第44話 父親と哀川さんと、春木パパ
バスに乗って、さらに1時間半。
下りた先には広い平野と青い空が広がっていた。
北海道という感じだった。
青々とした草のなか、アスファルトの道が一本だけ通っていて、そこから枝分かれした細い道沿いにぽつぽつと家が建っている。
俺はスマホを取り出し、哀川さんの父親からの手紙に書いてあった住所を検索。
「たぶん、あの家だと思う」
指差したのは、くすんだ灰色の平屋。
哀川さんの父親が住んでいる家だ。
低めの生垣に囲われていて、その向こうの庭には物干し竿が見える。
洗濯物からは子供のいる家庭の気配がした。男性物のシャツや女性物のエプロンの他に、子供服がいくつか乾かしてある。
「……ん」
哀川さんが小さく返事をした。
数秒の間を置いて、歩きだす。
その後ろにぴったりと寄り添うように俺もついていった。
カーディガンに包まれた哀川さんの背中からは強い緊張感が伝わってくる。
そこへ俺は声を掛ける。
「一緒にいるから」
「……うん」
小さく返事をし、哀川さんが肩越しに少しだけ振り返る。
そして念を押すように一言。
「そばにいてね……?」
「いるよ。ずっといる」
「……うん」
うなづきと共に、目の前の背中から少しだけ緊張感が抜けた。
やがて家の正面に着いた。
哀川さんは門扉の柱についたインターホンを押そうとし、少しだけためらい、でもグッと勢いをつけて強く押した。
ピンポーン……。
音が響く。
ひどく長い時間が過ぎたような気がした。
でもそれは気のせいで、実際には10秒程度のことだったのだと思う。
「はいはーい……」
玄関の扉の向こうから間延びした声が響いた。
哀川さんの肩が小さく震える。
そして扉が開いた。
「どちら様で――ん?」
出てきたのは、中年の男性だった。
ちょっと驚いたのは、哀川さんにどことなく似ていること。
若い頃はかなりのイケメンだったのだろう。
背が高く、顔立ちも整っている。
ただ、今はどこかみすぼらしく、自信なさげな雰囲気が漂っていて、見た目の良さを台無しにしていた。
着ているのは、ところどころほつれたセーターにシワのついたチノパン。
そんな格好の哀川さんの父親は、自分の家の前にいる女子高生と男子高校生を見て、不可解そうな顔をする。
「えーと……どちら様で?」
ああ、分からないのか。
わざわざ北の果てまで訪ねてきた、自分の娘なのに。
俺の胸に大きな落胆が広がっていく。
そしてそれは哀川さんも同じだったのだろう。
緊張から一転、静かな怒りが滲み始めたのが背中越しに分かった。
「どちら様なんて……随分な挨拶ね? 自分からこんな手紙を送ってきたくせに」
哀川さんはポケットに手を入れ、便箋を取り出して父親に見せた。
「え……」
父親は呆気に取られた様子だった。
自分が書いた便箋と目の前の女子高生を交互に見て、やがて呆然とつぶやく。
「み、美雨……なのか?」
十年以上の時を経た、再会。
分からなくても当然……なんて思わない。
他人の俺が似てると思うくらいなんだから、もっと早く気づいてくれよ、と思った。
「美雨……っ」
生き別れの娘がきた、と周回遅れで理解したらしく、父親は転びそうな勢いで玄関から出てきた。
ガチャガチャと音を鳴らし、慌てた様子で門扉を開く。
「わ、わざわざ会いに来てくれたのか……!?」
「……ええ、そうよ」
泣きそうな顔の父親。
もう怒りが溢れ始めている哀川さん。
ここだ。
この次の言葉が重要だ。
哀川さんを自分の娘だと認識して、わざわざ会いに来たのだと理解して、この父親が最初に何を言うのか。
それを俺は――おそらくは哀川さんも――聞き逃すまいと思った。
「こんなところまでありがとうな。遠かったろう? お父さんな、美雨に話したいことがたくさんあるんだ。手紙にも書いたけど、あの時はまだ美雨も子供だったし、ちゃんと話を――あっ」
意気揚々と話しだした父親だったが、ふいに何かに気づいたように言葉を止めた。
そして。
言った。
言いやがった。
「ええと、お母さん――今の妻が家のなかにいるんだ。こんなところを見られたら……ちょっと困ったことになっちゃうな。こんな大きな娘がいるなんて知ったら、きっとびっくりしちゃうだろうし……」
この人……哀川さんの存在を今の家族に教えてないんだ。
その上であんな手紙を送ってきたのか。
こんな身勝手な話があるだろうか。
反射的に怒鳴りつけてやろうかと思ったその時、哀川さんが先に口を開いた。
「ハルキ君」
もう心を決めた声だった。
その上で最後の一押しを求める言葉だった。
「勇気をちょうだい」
俺は間髪をいれずに応える。
