第50話 たとえこの恋が終わっても、わたしはずっとあの人を想い続ける(ゆに視点)
――ぜったい、泣かないって決めてた。
土曜日、わたしは自分の恋の終わりを知った。
そして今日、月曜日。
手芸部には顔を出さず、一人になった教室で待っていると、思った通り春木先輩からメッセージが来た。
『ゆにちゃん、いまどこ?』
『ゆにちゃんと話がしたいんだ』
はあ、と小さくため息がこぼれた。
最近、わたしは策がまったく上手くいかない。
なのにこんな時ばっかり予測通りだなんて。
わたしは返信を打つ。
指先がわずかに震えていることには、気づかないフリをした。
大丈夫。
わたしは策士。
ハイレベルなウソつきだ。
自分を騙すことぐらい、簡単だから。
『初めて会った橋に来て下さい』
『そこで待ってます』
そう打ち込んで、教室を出た。
先に着いたのは、わたしの方。
コンクリートの小さな橋。
車がたまに通るくらいで、人影はほとんどない。
「ああ、ちょっと暑いかも……」
暦は七月。
小川のせせらぎは涼しげだけど、陽射しは照り付けている。
あの冬の日とはまったく逆だった。
あの日は寒くて寒くて……身も心も凍えそうだった。
大好きだったおばあちゃんが死んじゃって、胸の痛みを家族の誰にも話せなくて……受験も何もどうでもよくなって、わたしはこの橋の上で自分を見失っていた。
そして真後ろをトラックが通り、形見のポシェットが引っ掛かって宙を舞い、そのまま川へ落ちていきそうな時に――。
「……春木先輩が来てくれたんですよね?」
わたしは橋の手前に姿を現したその人に話しかけた。
やってきたのは、もちろん春木先輩。
控えめな雰囲気で、容姿に目立つようなところはない。
だけどよく見ると結構、可愛い顔をしているとわたしは気づいている。
「……懐かしいね。あれから半年以上も経ってるなんて思えないよ」
春木先輩は少し目を伏せ、とても自然にうなづいてくれた。
わたしがあの冬の日のことを考えていたと、当たり前のように察してくれている。
そういうところもわたしは……。
「…………」
やめよう、と思って、自分の思考を断ち切った。
今さら春木先輩の良いところを考えたってしょうがない。
やるべきことをやる。
そのためにこの場所を選んだんだから。
「わたしに何か話があるんですよね? なんですか?」
「うん」
先輩は短くうなづいた。
「来てくれてありがとう。ゆにちゃんに話したいことがあるんだ。誰よりもまず、君に話すべきだと思ってた」
一瞬、春木先輩は目を閉じた。
きっと覚悟を決めるための間だったんだろう。
大きめの車がわたしたちの横を通り抜ける。
それが過ぎ去ると同時に、先輩は口を開いた。
真っ直ぐにわたしを見つめて。
「哀川さんに告白しようと思う」
……ああ。
ああ。
ああ。
ああ……っ。
言葉が出なかった。
覚悟してたはずなのに思考が完全に止まってしまう。
だけど、意地だけは手離さない。
わかってた。
全部わかってた。
だから――ぜったい、泣かないって決めてた。
わたしは唇を引き結ぶ。
そうやって心のなかで荒れ狂う波を押さえつけた。
気持ちを制御しろ。
思考を回せ。
ぜったいに泣くな。
出来る。
わたしなら出来る……!
