第51話 幸せな日々へ歩いていこう
陽はとうに暮れていた。
俺は今、アパート近くの公園にいる。
ひとりでベンチに座っていた。
「ゆにちゃ……」
名前をつぶやきかけ、首を振る。
……もうその名で呼んではいけない。
「小桜さん……か」
期間で言えば、こうして苗字で呼んでいた時間の方が圧倒的に長い。
なのにどこか呼びづらさのようなものを感じた。
「…………」
ゆにちゃん――いや小桜さんと話をした後。
俺は教室に戻って通学鞄を持ち、帰路に着いた。
けれど真っ直ぐアパートには帰らず、こうして夜の公園にいる。
ひどく……胸が痛かった。
「…………」
無意識にワイシャツの胸元を掴む。
罪悪感や喪失感、ありとあらゆる痛みが心のなかで渦巻いていた。
俺は今日、小桜さんを傷つけた。
俺に好意を寄せてくれていた女の子を……途方もなく傷つけた。
彼女は利用しただけだと言った。
クラスでの地位を確立するために、先輩がちょうど良かったのだと。
それがウソだってことは当然、一瞬でわかった。
「…………」
彼女はなぜウソをついたのか。
それもまた……すぐに気づいた。
「俺のため……」
空を見上げる。
別れ際、彼女がそうしていたように。
俺は――彼女の泣き顔を見ていない。
記憶に焼き付いているのは……どこまでも気丈な、気高い姿。
それが俺に罪悪感を抱かせないためだってことは、考えるまでもなかった。
だったら……。
「……背負っていこう」
俺は今日、小桜さんを傷つけた。
その事実から目を逸らすことなんて出来ない。
彼女は最後まで気丈に振る舞ってくれたけど、俺はこの痛みを手離すことなんてしたくない。
だって、彼女の方がずっと痛かったはずだ。
俺の何十倍も何百倍も辛かったはずだ。
だから背負っていく。
この胸の痛みと共に、幸せな日々へ歩いていこう。
それが俺を送り出してくれた彼女への礼儀だ。
「……うん」
一つうなづき、俺はベンチから腰を上げた。
大きく息を吸い、自分の両頬をバチンッと叩く。
「よし、帰ろう」
そうして俺は歩きだす。
哀川さんの待つ、アパート。
俺が帰るべき場所へと――。
◇ ◆ ◆ ◇
そうして、アパートの敷地に入ったところで、思わず足を止めた。
「あ……」
俺の部屋に灯かりが点いている。
もちろん哀川さんだろう。
食堂で鍵を渡しておいたから、先に帰っているのだ。
ただ……。
「……初めてだな」
帰ってきた部屋に灯かりが点いている。
このアパートに引っ越してから、初めてのことだった。
なんだかポッと胸に光が灯ったような気持ちになった。
「んー……」
多少迷ってからインターホンを押した。
自分の部屋なのに、変な感じだ。
ピンポーン……。
呼び鈴が鳴り響くと同時、ドアの向こうで慌ただしい足音。
すぐさまガチャッとドアが開いた。
「ハルキ君!」
慌てた様子で哀川さんが顔を出した。
その顔だけでめちゃくちゃ心配しながら待っていてくれたのが伝わってきた。
胸の中の暖かさが大きくなっていくの感じる。
俺は自然に笑みを浮かべて言う。
「ただいま」
「あ……お、おかえりなさい」
おかえりなさい。
久しぶりに聞いたその言葉に、思わず心が揺れそうになってしまった。
「ハルキ君?」
「あ、ごめん。なんかちょっと新鮮で」
「そ、そうね……とりあえず、上がって」
「いや俺の部屋だよ?」
「そ、そうだけど!」
慣れないやり取りに哀川さんもテンパってるみたいだ。
俺は部屋に入って、とりあえず鞄を置く。
すると哀川さんの方はキッチンでゴソゴソし始めた。
「お茶、淹れるから」
「哀川さんがやってくれるの?」
「そ、そうよ。悪い?」
「いやいや、むしろありがたいけど」
いつもは俺が淹れてるから、なんか苦笑してしまう。
あと慣れてないらしく、哀川さんの手つきは危なっかしい。
手がぷるぷるしていて、ちょっとお茶葉をこぼしそうになっている。
「手伝おうか?」
「い、いいから! ハルキ君は座ってて!」
そして、なんやかんやで2人分の紅茶がテーブルに用意された。
俺はそれをありがたく頂く。
で、その間も哀川さんのじぃー……という視線が突き刺さっていた。
うん、わかってる。
気になって気になって仕方ない、って哀川さんの顔に書いてあるから。
もちろん、気になってるのは紅茶の入れ具合じゃない。
ティーカップをコトッとテーブルに置き、俺は口を開く。
「話してきたよ。ゆ……」
また言い間違えそうになった。
一抹の淋しさを覚えながら、俺は言い直す。
「いや……小桜さんと」
「あ……」
その一言で全部伝わった。
哀川さんは少しだけ目を伏せ、それから労わるように言葉を紡ぐ。
「お疲れさま、ハルキ君」
「ううん」
俺は何も疲れてなんてない。
それにこのことで哀川さんに慰めてもらってはいけない。
だから早々に話題を変えることにした。
「小桜さんの件はこれで終わり。それじゃあ……」
夕飯を作るよ、と言おうと思った。
でも次の瞬間、哀川さんがなぜかものすごく過剰反応した。
「は、はい! なになにっ!?」
「へ?」
背筋をピンッと伸ばして、きっちり正座。
顔は緊張しまくりで、頬も紅潮している。
え、なに?
