87.浴衣と甚平
僕は反対側の男物甚平の棚へと向かう。
結城が進んでいった女性浴衣のコーナーに比べて、随分と地味な色調の棚だった。良く言えば落ち着いている。
黒や濃紺。派手な物でも薄水色といったところだろう。
定番で売れ筋の品の入荷が多く、目立つところに飾られていた。
一部、端の方に非常に奇抜な色と紋様が描かれたデザインもあるが、そちらに用はない。
濃紅や黄金の色。おそらく派手で異趣好みのお客が買うのだろう。
僕ではとても着こなせない。
派手な色の甚平も、女性ならそれなりに可憐に似合うのかもしれない。
結城が浴衣を選んでいる棚の後ろ側にある、女性用甚平の棚にはそういった色使いが少なくない。
ただ、ごく一般的な男子たる僕が着て不格好でないのは、ありふれたデザインに相違ない。
さて、どれにしよう。
やはりこの一番人気と書かれている、ごくごく平凡な甚平にしようか。
色も黒か濃紺か……。
「ねーぇ、あーくん」
突然脇から声をかけられ肩がビクリと震えてしまった。
すぐ右隣に、何故か三郎が立っている。
「な……なに、かな?」
心の中でひと呼吸おいて心拍を安定させる。
なるべく平静な声で返した。
「その変なのにするの? 浴衣じゃないよ? ほら、後ろの棚に浴衣って書いてある」
「あ……あぁ、これは甚平っていうんだ。浴衣に似てるけど、浴衣じゃないよ」
「なんで浴衣にしないの?」
「自宅にあるからだよ、一昨年から着てるのがね。今日はたまたま着てこれなかったから買うけれど、どうせなら普段着ない甚平にしてみようと思っただけさ」
どうせ祭り用に二着目を買うのなら、持っている浴衣よりない甚平を買った方が気分で選択肢が増える。
似たような色違いや模様違いを増やすよりは良い、と考えた。
「そっかぁー、あーくんかしこーい」
三郎が関心した様子で頷く。
大仰すぎる手振り身振りは、人によっては反感さえ買いそうだ。
「そ……そうかな」
「そのジンベイっていうのも、あーくんにすっごく似合うと思うよ。大人っぽくてカッコイイ」
「……ありがとう」
褒められているのにちっとも嬉しくない。
舌ったらずな口調や、甚平を知らないと言ったり、鬼三郎の印象から大分かけ離れている。
どこまでが本気で言っているのか。
「さぶ……さーやは自分の浴衣を選ばないの?」
「んー? 浴衣どこにあるかわかんなーい」
彼は頬に手を当て、斜め上へと視線を逸らせる。
あれだけ分かりやすい場所が、本当に分からないのだろうか。
「女性用……の浴衣で良いんだよね? それならこの棚の反対側だよ。ほら、結城が行った場所の」
「えー、反対側は男物って書いてあるよー?」
三郎が半身で振り向いたのは後方だ。そちらには男物浴衣しかない。
わざとしか思えない解釈の仕方である。
「えっと、だから棚の向こう側って意味で……」
僕が指差して教えようとすると、彼が袖をグイグイと引っ張る。
「わかんなぁい。一緒に見てよぉ。それにぃ、さーやの浴衣、あーくんに一緒に選んでほしいなぁ」
仕方ない。
いつまでもまだるっこしい会話の応酬をしていられない。
僕は三郎の半歩前に出て、女性物浴衣の棚に回り込もうとする。
「なに、してんの? 各々、自分で持ってくるようにって言ったよね?」
ちょうど棚の角を回ってきた結城と鉢合わせる。
その手に3着の商品を携え、僕と三郎を不機嫌そうにジロリと睨みつけた。