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閑話6.那須(2)

 「ちょっ、楠見さん?」

 榊君は、いきなり堂々と腕を絡められて、慌てていた。

 絵梨菜はそんな榊君を不満そうに睨んでいた。

 暫くそのまま固まっていたのだけど、榊君は諦めたようにため息を吐いた。

 「ごめん。──絵梨菜」

 榊君から下の名で呼ばれて。絵梨菜は満足気ににっこりと微笑んだ。絵梨菜は苗字で呼ばれたことを怒っていたのか。

 関係を一歩進めるに当たって。名前の呼び方も要求の一つだったらしい。

 これまで榊君は、四人の彼女全員を苗字でしか呼ばなかったらしくて。そこも、絵梨菜は不満に思っていたのだ。三城谷さんだけは、こういう関係になる以前から苗字を呼び捨てで呼び合っていたから、そのままの関係だったのだけど。後から関係に加わった絵梨菜は、ずっと苗字をさん付けで呼ばれていて。他人行儀過ぎると不満を漏らしていた。

 「榊君、久しぶり」

 真樹が、いちゃつく二人をからかうように下から覗き込んで。気軽に挨拶をしていた。

 榊君の事が好きだった真樹。

 想いを秘めたまま、絵梨菜が彼と仲良くなっていく様子を、真樹はどんな気持ちで見ていたのだろう?

 「榊君。この前は、ありがとうね」

 先日、歩道橋の階段で転びそうになった私を榊君は抱きとめて助けてくれたのだった。絵梨菜には、敢えてどんな風に助けてくれたのかは話さなかったのだけど。

 榊君は、私を見て。私が特に(あの時気付いていない様な)怪我などしていないことに安心した様子で、儚げな笑みを浮かべた。

 私はそれを見て。

 不意に、目頭が熱くなった。

 彼の笑みが。夢の中で、三城谷さんが無くなった後に私たちが彼を慰めて、どうにか笑ってくれたときの力の無い微笑みにダブって見えたのだ。

 絵梨菜が言っていた、私の夢の心当たりが何なのか判らなかったけれど。最早私には、それが夢なのか現実の話なのか曖昧に感じられて。思わず泣きそうになってしまっていた。

 榊君は、私の様子を見て、目を瞬かせた。

 「何か……あったの?」

 彼の心配そうな顔が。夢の中で、絵梨菜が自殺してしまう前に彼が見せていた表情とまたダブってしまって。私はもう彼のことを見ていられなくなった。

 「智香子……」

 絵梨菜が私の肩に手を回した。

 「ここじゃゆっくり出来ないから……ちょっと外に出ましょう」


 中庭の、屋台が途切れた一角に私たちは腰を下ろした。

 私は、少しは落ち着いたのだけど。それでも、心配そうに見ている榊君のことを、まともに見ることが出来ずにいた。

 「智哉……智香子ね、中学の頃のことを夢で見たらしいのよ。それも──」

 絵梨菜が事情の説明を始めた。といっても、それはごく短い言葉だった。

 「一つ前の時間軸のことを」

 私には、絵梨菜が言っている言葉の意味が判らなかったのだけど。榊君は、それだけで全てを察した様子で、愕然として私を見つめていた。

 「一つ前の時間軸……? どういう意味なの?」

 何も言えない私の代わりに、真樹が問う。真樹も、榊君の様子がおかしかったから、何かあるんだろうと察したみたいだった。

 榊君は俯いて、あまり言いたくは無さそうだったけど。絵梨菜は話を続けた。

 「智哉は……二度、過去に時間を遡っているの」

 「時間を遡る……?」

 「ええ。中三の、クリスマスイブから一学期の始業式の日まで時間を遡って。三年生を最初からやり直していたのよ。私たちにとっては、智哉がやり直す前の出来事は存在しないのだけど。智哉は、経験したことを全て覚えているのよ。そして……」

 絵梨菜は悲しげに榊君を見つめて。そして、私を見た。

 「智香子が見た夢は……智哉が二回目に経験したことと合致しているのよ」

 榊君が経験したこと……?

 その言葉を噛み締めて。私は愕然としてしまった。

 「そんな……」

 榊君は、実際に、あんな目に遭ってしまっていたというの?

