
あたかも娘を諭す父親のように。
その瞬間だった。
「ふえっ!?」
哀川さんが仰け反った。
カァァァッと赤くなり、猛烈な勢いで狼狽え始める。
「なっ、なっ、なに!? なんなのいきなり!? なんで名前っ!? それもパパみな感じで!」
……あれ?
思った以上に効いてるみたいだ。
いや確かに初めて名前で呼んだってこともあるけど……それ以上のダメージを叩き出せてる気がする。
ひょっとしてパパみに名前呼びが哀川さんのクリティカルなのかな?
「んー……」
「ちょ、聞いてる!?」
「よし、試してみよう」
「なにをっ!?」
警戒心全開で後ずさる、哀川さん。
一方、俺はフライパンの火を止めて、颯爽とエプロンを翻す。
「聞きなさい、美雨」
「な……っ!?」
「ブロッコリーは栄養満点なんだよ、美雨」
「ちょ!? や……っ!」
「それに美味しい。バターで焼いて、コンソメの素で味付けしてるから、とても美味しい。わかるね、美雨?」
「もっ、ほんとにっ、も……っ!」
言い聞かせるように一歩一歩近づいていく。
そうして壁際まで追い詰めると、ついに根負けしたように哀川さんは叫んだ。
「もうわかった! 食べるっ、食べるからっ! だからお願い許して、パパーっ!」
勝った。
イクメンの勝利だ。
俺が完全勝利の余韻に浸っていると、哀川さんが真っ赤になってポカポカとエプロンの胸を叩いてくる。
「もう、なんなのっ!? いきなり名前呼びしてパパみで迫ってくるとか……変態っ! ハルキ君の変態っ! もう~っ、彼氏に変な性癖植え付けられたーっ!」
おお……っ。
どうやら元からあった性癖じゃなくて、俺が今この瞬間に目覚めさせてしまったらしい。
なんだろう。
男としてちょっと鼻高々な気分だ。
それに、
「ほら、せっかく恋人同士になったのに、まだ名前で呼んでなかったから。いい機会だと思ってさ」
「それは……あたしも思ってけどぉ」
まだ赤い顔のまま、ぽすんっとおでこを俺の胸に押し当ててくる。
「じゃあ……あたしも?」
「うん?」
「あたしも……名前で呼べばいい?」
哀川さん――いや美雨が窺うように見つめてくる。
俺は笑ってうなづく。
「そうしてくれたら嬉しいな」
「ん……じゃあ、なんて呼ぶ?」
「なんでもいいよ?」
普通に音也とかでもいいし。
でも美雨はちょっと考えるような間を置く。
そして、ぽんっと手を叩いて、『これ名案っ』という顔で言った。
「じゃあ、オトさん!」
「それ、お父さんだよね?」
思いっきり性癖を引きずっていた。
しかも無自覚だったらしい。
美雨は愕然とし、顔を引きつらせる。
「あ、あたし、本当に植え付けられたぁ……っ」
「みたいだね。ご愁傷様」
「責任取ってよね!?」
「取る取る。言われなくても取るから。それより呼び方はどうする?」
「む……」
美雨はまた考え込む。
そのまま10秒ほど押し黙ると、何か思いついたように顔を上げた。
ただ照れくさいらしく、頬を染めて視線をさ迷わせる。
「えーと……」
「うん」
俺のうなづきに、彼女はおずおずと口を開いた。
「じゃあ……音クン、とか?」
「…………」
おお、新鮮だなぁ。
今までの人生で呼ばれたことのない、呼ばれ方だった。
「ちょっと、なんで黙るのよ!? だめなの!? だめってこと!?」
「だめじゃない、だめじゃない。良いと思うよ」
「本当に? 変な気を遣ってない?」
「遣ってないよ。だからこれから音クンって呼んでよ――美雨」
「……っ!」
極めて自然に言ったつもりだった。
でも彼女はピクッと反応し、また見る見る赤くなってしまう。
そしてうつむくと、肩を小刻みに震わせてつぶやいた。
「……やっぱり禁止」
「へ?」
「お互い、まだしばらく名前呼び禁止―っ!」
「なんでぇ!?」
仰天して俺は目を白黒させる。
そこにビシッと指を突きつけてくる、美雨……いや哀川さん。
「だって、なんかあたしの方がダメージ大きいっぽいし! そんなのズルいし! だからしばらくはまだ苗字のままね。はい、決定!」
「ええー……」
「恨むんなら、彼女に変な性癖を植え付けた自分を恨みなさい」
「そんな理不尽なぁ……」
俺も噛まれるのとか色々植え付けられてるんだけど。
でも一度言い出したら彼女は聞かない。
「ほんと、反省してよね?」
「はいはい」
苦笑しながら俺はフライパンの火を付け直す。
哀川さんもまた背中に抱き着いてきて、見守られながら料理を再開。
というわけで。
俺たち、まだしばらくは『哀川さん』と『ハルキ君』のままみたいだ。
まあ、いいか。
時間はまだまだ山ほどある。
ゆっくり、ゆっくり、2人で幸せになっていこう――。
【完】
これにて哀川さんルートは完結です。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
また今日から新作で『ゆにちゃんルート』を始めました。
時系列を哀川さん登場前に戻し、
初手ほぼ告白で春木のハートをぶち抜き、
ひたすらゆにちゃんが幸せになるためのイチャイチャ祭りです。
またお付き合いいただけたら幸いです。
〇後輩美少女の片思い相手がどう聞いても俺なんですが
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