悪夢
二頭立ての馬車が舗装された道を過ぎて、土を固めただけの道になった。
蹄の音が小さくなり、代わりに揺れが大きくなる。
マイエル家の屋敷まではこの道をまっすぐ進めばいい。
思ったより仕事に手間取ってしまい、シェーラとリカームは夜の道を帰宅している最中だった。道沿いには民家も見えなくなり、馬車は月明かりだけを頼りに野を駆って行く。
車輪が一際大きな石を撥ねた時、リカームは前方に人影を見つけ、たずなを強く引いた。二頭の馬は高い嘶きを発した後、速度を落し、やがて完全に止まった。
目の前には、タキシードを着た男がにこやかに笑みを浮かべてこちらを見ている。だが、何故だろう。その笑みたるや、見る者に恐怖のみしか与えない。
御者席のリカームは眉をひそめて男を凝視する。何か分からぬが、さっきから危険という直感が脳裏で叫びをあげている。
「どうかしたの?」
馬車の中からシェーラが尋ねてきた。
「御嬢様!絶対に馬車から降りてはなりませんぞ!!」
「……はい!」
ただならぬ雰囲気を察したシェーラは、気丈に返事した。
「どちら様ですかな?」
当たり前の質問をしながら、腰を浮かして御者席の板を持ち上げる。中から使い古したような黒鞘の短剣を取り出す。ここには他に、シオンの時に使ったマントも入っていた。
男はリカームの質問には答えず、自分の用件だけを問うた。
人が発するにはあまりにおぞましい声で。
「シェーラ=マイエルはいるか?」
この言葉を聞いて、リカームは馬車を飛び降り、男に向かって駆け出していた。
男は、既に人ならぬ者へと変貌し始めていた。
シェーラは馬車の中で肩を掻き寄せていた。
寒い。あの声を聞いてから悪寒が止まらない。あの人とは思えない声は確かに自分の名を呼んでいた。捕まれば一体どんな目にあうのか。
それに信頼する老執事の身が心配でならないのに、震えているしか出来ない自分が情けなかった。
バガアアン!
大きな破裂音にびくっと震える少女。
外では何が起こっているのかさっぱり分からない。
(リカーム…お願い、無事でいて!)
しかし、そんなシェーラの願いさえ打ち砕くかのように…
バキベキィッ!
突然、奇怪な腕が扉を突き破った。
「きゃあああっ!」
枯れ枝のような腕の先にはアンバランスな程大きな掌。恐ろしく長い指には、ナイフのような爪があり、まるでシェーラを切り裂こうとでもいうかのように蠢いている。
反対側に寄り、震えることしか出来ないシェーラ。
怪物は獲物の恐怖を楽しむかのように、少しずつ扉を引き剥がしていき、やがてその醜い姿をさらけ出した。
赤銅色の獣毛に覆われた身体には異様に長い手足が伸び、耳まで裂けた口は狼のように前方に突き出している。
額から突き出した銀色の角がシェーラに絶対的な絶望を与えた。
「…よ…妖魔…」
かすれる声で呟いたシェーラの顔から、血の気が完全に失せていた。
昔話や伝説で語られ、現実に存在する人間の天敵。三百年前、魔物達を率いて人間を支配しようと戦争を起こして以来、幾度となくこの世界に災いの種を振り撒いている最悪なる人外だった。
「ぐふふふ…我が主がお前を御所望なのだ。おとなしくついて来るがいい」
妖魔の手がシェーラの肩を掴んだ。
「いやあああああっ!」
バチッ!
