180.-挿話-加速ニューロンの部屋
アビゲイルは謝罪しながら自分の椅子に腰掛ける。
「すみません、前の仕事が推してしまったもので」
「言い訳なんて聞きたくありませんね。あなたが5分遅れれば人の5分を奪うことになるんですよ。現に私は5分を失った」
よく言う。
自分だって遅れてきたこともあるくせに。
その時はろくに謝罪だってしなかった。
もっとも、彼の苛立ちすらパフォーマンスに過ぎない。
実際の彼は1ミリも時間ロスによるストレスを感じていない。
感情のコントロールが出来ないようならこの空間にいることすら出来ない。
表面的に叱責と陳謝の図式を取りながら、お互い毛ほども罪悪感がない。
隣の老紳士が彼をなだめようとしているが、それさえポーズである。
ここには情動の痛みもなければ優しさもないのだ。
「今日はこれで全員ですか?」
「えぇ、最近みんな忙しいとかで。困りますね」
向かいの主婦らしき女性が答える。
30後半頃。
健康的に肉づいて年齢相応の色気を放ち、品性さえ感じる余裕のある微笑み。
彼女の薬指に指輪をはめた男性はさぞ幸運だったろう。
「それで、どうだったんだ、ここ最近のアセスメントの方は?」
少し離れた位置の若い男が、見た目に違わぬ明るい口調で問いてくる。
「……そうですね、インテークではあまり多くのサンプルを得られませんでした。元々、自己開示する情報があるかどうかも分かりませんし。共有した資料と大した差異は……」
ゴシックパンク服の少女が甲高い声を飛ばす。
「わかりませんでした、じゃ困るじゃない。クライエントの普遍エゴを明確化するのがあなたの役目じゃないの。違う?」
老紳士が少女をなだめようとする。
「こらこら、そんな閉じた質問じゃ彼女だって困るだろうに。ケーススタディの事例収集なんてこんなものだろう。功を焦れば魚は逃げてしまうよ」
不気味だ。
この超常的な空間もだが、それ以上に彼らも。アビゲイルも自身が。
怒って笑って、そのいずれの感情も”人間らしく”作られたものでしかない。
彼らが本来持ち得る冷静さ、それさえ殺して感情的に振舞っている。
多様性という名の元に。
アビゲイルは比較的冷静であると作った自身のキャラクター性に安心すらしていた。
本当の自分との差異が彼らより少ないことへ。
飾らず無駄なエネルギーを使わなくて済むから疲れない。
「いったい何万のサンプルを集めれば良いのでしょうか。設置したE-EEG(エクスポージャー型脳波測定機器)の稼働数は既に10万を超えるというのに」
老紳士が微笑む。
ゆったりした所作で自身のヒゲを撫でた。
寛容と慈悲に満ちた印象を与えてくる。
だがそれ故に、この場の他の誰より不気味だった。
「何万? この世にどれだけ人の感情があると思っているのですか? 億ですらまったく足りていない。個別の思想を前に置くなら幾ら集めたところでパラダイムは意味を失う。我々は標的のチューニングさえ定まっていないと心がけるべきです。必要なのはより多くの妥当性と客観性」
スーツ姿の中年が横から口を挟む。
先の感情的さが幾分かなりを潜め、本来の冷徹さが漏れ出していた。
「しかしあなたの方針では安定ベースラインの決定はいつになる? コンサルテーションの必要性を提唱しながら部門間の連携が滞り遅延してばかりじゃないか。いつになったら本質へアプローチできる? 個別に切り離して独自に進めるべきではないのか」
少女がわりこむ。
甲高い子供声が消えている。
「インターバル記録は取れている。段階的問題解決において現状況はクリアーされている。危機介入を考慮するに尚早よ」
主婦が語る。
「多軸システムなのだから一元的な視野は狭窄を起こしますよ。直線で問題が解決している訳じゃない。進行遅延があるならバイオエシックスを無視してでも青写真に近づけるべきじゃないかしら。そもそも提唱された”根源愛”は信用に足ると私は考えていません」
アビゲイルはこめかみを押さえる。
始まってしまった。
彼らそれぞれに事情と立場があり、掲げる理想の先は同じでも到達する道は無数に分岐している。
その上で、彼らの共有する知識や知能はほぼ同等であるのだから、直接口論したところで平行線だ。