どうしたの?
俺は目を瞬き、直後に気づいた。
「あっ」
小桜さんとの話は済んだ。
通すべき筋はこれで通した。
ということは――。
あとは哀川さんに告白するだけだ。
いやだけどっ。
俺は思わず叫んでしまう。
「え、今っ!?」
「へ?」
今度は哀川さんの目が点になった。
だけどすぐにかぁーっと頬が赤くなっていく。
もちろんさっきとは違う意味で。
「ち、違うわよ!? 別に期待したわけじゃないからね!?」
「いやでもピンッと背筋を伸ばして、正座してるし……」
「これはハルキ君が意味ありげに『それじゃあ……』なんて言うから! 今の間であんなこと言われたら、『く、来るの!?』って思うでしょ!? むしろ『い、今!?』って思ったのはあたしの方だからぁ!」
「あ、ああ、それはすみません……っ!」
「本当よ。まったくもう!」
確かにさっきの言い回しは良くなかったかもしれない。
言われてみると、『それじゃあ、夕飯を作るよ』のタイミングでもなかった気がする。
哀川さんは黒髪の毛先をせわしなくいじりながら唇を尖らせる。
「反省してよね? 全力の反省よ?」
「ごめんごめん、反省します。全力で反省します」
「だったらいいけど……」
「うん……」
「…………」
「…………」
あ、あれ?
なんか……変な間が出来ちゃったぞ?
どうにも落ち着かず、俺は哀川さんをチラッと見る。
すると、同じタイミングで彼女もこっちをチラッと見ていた。
「「あっ」」
声までハモってしまった。
なんかメチャクチャ恥ずかしい!
「お、俺、飲み終わったからカップを洗おうかなっ!」
「あっ。だ、だったら今日はあたしが……っ」
俺はテーブルの上のカップを掴もうとする。
でもほぼ同時に哀川さんも手を伸ばしてきた。
視界に入ったのは、春色のネイルの指先。
哀川さんの手のひらと指先が絡み合った。
途端、心臓が跳ね上がってしまった。
「「~~~~っ!」」
顔が熱い。
見れば、哀川さんの顔も真っ赤になっていた。
え、なんで?
なんで今さら……手が当たったくらいでこんなにドキドキしちゃうんだ!?
「ハ、ハルキ君……」
潤んだ瞳が見つめてくる。
可愛い。
真っ赤な顔で見つめてくる哀川さん、ひたすらに可愛い……っ。
思わず手のひらをぎゅっと握ってしまった。
「哀川さん……」
ヤバい。
胸の高鳴りが収まらない。
これは……今なのか?
もう……今言ってしまうべきなのか?
でも告白って、ちゃんとデートとかをしてからな気もするし、ああでも言いたい……っ。
この場で伝えてしまいたい……っ。
正直、もう我慢できそうになかった。
「あ、哀川美雨さん!」
「は、はいっ!」
俺はテーブルに前のめりになって彼女を見つめる。
その視線を受け止めて、哀川さんは息を飲む。
「……っ」
氷の宝石みたいな瞳。
艶やかな黒髪。
人形のように整った顔立ち。
美しい彼女を見つめて、口を開く。
「俺っ、君のことが――」
しかしあと一言というところで。
「ごめんなさいっ!」
「ええええっ!?」
俺の手を振り払って、キッチンに逃げられてしまった。
「お、俺、今フラれたぁ!?」
「ち、違う違う違う! その『ごめんなさい』じゃなくてっ!」
哀川さんはキッチンの壁から顔を半分だけ出して、こっちを窺ってくる。
「い、色々いきなりだったからドキドキしちゃって……ごめんなさい」
頬を赤らめて、シュン……とした顔。
くっ、可愛い……っ。
つい悶絶してしまった。
正直、この可愛さだけでもう全部許してしまえる。
だけど、ここで有耶無耶になってしまうのも違う気がした。
ここはきっと俺が男を見せるべきところだ。
「哀川さん……次の休み、空いてる? いや空けてほしい」
「え?」
自分の顔が赤くなっているのを自覚しつつ、俺は彼女の方を真っ直ぐ見つめる。
「俺とデートして下さい。あなたに伝えたいことがあります」
「あ……」
トクンッ、と彼女の鼓動が聞こえた気がした。
哀川さんは真っ赤な顔でうつむくと、とても小さくコクンとうなづく。
「はい、わかりました……」
こうして、すごくドキドキした空気のなか、俺と哀川さんのデートが決まった。
俺たちは幸せな日々へ歩いていく――。
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