「がっ?!」
静電気にでも弾かれたように手を引っ込める妖魔。
その凶悪な顔に、はっきりとわかる驚愕が浮かび上がった。
「何っ、魔力…だと!?しかも収束もなしに物理現象を起こすほどの?ふ…ふはははははははは!ついに…ついに見つけたぞ!!」
妖魔は高らかに叫び、シェーラの美しい髪に手をかける。
がくがくと震えるシェーラにはもはや悲鳴をあげる気力さえなく、妖魔の手が首筋に触れた瞬間、気を失ってしまった。
「これで、我らの悲願が達成する。喜べ、お前こそ……があっ!?」
言葉の途中で苦痛の叫びを発した妖魔の背後から、猛々しい男の声が浴びせられた。
「御嬢様に触れるな!」
リカームは短剣を妖魔の背中から引き抜き、物凄い力で妖魔を馬車から引き剥がした。
妖魔は苦痛に顔を歪ませ、馬車の前に立ちはだかる老執事に怒りの視線を投げつけた。
「貴様、まだ生きていたのか!今度こそ確実に殺してやるぞ」
妖魔は両手を突き出して魔術を放とうとする。先程はこの衝撃波であっさりと吹っ飛ばされた。
しかし、彼の背後にはまだシェーラが…
リカームは背後の主を庇うため身構える。
だが、妖魔は明らかに躊躇いの表情を見せた。
「……貴様など、この爪だけで十分だ」
何を思ったか…妖魔は魔術を使うのを止め、リカームにその巨大な腕を伸ばしてきた。
その腕とともに伸びる指は10本のナイフが飛来するのと変わりがない。
しかも、軌道は変幻自在なのだから人間には避けられるはずがなかった。
…が、幾人もの人間を八つ裂きにしたこの攻撃を、目の前の老人は難なく躱して迫ってきた。
「なんだと!?」
目を見張るような老人の動きに、狼狽する妖魔。
(狙うは…心臓のみ!)
自分を老人だと思って油断している今だけがチャンスだった。
妖魔には生半可な攻撃は通用しない。魔力の源たる心臓を一突きするか、でなければとある聖剣を用いるしかない。先程の傷が塞がりかけているのがその証拠だった。
リカームはがら空きになった両腕の隙間に入り込むと、凄まじい勢いで突進した。
伸びた腕が元に戻るより速く。
妖魔の評価が目障りな奴から侮れない敵に変わる前に。
「うおおおおお!!」
咆哮をあげて驚異的なスピードで突っ込んでくる老執事に、妖魔は慌てて横へと逃げる。だが、その程度で彼の狙いが逸れる事はなかった。
ダンッ!
凄まじい力で地を蹴って軌道修正したリカームは、体当たりのごとく妖魔に激突した。
「ぎぎゃああああ!」
鈍い音とともに妖魔の絶叫が野に響き渡る。
苦悶の悲鳴を洩らす妖魔が、憎悪の叫びをあげてリカームへと腕を伸す。
爪が…空を切った。
「まさか…こんな老いぼれに不覚をとるとは…」
心底悔しげに呻く。
しかし……やがて、その顔に恐ろしい形相の笑みが浮かぶ。
「だが、安心するなよ。我らはついに見つけたのだ!我が主が必ずその娘を奪いに来るであろう!!」
そう叫び、右手に摘んだ何かを高々と上げた妖魔は…息絶えた。
月明かりに煌めき辛うじて視認出来たもの、それは先程抜いたシェーラの髪の毛だった。
突然、空から何かが急降下してきた。
リカームが成す術ない程の速さで髪の毛を浚った生き物は、数度羽ばたいてまた大空へと舞って行った。
その後ろ姿を見たリカームが、驚きの声をあげる。
「あれは…襲握鳥!?」
翼を拡げた大きさは約六メートル。真っ赤な身体に、凶器と形容するしかないような嘴と、牛でも掴めそうなほど太く長い足指を持つ魔鳥だった。
魔物が今でも獣と別視される理由は、彼らが決して人間に隷属しないという本能的な誇りを持っているからだ。ただし、圧倒的な魔力を持った一部の妖魔の呪縛には逆らえないとも伝えられる。
三百年前の魔物達との戦争も、彼らが圧倒的魔力を持つ妖魔王に隷属していたからなのだ。
(魔物を従える程の妖魔……やはり、奴が…)
リカームは友の追っている妖魔の名を、戦慄とともに思い出していた。
*
「……ん……」
「御嬢様、御目覚めになりましたか?」
ぼんやりとした意識の中、妙に安心出来る声が聞こえた。
うっすらと目を開けると、老執事の暖かな目が自分を見つめている。
「リカーム……私!」
突然、あの恐怖が蘇った。異様な体、真っ赤に裂けた口、額に突き出た銀の角…。
シェーラは青ざめた顔で震える肩を抱き寄せていた。
まだ自分は生きている。すると、あれは夢?
