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ミイナの帰郷

「では…すみませんが、しばらく暇をいただきます」


 昨日までエプロンドレスを着ていたメイドの少女が、玄関まで見送りに来たシェーラに深く頭を下げた。まだ幼さの残る顔立ち、両肩におさげを垂らした可愛らしいメイドで、シェーラの一つ年下、名をミイナという。


 昨日、突然届いた手紙にはミイナの父親が怪我をしたと簡潔に書かれていた。

 ときに簡潔な文章はかえって心配を煽ることがある。詳しいことを確かめるために一時帰郷したいとクビを覚悟で申し出たのであるが、シェーラはこころよ快く了承していた。


「ミイナがいないと寂しくなるわ。御父上の怪我が治ったら必ず帰って来てね」

「…はい」


 目を潤ませて頷く。

 二人は主従なのにまるで友達のように仲が良く、シェーラの身の回りの世話も彼女が担当する事が多い。ミイナはやや引っ込み思案な少女だが、シェーラの前ではそんな様子は見られないほど仲が良かった。


「それじゃリカーム、ミイナをよろしく頼みます」

「はい」

 

 老執事は物腰柔らかに頭を下げた。

 ミイナを馬車に乗せリカーム老執事は御者席に座ると、軽く声を発して旅立って行った。


 順調に行けば明後日の昼頃にはミイナの家に到着する予定だった。



          *



 陽が沈みきる前、二人は小さな宿屋に入った。

 今日はこのままこの宿屋で一泊して、明日の朝、旅路につく予定である。


 二人は少し遅めの夕食にありついていた。

 ひとつのテーブルに向かい合い、少し固めのステーキを切り分けている。

 しかし、向いで旺盛な食欲を見せる老紳士に比べ、おさげの少女は食もあまり進まないのか物憂げな表情をしていた。


「どうしたんです、ミイナ。食事が口に合いませんか?」


 ミイナは大きく首を左右に振った。肩の下まで伸びたおさげが振り子のように揺れる。


「リカームさん、私なんかのために御者をさせてしまって本当に申し訳ありません!リカームさんは執事の仕事が忙しいのに」


「ああ、それなら心配いりませんよ。前々から休みをとって旅行にでも行こうかと思っていた所でしてね、それがこんな可愛らしい娘さんを連れに出来て感謝しているくらいですよ」


「で…でも、手紙には心配するなって書いてあったんです。それを私の我侭に付き合わせてしまって…」


「心配するなって方が無理なんですよ。それにシェーラ御嬢様からこんな伝言を預かってます…ゆっくり甘えてきなさい、とね」


「シェーラ様が…」


 ミイナは涙ぐんでいた。

 リカームとほぼ同時期にマイエル家へとやって来た彼女はこの一年、里帰りは一度もしていない。遠い村から来ているメイドには珍しいことではないが、やはり内心では郷愁の念を日々つの募らせていたのだ。


