あの夏を忘れない(短編バージョン)前編
気が付くと僕は、またここに来ていた。
僕の名前は山岸蓮。
社会人になった今も、嬉しい事、悲しい事があるとここに来る――。
マウンドの土の匂い……手入れが行き届いている芝生の匂い――。
目を閉じると、昨日のことのように思い出す……。
『あの夏を忘れない』
僕の通う明秋高校の野球部は、県内でも後ろか数えた方が早いくらいの弱小チームだ。
それでも小学校から始めた野球が好きで、高校入学と同時に野球部に入部した。
明秋高校の学校は、サッカー部に力を入れていて、弱小だった野球部は人気がなく廃部寸前だった。
三年生が三人、二年生が四人、一年生が僕を含め二人――つまり、僕ともう一人の一年生が入部しなければ、試合すら出来なかったのだ。
与えられたグラウンドは雑草が生い茂り、足を取られるくらい酷いものだった。
僕は誰に頼まれるでもなく、練習後欠かさず草むしりやグラウンドの整備を行った。心ない人はそれを見て笑った――。
だが、僕は雨の日でも毎日やり続けた。
◇◇◇◇◇
ある日、僕は風邪を拗らせ学校を休んだ。勿論、練習もだ。
夜には体調も回復し、夜風に当たるついでにグラウンドへと赴いた。
すると誰も居ない筈のグラウンドに、人影があった。
――同じ一年生の内藤だった。
内藤とはあまり話したことがなかったが、此方に視線が向けられたので僕は歩み寄った。
泥と汗にまみれた内藤は言った。
「お前……風邪治ったのか?」
突然のことに戸惑ったが、息を飲み込み問いに返した。
「ん? あぁ……だいぶ良くなったよ。明日は学校も練習も行くつもりだ。所で、何で内藤が草むしりしてんだ?」
「お前が休んだら、俺がやるしかないだろう?」
内藤はそれ以上語らず、手を休めることなく黙々と作業を続けた。
口数の少ない内藤だったが、野球に対する思いが伝わり僕は嬉しかった。
次の日から内藤がキャッチボールの相手になり、練習後は二人で草むしりをした。
相変わらず口数は少なかったが、野球の話をする内藤の目は輝いていて、僕も負けていられないと思った。
そんな数少ない会話の中でも、特に印象に残る場面があった。
「お前……中学の時のポジションは?」
「一応、ピッチャーだけど、何処でも守れるように一通りは練習してきたよ」
「すげぇな。俺はずっとキャッチャー一筋だよ。俺とお前のバッテリーで、行けたらいいな……甲子園――」
甲子園なんて夢のまた夢――そう思ったが、真っ直ぐな内藤の目は本気だった。
◇◇◇◇◇◇
一ヶ月後、隣近所の成南高校と、練習試合が行われることになった。
僕はサードで、内藤はキャッチャーに起用された。
――結果は11ー2の5回コールドの惨敗……。
先輩達は当たり前のことのように、涼しい顔をして悔しがる様子もない。
そんな様子に腹立だしく思っていた横で、拳を握り締めグッと堪える内藤の姿があった。
僕は目で“抑えるんだ、内藤”と訴えかけたが、それは叶わなかった。
「先輩達は悔しくないんですか? あんなの試合じゃないです。それでいいんですか?」
三年生の先輩の胸ぐらを掴み上げ、内藤は叫んだ。
「内藤! 誰にものを言ってるんだ!」
慌てて二年生の先輩が止めに入る。
この一件以来、内藤は練習に来ることがなくなった。
学校もサボりがちになり、顔を合わせても話すこともなくなっていた。
そんな時、不良グループ達と煙草を吸いながらゲームセンターから出てくる内藤の姿を見つけた。
「内藤……」
久々に声を掛けると、リーダー格の男が内藤の肩に腕を乗せ話し始めた。
「何だ? コイツ……内藤、知り合いか?」
「知らねぇよ!」
僕は思わず口にした。
「あの時、甲子園に行きたいって言っていたのは、嘘だったのかよ!」
気が付くと頬に涙が伝っていた。
「何だコイツ……気持ち悪りぃな。おい、みんな……行こうぜ!」
時々振り返る内藤の姿を見ながら、僕はアスファルトへと跪いた。
◇◇◇◇◇◇
翌日、部室へ行くと顔を腫らした内藤が、土下座をして先輩達に謝る姿があった。どうやら顔の腫れは、不良グループ達との決別の証らしい。
