ブルゴーニュの宇宙
キラキラと輝くスワロフスキーをひとつずつ剥がしていく。
「これ、ほんと最高でした。お店のお客さんにも何度も褒められたの」
「良かったですー」
わざと語尾を伸ばして柔らかく答える。
ですー、と伸ばすと、何故かお客様を持ち上げる感じが出る。性格がキツめに見えがちな私が編み出した謙譲表現だ。
響さんは4週間前、ホットペッパーのクーポンで来てくれた新規さんだ。
駅ビルの中のアクセサリーショップの店員さんで、滑らかでふわふわの肌をしている。
ピンク色のフレンチネイルが似合うだろうなと一見して思った。
伸びてきた時も見苦しくないという理由で爪の先の方にだけ色を入れるフレンチネイルを勧めると、ウンウンと懐っこい丸い目で頷いた。
10本の指に等質の楕円を描いて色を入れる作業はシンプルながら集中力が要る。
全てをこちらのお勧め通りに作り、4000円でベビーピンクのフレンチネイルにダイヤ風のラインストーンを散らした。
響さんは食べ物に例えるとシュークリームだ。
小さくて地味なのに、華やいだ幸せな気分を放つ存在。
ベージュ基調の服装は前回と同じ雰囲気で、前回は下ろしていたウェーブヘアを、今日はカフェオレ色のシュシュで一つ結びにしている。
肌色から茶色位のグラデーションで5本指を飾ったら可愛いだろうな。でも、5本全てが違う色では接客業には派手だろうから、勧めるのは控えよう。
「あー、嬉しい。やっと来れて」
アフリカンショップで買った、バオバブの木製のアクセサリー皿に、4本のパワーストーンブレスレットが置いてある。
削れていく前回のアートを眺めながら、響さんが呟いた。
「そうですねー、忙しい季節ですもんねー」
忙しくない季節なんかないけれど、なんとなくそう答えた。
左の5本が終わると消毒をする。
「はい、ひっくり返してくださーい」
手のひらも消毒する。
「はい、次は右手お願いしまーす」
これで左手首の傷跡は見えなくなる。
はっきり見えていながら気づかないフリをしていた緊張が心の中で解ける。
響さんの左手首には8針の縫い跡がある。
ネイルサロンではアクセサリーを傷つけたり汚したりしないよう、手首や指に着けているものを外してもらう。
響さんのように痛々しい傷を持つ人を、これまでも何回か見た。
「接客業ではこういう傷、ダメだから隠してるけど、別にすごく隠したい訳じゃなくて…」
気まずそうにモタモタと響さんが言った。
隠していた訳じゃない、そこを強調したいほど、この人はこの傷をまだ気にしている。
「別になにも悪いものじゃないですよねー」
と答えた。
「ギョッとしなかった?」
しない。
なんなら私の手首にもある。
縫っていないのがよかったのか、すっかり薄くなって今では誰も気づかないけれど。
いじめられていた学生時代、せっかくイジメから解放されて帰宅するのに、帰宅後は自分で自分をいじめていた。
何重ものカッターの切り傷が治らないまま新しくなって、いくつかが跡傷になった。
「全然大丈夫です」
語尾を伸ばさず、自分の気の強さを誤魔化さないまま、響さんの目を見て言った。
「全っ然」
響さんがホッとしたように笑顔になる。
「よかったー。ギョッとする人が悪いんじゃないけど、ギョッとされちゃうと私も気まずいの」
「分かります…」
と言いながら右手指のアートをオフしていく。
「元カレにね、やられたの」
「ん?自分じゃなかったのか」
思わず仕事口調を忘れて突っ込んでしまった。
明らかに声も地声になってしまったので、素直にあやまる。
「す、すみません」
「構わない」
響さんが笑った。
「殺してやる。でも俺は殺人罪なんかに問われるようなヘマはしない。お前なんかの為にムショに入れられてたまるか」と言って、ナイフを握らせた響さんの右手に自分の拳を重ね、響さんの左手首を斬りつけたという。どれほど怖かっただろう。
「毎日何かしらされてたから、もうあの頃は麻痺しちゃってて」
趣味の話でもしているかのように朗らかに響さんが笑った。
この人のふんわりは、幸せ色ではないのかもしれない、