「やっちゃえ、哀川さん!」
直後、パアンッと乾いた音が響いた。
哀川さんが父親を引っ叩いた音だ。
「へ……?」
父親は何が起こったのか分からなかったらしく、ひどく間の抜けた顔をしていた。
そこへ哀川さんの強い視線が突き刺さる。
「二度とあたしの人生に関わらないで」
「……っ。い、いや待ってくれ。ちゃんと、ちゃんと話をさせてくれ、美雨……っ」
「名前を呼ばないで。虫唾が走るわ」
「そんな……っ」
父親は愕然とし、しかし縋りつきそうな勢いで言い募ってくる。
「お父さんにはもう美雨しかいないんだ……っ。妻は結婚してからどんどん冷たくなるし、美晴も最近は母親の真似をして僕のことを小馬鹿にする……っ。僕の本当の家族は美雨、お前だけなんだ……!」
ああ、そういうことだったのか。
どうやらこの人は今の家族とも上手くいっていないらしい。
だから縋りつく相手が欲しくて、哀川さんに手紙を送ったのだ。
それが真相。
最悪な事実だった。
「なあ、美雨。お父さんって呼んでくれ! お前もお父さんがいなくて淋しかったろう? お父さんも同じなんだよ。だから――」
父親がふらふらと手を伸ばす。
すると哀川さんは、
「うるさい、ばーかッ!」
どこかで聞いたようなセリフを言い放ち、ビンタをもう一発。
さっき以上のフルスイングだった。
父親は「ぎゃっ」と悲鳴を上げてすっ転ぶ。
見事な一撃だったので、俺は思わず「おお……っ」と拍手をしてしまいそうになった。
倒れた父親を見下ろし、哀川さんは毅然と言い放つ。
「勝手なこと言わないで! 勝手に捨てて、勝手に放置して、それで今度は勝手に『お父さん』って呼んでくれって? そんな都合のいい話、あるわけないでしょ!」
黒髪をかき上げ、侮蔑の視線。
「あたしの人生にあんたなんていらない。こんな出来損ないの父親なんていなくても、あたしには全身全霊で支えてくれる、頼もしい男の人がいるもの」
そう言うと、哀川さんはぎゅっと俺の腕に抱き着いてきた。
すると父親は「なぁ……っ!?」と愕然とした表情で俺を見上げてくる。
「そ、そうだ……さっきから気になっていたんだ。き、君は……美雨の一体なんなんだ!?」
あー、そうだなぁ……。
ちょっと考え、俺は父親に一番ダメージがありそうな言葉を選ぶことにした。
哀川さんに抱き着かれたまま、真顔で答える。
「パパです」
「ぱぱぁっ!?」
お、やった。
会心の一撃だ。
普通ならそんなわけないって分かりそうなものだけど、混乱状態の父親には判断がつかなかったらしい。
まるで自分の居場所を盗られたみたいに、死ぬほどショックを受けていた。
大口を開けてガクガクと震えている。
そんな父親へ、哀川さんは便箋を丸めて投げ捨てた。
「一度捨てたものは二度と帰ってこないのよ。あたしを捨てた父親の謝罪なんていらない。二度と手紙も送ってこないで。それを言いに来たの」
俺の腕にぎゅっと抱き着き、哀川さんは言い放つ。
「あたしはこの人と生きていく。実の父親がくれなかったものは、全部この人が与えてくれた。悪いけど、あたし今、最高に幸せなの」
哀川さんに促され、2人一緒に背中を向けた。
「さよなら。もう振り向かないわ」
そうして俺たちは歩きだした。
背後ではまだ「美雨……美雨……っ」と懇願するような声が響いていた。
しかしそこへふいに別の女性の声が混じる。
「……ねえ、あなた、何なの今の娘? 妙にあなたに似てなかった? ……ん? なにこれ? 手紙……?」
「――っ! 待ってくれ。それは――っ」
「……む、娘ですって!? どういうことよ!?」
「ち、違う! 違うんだぁ……っ」
どうやら今の妻が家の中から俺たちとのやり取りを見ていたらしい。
声までは聞こえてなかったみたいだが、哀川さんが捨てた手紙を読んで事情を悟ったようだ。
因果応報というやつだろう。
しかしもう俺たちには関係ない。
「なんかすごいスッキリしたかも」
「それは良かった」
背中越しに夫婦の金切り声を聞きながら、俺たちは振り返ることなくバス停へと歩いていく。
………………。
…………。
……。
しかし。
最後に予想外なことが起きた。
バス停まで戻ってきた時のことだ。
その看板の裏に、
「お姉ちゃんたち、だあれ?」
哀川さんそっくりの小さな女の子がいた。
「お姉ちゃんたち、美晴のおウチに来てたよね? お客さま?」
女の子は可愛らしく小首をかしげる。
俺は驚いて足を止め、そして哀川さんは、
「ああ……会っちゃったわね」
困ったような苦笑を浮かべた。
次回更新:明日
次話タイトル『第45話 美晴ちゃんとお姉ちゃんと、スパダリお兄ちゃん』




