色は匂へど
晩桜の季。
春はすでに始まっている、と言わんばかりに風に散り際の桜が舞っている。
その路を気怠そうに歩いていた岸山は立ち止まり、頬に張り付いた一片の花びらを摘まみ上げてしげしげと眺めた。
「散らして下さいな、とは
是也如何に」
その問いに桜の花びらが応えることはない。だが岸山はそこに答えがあるように思え、つい呟いた。
閉ざされた雪冬。だがこうして春となればすべては解け、見たくもないものが露呈する。はて、この桜はそれを知っているのだろうか。
午後の伸びたる陽光に、霞むように照らされた『小山田古書店』
その屋号へと、摘まんだ花びらを離して岸山は視線を移した。
カラカラと鳴る引き戸を開けて店内へと踏み入れる。自身の落とした影、その脇を区切る眩しいほどの白。全ては明確に「白か黒しかない」と。
「いやぁあ、今日は風が強い
これでは春を、桜を楽しむ暇もありませんね」
その問いに応える声はない。
引き戸を閉める。再び訪れたであろう薄闇と静寂。その中を岸山はゆっくりと進んだ。古書特有の香りに交じった花の香り。ここは古書と共に季節があるか。それとなしに棚にある本の銘を眺め歩く。
「とはいえ、ここは時が止まってますから関係ありませんか」
「……、店内では他のお客様に迷惑になりますから、お静かに願います」
店の奥、会計のために設けられた小さな番台。そしてその番台に積まれた本と本。僅かな隙間から鈴のような声が静かに響く。
「おっと、これは失礼」
そう岸山は応えたが、店内に他の客はいない。
何の用途かわからないが、番台の前にこじんまりと設えた椅子。そこに岸山は腰を下ろした。
「店長は、いないか」
「刑事さんって意外と暇なのですね。いや岸山さんて暇なのですね」
全く以て岸山の問いかけとは違う答えが返ってくる。
ここの店長の孫娘、小山田佳凛。今日は店長に代わって店番か。問いかけに返答はするものの視線は手元の本に落としたまま。学校の制服のまま。色気など無く、そのまま空気のように佇む。
「いやいや、
こう見えてちゃんと仕事しているし、割と頻繁に切羽詰まっているのだよ」
「そうは見えないですけどね」
パサリと、佳凛のページをめくる音が挟む。
「切羽詰まりすぎるから、ここで息抜きしてるのだって」
「で、今日も何も買わずにここで時間つぶしですか」
「相変わらず辛辣だなぁ、佳凛ちゃんは」
ハハハと岸山は笑う。
相手が聞いているのか聞いていないのか。そんなことを気にすることのないように、独り言のように話し始める。「誰かに話す」ことで自分の記憶や考えを整理するように。
棚に並べられた本だけがその声をゆっくりと吸い込んでいく。