海原への道
夢と呼べるほど、幼少の頃から持ち合わせていた望みではなかった。また、その望みを義理や説明の都合上で、あるいはアルコールで口を滑らせ他者に打ち明けた時、「夢がある」と言われることを、男はひどく嫌った。
男は、海原に向かって歩いていた。
寄せては返す波や、小豆でも表現できるような波音が目的ではなかった。今、自分が求めるものがそこにあると信じたから、歩いていた。
これが逃避や希望的観測の類なのかは、たどり着いた先でしかわからないと思っていた。
男は路地を抜け、大通りに出る。
赤信号に停車するヘッドライト。善良なドライバーの放つ、ロービームのヘッドライト。身をよじり、男は片方の背を向ける。
そしてそれが通り過ぎる一瞬さえ、男は探し物をするような、フルマラソンを走り出すような素振りで下を向き、テールランプが遠ざかる頃、また滑稽なほど背筋を伸ばして歩き出す。
別に、人に見られるのが怖いわけではない。車を所有し乗り回す能力のある他者と今、対面するのは居心地が悪いだけだ。
誰に問われずとも、男は心中でそう話す。
しばらく歩くと、前後左右から照らされることはなくなり、その代わり、路傍の草木が茂るようになった。中でも、歩道までせり出した腰丈程度の植物。特徴的なのは、細い枝に一対になって並んだ小さな葉。
ふと思い出したあたたかく無邪気な記憶。それを懐かしみつつも、男は路傍から十分すぎるほど距離を置く。
触れるとひとりでに内側に閉じる、あの葉。
単調に絶え間なく繰り返した行為と生活。否応なくあの日々を想起させる名称。幼い時は不思議に輝いて見えたのが、今はうごめく節足動物を連想させる。
進むのは苦しい。だが、街へ引き返すのはより恐ろしい。
海辺ならば植物も少ないだろう。
そんな希望的観測に半身を任せ、男は粛々と歩みを進める。
やがて差し掛かる、街灯すらない道。手元の灯りだけを頼りに男は進む。
ずいぶん、遠くまで来た気がしていた。だがそれゆえに、男の中で育まれたものがあった。歩き始める前は、考えても仕方がないと切り捨てた。しかし時間が経つほど、振り返った道が遠く感じるほど、より強く、深く根を張る。
この道は海原へ続いているのか、という疑念。
進み続ければいつかたどり着けるのか。いくつか障害物を乗り越えればいいのか。それならいい。
有刺鉄線と高圧電流の金網で封鎖されているとわかるのも、まだマシなほうだ。
このまばらな街灯と曖昧な暗闇の繰り返しが、この道に横たわる全てだったら。
靴底と、コンクリートの破片が擦れる音が続く。
いっそのこと、がむしゃらに走り出せば案外すぐにたどり着くかもしれない。苦しい時間は短い方がいいに決まっている。
男はその場で数回屈伸し深呼吸した後、しばらく天を仰いだ。月も、星もない空。
大きく息を吐いて、男は進むべき足元を照らす。そして引き摺るような小さな歩幅でまた、歩き出した。
灯台の光が男を照らす。
鼻腔から気道まで結晶がつきそうなほどの潮風。黒々とした水面は右へ左へと揺れる。たとえ青くなくとも、間違いようのない海のあかし。
どこか寂しい気持ちで、男は海の全てを過去の自分の分まで飽きるほど受け止めて、笑った。
やがて男は、ゆっくりと立ち上がる。
コンクリートの上では残せない自分の足跡を、せめて砂浜に残すため。そして夜が明けた時、ふらつきながら波打ち際を目指す足跡を見つけた、誰かの口角を上げるため。
男は歩き続ける。