常ならむ
「この帳面は、この詩歌は白桜のものなのだね」
白桜の部屋、その窓辺に腰を下ろす童女の背に声をかける。
開け放たれた宵闇から吹く風が静かにその黒髪を揺らす。
「姉様はこの春に御身請けとなるはずでした」
振り返らず、ユキシロが呟く。
今宵の風は冷たく感じる。差し込む月光は淡く青い。
「此処は色恋売る街
愛する人を捨て、愛する自身を忘れ
雪の下に隠したあたしに春は終わりの季節
そう姉様は言って往かれました」
「それはつまり、その相手は……」
身請けの相手は山柴の坊なのだろうか。彼が殺した?
いいや、話の感触からその線は無いだろう。だが自殺の動機としては、
「あたしも最初は、山柴様が御身請けを撤回されたのだと
だから姉様は……
と、そう思いました」
ユキシロが窓辺より床へと腰を降ろし振り返ったが、視線はお膳の上に。
そこにある小さな薬瓶へ手を添えた。
「でもそうではないと、
イロハ坂を降りることはないと」
その薬瓶、白桜は何処から入手したのだろうか。
いいや、その詮索は今更と言えるのかもしれない。薬瓶に張られ書かれた横文字、舶来品だ。害獣薬殺用のものだろう。
「あたしの名前、雪白は姉様から頂きました」
女は立ち上がる。幼さ残るその背。
帯を解く音が静かに宵闇に寄り添う。月光が女の表情を隠す。
「今宵から此処はあたしの部屋と宛がわれました
ねぇ貴方様、
貴方様はあたしの最初のお客様なのでしょうか」
「生憎と、その役割ではないですよ」
岸山は女の傍らに腰を降ろし、薬瓶を手に取った。
それに代わって薄い帳面を御膳の上に置く。
「これは、
貴女が白桜から預かったものです
お返ししましょう」
青く差し込む月光の中、一枚のサクラの花びらが舞い込んだ。
「浅き夢見し、とは
いや是也如何に」
イロハ坂に舞う晩春のサクラ。
花街を背に、月明かりへと消えていく一枚の花びらを見上げながら、
岸山は呟いた。