 あんな、絶望の淵に……。そう思うと、涙が溢れてしまった。

 だけど真樹は、私とは違う反応をしていた。

 「……絵梨菜はどうして、そのことを知っているの?」

 真樹は冷めた目で、絵梨菜と榊君を見ていた。

 絵梨菜がそのことを知っている理由なんて、榊君から聞いた以外に考えられないじゃない。

 私はそのことについて、何とも思わなかったのだけど。真樹は、そのことに腹を立てているみたいだった。

 そして榊君も、真樹の怒りを当然の様に受け入れている様子で、叱られた子供の様に俯いてしまった。

 「俺が……そのことを話してしまったんだ。本当は、言うつもりじゃなかった。だけど俺が……通常なら知り得ない情報を元に動いていることを問われて……そして、俺自身、一杯一杯で……正常な判断を下す余裕が無かったんだ……」

 私は、彼が何について謝罪しているのか判らなかった。

 絵梨菜は、心配そうに榊君を見て。そして、真樹に批難の目を向けた。

 「真樹……私は、智哉がそれを打ち明けてくれたことが、すごく、すごく嬉しかったのよ? 智哉自身、言うべきではなかっただなんて思っているみたいだけど。もし言ってくれなかったら私は……智哉の苦悩を知ることもなく、のほほんと生きていたでしょうね。そして、もしどこかで、後からそのことを知る羽目にでもなったら……私は自分のことが許せなくて、どうにかなってしまったと思う。真樹は、そうなった方が良かったと言うの?」

 絵梨菜にそんな風に詰め寄られて。真樹も、それ以上は何も言えなくなってしまった。

 榊君は、今のこの時間軸で、一体何をしたんだろう?

 夢の中、つまり前回彼が体験した中で。彼は、絵梨菜が自殺することを止めることが出来なかった。でも今回は止めることが出来た。絵梨菜が自殺する理由とは、一体何だったのか。

 「榊君は……絵梨菜のために、何をしてくれたの?」

 思わずそう口にしてしまっていた。

 それを問われて。榊君は何も言わず、ただ目を伏せて。絵梨菜は、彼の様子を心配そうに見て。そして、ため息を吐いた。

 「智哉は、私が自殺してしまう理由を……潰してくれたの」

 「潰す、とは。穏やかじゃないわね」

 思わず口にした私の言葉に、絵梨菜は鼻を鳴らした。

 「文字通り、叩き潰してくれたのよ。──私をレイプしようとした連中を、ね」

 冷たく言い放つ絵梨菜の言葉に、私は愕然としてしまった。真樹も、ショックを受けている様子。

 「智哉ったら……私をレイプしようとした高校生七人相手に、たった一人で挑もうとしたのよ? 返り討ちに遭うことだってありえたのに……実際、他の被害女性の兄で、連中に返り討ちに遭って殺されてしまった人だっていたのに……それでも智哉は……私を助け出してくれたの」

 そんな……!?

 今回、榊君にそれが出来たということは。前回、そのことを彼は絵梨菜から聞いたのだ。そしてそれは、絵梨菜が自殺してしまう直前だったに違いない。彼は、絵梨菜からそんなことを打ち明けられて。そしてその後、彼の目の前で絵梨菜は自殺してしまったのだ。その時、彼はどんな風に思っただろうか。私と真樹が、彼の家まで駆けつけたとき。彼はどんな気持ちで、止められなかったことを私たちに詫びたのか。それを思うと、私は悲しくて切なくて、涙が止まらなかった。

 「榊君はあの時……そんなものを抱えていたのね……私はそんなことも知らずに……」

 「那須さん……あの時、那須さんと速水さんが……俺を慰めてくれたから……俺は頑張れたんだよ」

 そんな感謝の言葉を言われて。私は自分の狭量さを呪った。

 「そんなの……感謝されることだけじゃ無いのよ……私……榊君が土原さんを事故から救ったと聞いて……裏切られた様に思ってしまったのよ? 榊君はただ……クラスメイトを助けようとしていただけなのに……私、榊君の気持ちが絵梨菜から土原さんに移ってしまったんだって……そんな風に思ってしまったのよ!?」

 自分の狭量さが苦しくなって。そう打ち明けてしまった。

 だけど榊君は、穏やかに微笑んで私を見つめた。

 「それでも俺は……二人が慰めてくれたから……正気を保っていられたんだと思う。そして、そのおかげで。この時間軸では、皆を救うことが出来たんだよ」

 そんな風に言われても。私の気持ちは少しも楽にはならなかった。

 土原さんが亡くなった後。彼の心が病んでいたことを、私は知っているから。

 退院した後も、二学期が終わるまで学校には出て来なかったから。まだ苦悩しているんだと思って、会いに行くことも出来なかったのだ。

 私はそのことを思い出して、号泣してしまった。


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