「なんとなーく気づいてました」
自分に笑顔を張り付けて、わたしは小首をかしげる。
「週末、哀川先輩と旅行にいってたんですよね?」
「知ってたの?」
意外そうな顔。
どうやらアパートの三上先輩は土曜日にわたしが行ったことを黙ってくれていたらしい。
好都合だ。
これでアドバンテージが取れる。
「策士の情報網を甘く見ないで下さい。春木先輩のやることなんて、わたしには全部お見通しです」
ふふん、と胸を張ってみせる。
「ちなみにですね? 春木先輩が哀川先輩にお熱なのもとっくに気づいていましたよ?」
これはウソ。
本当は土曜日に立ち上がれないほどショックを受けていた。
だけど、今日は見栄を張らせてもらう。
「はい、ここでわたしから重要なお知らせがあります」
「お知らせ……?」
「ええ」
わたしはわざとおどけて、直角に頭を下げた。
「春木先輩、ごめんなさい!」
「え?」
突然謝られて、先輩は目を丸くする。
そこへ畳み掛けるように「えへ」と可愛い笑顔。
「わたし、これまで春木先輩に好意を抱いているっぽい言動をしてきたじゃないですか。あれ、実は全部ウソです」
「…………」
先輩は顔を強張らせ、言葉を返してこなかった。
だからわたしは流れるように話し続ける。
「ほら、いつかも話したクラスでの地位確立の一環です。わたし可愛いから、男子と女子の両方から好感度をゲットするためには、ちょうどいい片思い相手が必要だったんですよ」
「…………」
「その点、春木先輩はおあつらえ向きでした。距離を取りがちだから、変に勘違いしてわたしを好きになっちゃうこともないですし、こじれそうになったら夏恋先輩を盾にすればいいですし、こんなにちょうどいい人はいなかったんです」
「…………」
「だから謝っておきます。これまで利用しちゃってごめんなさい。でも最近、新しい策を思いついたんです。それを試してみたいから、もう春木先輩はお役御免です。これまでお疲れ様でした」
「…………」
「哀川先輩とのこと、応援してます。だいぶ重たい人だから苦労するでしょうけど、そこは春木先輩が選んだ道なので、頑張って下さいね」
「…………」
先輩はずっと黙っていた。
ずっと……とても困ったような顔でわたしを見ていた。
でもわたしの話に一区切りがついた途端、口を開こうとしてくる。
「ゆにちゃ――」
「だから!」
先輩の言葉を遮って、わたしは声を張り上げた。
さらに笑顔を張り付け、ニコッと微笑みかける。
「話は以上です。わたしの今までの態度は全部ウソなので、気兼ねなく哀川先輩とイチャイチャして下さい。むしろ……」
あ、マズい。
声が……震えそう。
「……むしろ、わたしのことを気にして……春木先輩の幸せの邪魔になっちゃったりしたら……申し訳が、ない……です……から……っ」
泣くな!
春木先輩から見えないように手を後ろで組み、手のひらに爪を突き立てて自分を叱咤する。
「ゆにちゃん……」
「以上です。これ以上、話すことは何もありません。もう行って下さい」
どうにか言葉を絞り出し、必死に奥歯を噛み締める。
ぜったい、泣かないって決めてた。
ぜったい。ぜったいにだ。
だって。
だって。
だって。
春木先輩は優しいから……間違いなく、わたしをフッたことに胸を痛める。
きっとこの先、何年も何年も、わたしへの申し訳なさを抱えて生き続ける。
――そんなこと、させてたまるか。
わたしはこの人がどれだけ辛い思いをしてきたかを知ってる。
子供の頃にご両親が亡くなって、親戚に物のように扱われて、春木先輩は自分の痛みにすら気づけずに生きてきた。
わたしは知ってるんだ。
幼馴染という地位に甘んじている夏恋先輩とは違う。
突然現れた、ぽっと出の哀川先輩とも違う。
春木音也という人を一番真っ直ぐ見続けてきたのは、このわたしだ。
だから分かる。
この人が誰かに『告白したい』と思えるようになったことが、どれほど途方もない奇跡なのか――わたしだけが理解できる。
だったら、何があっても邪魔なんてできない……っ。
たとえ自分の恋心を否定してでも、春木先輩を幸せに向かって送り出す。
これは意地だ。
あなたの幸せを心から願う、わたしの意地。
だから、ぜったいに泣かない。
どんなに辛くても、ウソを貫き通して送り出す。
そう決意していたのに――。
「たとえ……」
とても静かな声で、彼は言った。
「たとえ、ゆにちゃんの態度が全部ウソだったとしても、俺は――」
その言葉は、まるで温かい雪のように。
わたしへと降り注ぐ。
「――救われてたよ」
「……っ」
瞳が揺れた。
視界がぼやけて、先輩の姿が霞んでしまう。
その直前に見えたのは、照れくさそうな笑み。
「ほら俺、両親は死んじゃって、親戚とも険悪で……たぶん、自分を肯定することがずっと出来なかったんだ。そんななかで、ゆにちゃんが好意を向けてくれて……」
風に乗って、先輩の声が届く。
わたしの好きな人の声が。
「……嬉しかった。初めて自分を肯定してもらえた気がした」