「すみませんでした。もう一度野球をやらせてください」
「僕からもお願いします」
慌てて僕も隣で土下座した。
「お前達……顔を上げてくれ。俺達の方こそ悪かった。また、俺達と野球やってくれるか?」
そう言うのは、キャプテンの住田さんだ。
「はい!」
「よし、練習始めるぞ!」
グラウンドに出ると、みんなイキイキしていた。内藤の帰りを、誰もが待っていたのだ。
「山岸……ありがとうな。やっぱ、俺……野球が好きみたいだ」
「何言ってんだよ」
僕がそう言うと内藤は帽子を深く被り、溢れ出る涙を隠した。
内藤が戻り、キャプテンの住田さんが活を入れ、初めてチームが一つになった。
――それからだった。練習量は倍になったが、みんなと野球が出来る喜びを知ったのは……。
◇◇◇◇◇◇
グラウンドの整備もみんなで手分けして、見違えるほどになった。
そして、いよいよ今年の夏――県大会が始まった。
初戦の相手は、練習試合で大敗を喫した成南高校――。
「みんな! 目標は甲子園! と、言いたい所だが、まずは初戦突破だ」
住田さんを中心に円陣を組む。
――そして、試合が始まった。
8回まで両者一歩も譲らず、0―0で迎えた9回裏――。
ようやく僕達にチャンスが巡って来た。
ワンアウト、三塁――打順は僕に回ってきた。
ベンチからのサインは、スクイズ――。
カウントはワンストライク、ツーボール。
四球目、高めの球をファースト方向へ転がすも、結果はアウト。
チャンスを活かしきれず、そのまま延長戦へともつれ込んだ。
10回表、連打を浴び、ノーアウト一塁、二塁のピンチを迎えた。
三年生のピッチャー……木下さんのいるマウンドに、内野陣が集まる。
ふと、木下さんの指もとを見ると、豆が潰れ血だらけになっていた。
「山岸……頼む。俺の代わりに投げてくれないか? やっと掴み掛けた夏なんだ……」
突然の指名に驚いたが、僕も陰ではピッチングの練習をしてきたつもりだ。
「わかりました。やってみます」
これだけのプレッシャー……荷が重すぎる。だが、迷いはなかった。
内藤は口角を上げながら、マスクを被った。
僕は渾身の力を込めて、ストレートを投げ続けた。
“これで打たれたら仕方ない”
――そう自分に言い聞かせて。
一人目をセカンドフライに打ち取り、ワンアウト。
「あと、二人」
次の打者にヒットを許し、ワンアウト満塁の場面――。
内藤のサインは“お前に任せる”だった。
僕はありったけの力を込めて投げた。
打者はそれを引っ掛け、ライナー性の当たりはサードを守る木下さんのグラブの中に収まった。飛び出したランナーは戻ることが出来ず、ゲッツーに打ち取ることに成功した。
「よし、山岸が抑えてくれたんだ。俺達も続くぞ!」
住田さんを中心に再び円陣を組む――。
木下さんが四球を選び、内藤が送る。
ワンアウト二塁で、四番の住田さんに打順が回ってきた。
無言で住田さんが打席に入る。それは凄まじい気迫だった。
――そして、初球。
これまで当たりのなかった住田さんの打球は、レフトの頭上を越える目の覚めるような一打だった。
砂混じりの風の中、住田さんがしっかりとホームベースを踏んだ。
こうして僕達の目標――初戦突破を達成することが出来たのだ。
しかし、続く二回戦、県内屈指の強豪――聖新学院に7―1で破れ、僕達の夏は終わった。
ロッカールームに戻ると、九人全員で、声を出して泣いた。
少し前までは負けて当たり前だった先輩達も、負ける悔しさが身に染みたのかもしれない。
監督がロッカールームにやって来ると、全員で“ありがとうございました”と、頭を下げた。
監督は目に涙を浮かべ言う。
「みんな、頭を上げてくれ。俺の方こそありがとう。野球部の顧問になり七年……。一度も勝つことが出来なかった。だが、お前達のお陰で野球に対する情熱が湧いてきた。今まで厳しい練習に耐えてくれてありがとう。本当にありがとう」
監督の言葉に心を揺さぶられ、僕達は再び泣いた。