悲しみ色が他人からは心地好く見えるのかもしれない、と思った。
「いまはちゃんと別れられました?」
語尾を伸ばすことをつい忘れている。
「うーん、別れはしたんだけど、ズルズル、都合よく使われてる」
また響さんは笑った。
両手のオフが済んで、デザインと色を選ぶ。
響さんのリクエストは
「あんまり高くなくて、こないだと同じ感じ、かな」
はっきりしない。
ピンクが似合うけれど、赤だって悪くない。
このきめ細やかな肌にはシャーベットカラーも似合うだろう。
こういう何でも似合う人は、こちらからの提案が難しい。
「1番お好きな色を選んでみてください、お仕事でも困らない仕上がりにしますから」
と言うと、サプライズプレゼントを貰った子どものような顔をして私を見上げた。
「え、えーと、どうしよう」
カラーパネルを見つめる目が真剣になっている。
「あのね…、コレ…、かな」
指さしたのは濃い葡萄色だった。
こんなに大人っぽい色がお好きだとは、人の心は分からないものだ。
紫とえんじの中間色、ブルゴーニュという色だ。
似合うけれど、彼女の服装や雰囲気からは浮く。
私が考えた一瞬に
「似合わないでしょ」
先回りをして傷つくまいとしたのか、早口に言う。
「いえいえ、そんな事ないです。とっても似合うんですけど、きっとお召し物を選ばなきゃならなくなるだろうなと思って…ちょっとお時間くださいねー」
アイデア出てこい、とおでこをトントン叩く。
トントン、出てこい。
トントントン。
「ファブルみたい」
響さんが笑った。
ファブル?
あぁ、岡田准一演じるファブルこと佐藤明が人格スイッチを切り替える時にする仕草か。
「この色、母が似合う色だったんです。可愛がられた訳でもなかったのに、なんだか追っちゃうの」
「もう、いらっしゃらないんですか?」
「うん、3年前だったかな。癌で」
「この色、使いましょう!」
響さんがここでお母さんを思い出したのには何か理由があるはずだ。
この手首の傷跡にも繋がる何か。
可愛がられた訳でもない、そんな意味深な言葉が出るほど複雑な関係。
2ヶ月弱に一度、数時間を共にする位のネイルアーティストには読みきれない事情があるのだろう。
人に見せないようにしている手首の傷跡。
ちょっと自分の話をするだけで殺人未遂なんていう非日常に触れてしまう、響さんの世界。
響さんと交差するこの時間に私のネイリストとしての心意気を贈りたい。
マスキングを使って、エアジェルで1センチ長の色とりどりの楕円を描くのはどうだろう?
薄い桜色をベースに、上に白、菫色、そしてブルゴーニュ3色の楕円形を吹き付ける。そして仕上げは左右の薬指に一粒ずつ、ここはやっぱりスワロフスキーだ。
響さんの純粋さと奥深さによく似合う。
スワロフスキーは通常のクリスタルガラスに比べて光の屈折率が高いので、虹色に見えたり、輝きが大きいという特徴がある。
時間は保育園のお迎えに間に合えばいいから3時間位あるとのことで、余裕を持って仕上げられる。
施術中、響さんはお母さんの思い出話をしてくれた。
お母さんと妹のエピソードばかり、そこに響さんの存在はない。
妹さんだけが可愛がられて、傷つかないふりをしながら我慢した長女の響さんか浮かぶ。
大切に扱われない事に慣れてしまった響さんが、ナイフを突き刺すクズ彼氏に抵抗出来なかったのも、私の勝手な妄想かもしれないけれど、繋がる。
でも響さんはお母さんを恨んでいないどころか大好きでいる。
トップコートを塗り終えると、思った以上に良い仕上がりになった。
艶々とした小さな爪の中に、響さんだけの宇宙が見える。
嬉しい、と何度も呟く響さんのかわいらしさに、私も嬉しくなる。
又来てくれるかは分からない。
気に入ってくれても、時間やお金の都合は別だ。
でもこの時間、響さんの爪の中に作らせてもらった世界が私たち2人の共同作品なのは確かだし、この小さな宇宙はきっと響さんの日々を励ますだろう。
「ありがとうございました」
語尾を伸ばさずに心を込めてお辞儀した。