だから、と言葉は続いた。
いつの間にか空は赤く染まっていて。
夕焼けが川の水面をきらきらと光らせていて。
温かい言葉がわたしの胸へと降り注ぐ。
美しい雪が草原を白く染め上げるように。
「ありがとう。君の想いは俺を救ってくれました」
……ああ。
駄目です。
本当に駄目ですよ、春木先輩。
その言葉は……わたしのウソを全部見抜いてる言葉じゃないですか。
こっちが必死にウソをついてるんだから、そこは騙されたフリをしてもらわないと……。
でも。
だけど。
あなたの言葉で、わたしも少しだけ救われました。
だから。
胸を張って、このウソを貫きます。
「話の通じない人ですねえ、春木先輩ってば」
やれやれです、とわたしは首を振って演技する。
声は震えていて、視界もぼやけてしまっていて、お世辞にもいい演技じゃないけれど。
それでもやり抜いてみせる。
ほんの少しでもいい。
好きな人の心が軽くなりますように。
幸せへと歩いていけますように。
祈りを込めて。
「わたしは誰でも良かったんです」
ぜったい、泣かない。
「たまたま、近くにいた春木先輩に白羽の矢を立てただけなんですよ」
ぜったい、泣かない。
「だから先輩が誰と付き合うことになろうと、まったく構いません」
ぜったい、泣かない。
「分かったらもう行って下さい。わたしも暇じゃないんです」
ぜったい、泣かない。
「あと呼び方ですけど、もう『ゆにちゃん』はやめて下さいね? 哀川先輩と付き合うのなら以前の『小桜さん』に戻して下さい」
その言葉に一瞬、本当に一瞬だけ、春木先輩は切なそうな顔をした。
……ああ、しまった。
ほんのわずか強張ったその表情で、気づいてしまった。
この人も……わたしと同じように、必死に感情を隠そうとしているんだって。
だけど、それでもわたしの想いを汲んで、先輩は小さくうなづく。
「……うん。わかった。もう……行くね。それじゃあね……」
ゆっくりと背を向けながら、名を呼ばれる。
「……小桜さん」
「――っ」
その瞬間、わっと涙が溢れそうになった。
自分で言い出したことなのに、先輩の声で呼ばれた途端、心が揺れ動いてしまった。
ダメ……!
まだ泣いちゃダメ!
あの人が立ち去るまでは、泣くわけにはいかないの……っ!
フッた時の最後の姿が泣き顔だったら、きっと何年も記憶に焼き付いてしまう。
それは幸せの足枷になる。
だからまだ泣くわけにはいけない。
わたしは奥歯を噛み締め、トレードマークのポシェットを握り締める。
お願い!
力を貸して、おばあちゃん……っ!
全身全霊で涙をせき止めた。
そうしてあの人が完全に背を向ける間際、わたしは最高の笑顔を浮かべる。
決して言えない、想いを込めて。
「さようなら、わたしの初恋の人」
そうして、夕焼け空を見上げた。
彼の足音が遠ざかっていく。
どれだけ時間が経っただろうか。
とても長く感じたけど、ほんの数十秒だったと思う。
ふいにわたしの背後から足音がした。
それが誰かはわかってる。
だからわたしは空を見上げたまま訊ねた。
「夏恋先輩……もう、春木先輩はいないですか……?」
道の先を見ようと顔を下げたら、涙がこぼれてしまう。
だから聞くしかなかった。
「……大丈夫よ。音也はもう行っちゃったわ」
その声は大泣きした後みたいに掠れていた。
「夏恋先輩の方には……哀川先輩が?」
「ええ。負けたわ……完全に打ち負かされた。私はもう……あの2人に追いつけない」
予想通りだった。
春木先輩がわたしへのけじめを付けるなら、哀川先輩は夏恋先輩を打ち負かしにいくだろう。
その後、わたしを心配して夏恋先輩が探しに来てくれることも……わかってた。
「夏恋先輩、わたし……」
もう春木先輩はいない。
「わたしは……」
もう我慢しなくていい。
だからウソのない、本当の言葉を叫ぶ。
「わたしは……っ」
夕焼けのなか、閉ざしていた扉を開け放つように。
「春木先輩が好きでしたぁ……っ!」
その途端、ずっと我慢していた雫がこぼれた。
「ゆに、おいで……!」
両手を広げた、夏恋先輩の胸に飛び込む。
「ずっと、ずっと好きだったんです!」
「うん、うん……っ」
「だってわたしの心を救ってくれたんだもん……! おばあちゃんが巡り合わせてくれたって思ったんだもん……っ!」
「うん、うん……っ」
「なんでっ、なんでわたしじゃダメなのぉ……!?」
ぜったい、泣かないって決めてた。
でも、もうわたしの好きな人はいない。
「う、ぁ――――っ」
初恋の人と出逢った、初恋の人がいない橋の上、そこで――ようやく、わたしは泣いた。
だけど、後悔なんてしない。
好きにならなければ良かったなんて思わない。
わたしはウソつきだけど、この気持ちには何一つ偽りなんてなかったから。
断言できる。
忘れる日は来ない。
一生、傷つき続けたって構わない。
たとえこの恋が終わっても、わたしはずっとあの人を想い続ける――。
次回更新:明日
次話タイトル『第51話 幸せな日々へ歩いていこう』