一瞬、現実逃避して……しかし、隣に座った老執事の姿を見て、シェーラはそれが現実だと思い知らされた。
きちっと着こなしたしたタキシードは無惨に裂けていた。その下の破れたカッターシャツにも、うっすらと血が滲んでいる。
まるで、何かに吹き飛ばされたかのように…。
「妖魔は倒しました。御安心を」
老執事が微笑んでくれた。
「リカームっ!」
シェーラは老執事の胸に飛び込んだ。
逞しい胸が自分を受け止めてくれた。やっと、生きているという実感が湧いてくる。
しかし…危機は去ったはずなのに恐怖は消えなかった。嬉しいはずなのに震えが止まらない。心が鉛のように重かった。
少しずつ、時間とともに記憶が鮮明になっていく。
―――――――――主がお前を御所望なのだ……ついに見つけたぞ…
まだ終わっていない。直感がそう告げていた。
その証拠に…微笑んだはずの老執事の瞳には、憐れみと哀しみが色濃く宿っていた。
* *
居間にはメリーナを除く屋敷の全員がおしかけていた。
出迎えに出てみると、死人のように青ざめた御嬢様と、ぼろぼろになった老執事が帰って来たのだ。無理もない。
リカームの話を聞いた全員が蒼白になって絶句した。
「………くそっ、何だってシェーラが…」
怒りの込もったアルカイドの呻き声が居間に響く。
妖魔に狙われて無事だった娘は少ない。助かったのはいずれも、軍隊や騎士に守られた貴族や王族の娘くらいだ。いかにマイエル家といえど、軍隊を借りることなど出来はしない。
もし捕まれば無残な死だけが待っている。
重く暗い雰囲気の中、苦渋に満ちたリカームがさらに付け加えた。
「私が勝てたのも、妖魔が御嬢様に気を取られていたためです。まともにやれば今頃生きてはいなかったでしょう…」
妖魔はリカームが背後から近づいて、心臓を一突きしたことにしてある。
自分の正体を隠すためもあるが、どっちみち勝てたのは運が良かっただけなのだ。もう一度戦ってもまた勝てる自信はない。
「うむ、この街にいる冒険者を掻き集めてやる。必ず娘は守ってみせる!」
アルカイドの言葉に一同は大きく頷いた。
その間、打ちひしがれたシェーラは一言も言葉を発することはなかった。
ふらつき気味なシェーラの斜め後ろを、気遣わしげな老執事がついていく。
階段を昇り切り、左に曲がって少し行くと彼女の部屋がある。
部屋のドアを開けたシェーラは、ゆっくりと老執事へ向き直った。
「リカーム」
「はい」
「今日は…ありがとう」
無理に笑顔を作っているのが分かる。
「御安心下さい。御嬢様はこのリカームが守ってみせます」
「…うん」
涙を溢れさせたシェーラは、泣き顔を隠すように部屋に入って行った。
少し間をおいて聞こえてくる嗚咽。今まで泣くのを堪えていたのだろう。
リカームは背中にそれを受け止め、固く心に誓っていた。
(御嬢様は必ず守り通してみせる!……私の命に替えても)
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あるどこかの屋敷の地下。
石造りの室内の奥、煌々と燃える青白い炎だけが唯一の光。
じめじめした空気と底冷えするほどの寒さが、薄気味の悪さを助長させる。そして、もっと薄気味の悪い雰囲気を纏った執事風の男が一人、直立した姿勢のまま佇んでいる。
その前には、豪奢な椅子に腰掛けた青年貴族が冷酷な顔でその男を見下ろしていた。
「まさか人間などに遅れをとるとは…お前達には失望したぞ」
「申し訳ありません、アルベル様。罰はいかようにも受ける所存です。ただ…ザシタスが死際に髪の毛を送ってきたことが気になります。まさかとは思いますが、御確認を…」
男の顔はすっかり青ざめてしまっていた。自分の命運さえ今は危ういのだ。
「ふん。これで何もなければただの犬死にだな」
吐き捨てるように言った貴族は、投げ遣りに髪の毛を炎の中へと落す。
……が、その途端、
ボオオオアアアッ!
突如、青白い炎は、天井を焦がすほどの勢いで燃え上がった。
一斉に、室内が真昼のような明るさに変わる。その光に照らされ、貴族と執事の驚愕した顔が浮かび上がる。
やがて、炎が元の大きさに戻った頃、青年貴族の哄笑が暗い室内に響き渡った。
「ふふ…ふははははははははは!永かった。実に永かったぞ!だが、ついに我らの悲願が…妖魔王が誕生する時が来たのだ。はははははーっ!!」
青年の声は、途中から響くような不気味なものへと変わっていく。
その額からは銀色の角が三本……天へと屹立していた。