 感動に後押しされたミイナは何かを思い立ったように姿勢を正した。ハンカチで涙を拭き取ると、勇気を出して老紳士に話しかける。


「リカームさん。今日はその……いろいろとお話してもいいですか?」


 いつも気弱な性格のため、この素敵な老紳士とろくに話をしたことがなかった。

 だが、今日だけはこの老紳士と二人っきり。メイドの先輩達がハンカチを噛んで悔しがるような状況である。もちろんノリのいい小芝居ではあるが…。


 老紳士はいきなり立ち上がるとあの羨望の会釈を返した。


「こちらこそ、喜んで」


 顔をあげた老紳士と目が合った。

 しばし見つめ合う。


「ぷ…あはははははは!!」

「ぷ…わっはっはっは!!」


 同時に吹き出す。

 声をあげて笑う老紳士と少女に、しばしの間酒場の視線が集まっていた。



         *



 翌日。

 陽は中天へとさしかかっていた。


ガタゴトガタガタ…

ヒヒ~ンブルブルル


 馬車をひ牽くアレクサンダーがいなな嘶く。マイエル家の馬の中でも一番強健な馬だ。漆黒の毛並みを躍動させながら、二頭牽きでもおかしくない馬車を軽々と牽いて行く。


ブフ~ッ…


 アレクサンダーの鼻息とともに馬車はとま停った。

 周りに木々のない小高い丘だ。


 老執事は御者席を降りると、扉の前で胸に手をあて一礼した。


「御嬢様、ここで昼食をと思いますが宜しいでしょうか?」


「は…はい、お願いします」


 ややどぎまぎして答えた少女は扉の掛け金を外した。

 老執事が扉を開け、手を差し出す。


 中から出て来たのは藍色の髪をなび靡かせ、緑色のドレスを着こなしたレディだった。気品を漂わせ、落ち着いた仕草はさるどこかの御令嬢だ。


 背中まで下した髪のせいか、可愛らしい少女は美しい淑女へと変貌していた。

 昨日、遅くまでリカームと話をした時、家に着くまでの間だけでいいから御嬢様を演じて欲しいと頼まれたのだ。

 同じ年頃の少女に仕えることで何か発見があるかも知れない…と。

 そして何より、自分はこっちの方がしっくりくる…と。


 ミイナは躊躇いがちに差し出された手を取った。その手は強くたくま逞しく、この老執事が男性であることを思い出させた。


(私ったら何を考えてるのかしら…やっぱり慣れない演技のせいで意識し過ぎているんだわ)


 まだ幼さの残る少女は、それが女の直感だとは思わない。


 やや紅い顔で馬車を降りた少女は、丘の上から見える景色にしばし目を奪われた。

 微かな風に草の波がきら煌めいては、いずこかへと流れていく。打ち寄せるはず葉擦れの音も、ここち心地よい音を奏でていた。

 ランチには最高の場所だ。


 しばしの間、陶然とその光景に魅入っていたミイナに、老執事の声がかかる。


「ミイナ御嬢様、用意が整いました。こちらにお座り下さい」

「あ、はい」


 振り向くと、座るのに手頃な岩の上にはハンカチが敷かれてあった。その横にはサンドイッチの入ったバスケットが置いてある。胸に手をあて、腰を折る老執事。


(先輩達が見たら、本気で意地悪されそう…)


 自分は貴重な体験をしているのだと、改めて実感していた。短い間だが、御嬢様を楽しんでみようと思った。


 ミイナはドレスを揺らして老執事のもとまで歩むと、


「ありがとう、リカーム。一緒に食べましょうね」


 言葉が自然に出ていた。解いた髪が風にたなびいて、少し大人っぽい印象を感じさせる。

 老執事が嬉しげに返事をしたことは言うまでもない。



          *



「お姉さま、ミイナ今頃どうしてると思う?」


 まだ幼い少女が、テーブルの向かいに座る姉の顔を覗き込んで尋ねた。

 妹の問いかけに、姉は少し考えて、


「そうねえ、馬車に乗ってるか、昼食をとっていると思うわ…心配?」

「うん」


 メリーナが即答した。幼い妹にとって、ミイナは大事な遊び相手でもあるのだ。


「大丈夫よ。リカームが一緒だもの、暗いことを考える余裕はないはずだわ。結構、楽しい旅をしてるんじゃないかしら?」


「ミイナが戻って来たら旅の話をしてもらおうね」


「ふふ、そうね」


 いつもよりちょっと寂しい食後の一時。いつも後ろに付き添ってくれる老執事はいないが、少しくらいなら我慢出来るだろう。彼にとっても良い休暇となってくれればいいのだが…。


 溢れる程の笑顔を見せる妹は、おさげの少女が帰って来ることに少しも疑いを持っていない。

 そんな妹の顔を見てシェーラは、ミイナが必ず帰って来ると確信していた。



          *



 田舎にそぐわぬ馬車が、古びた農家の前で止まる。

 辺りには他に家はなく、家畜を放す柵やあまり大きくない畑が目の前に拡がっている。


 見慣れない馬車が停ったことに疑問を感じたのか、家の者が外へ出てきた。奥方らしい女性に付き添われた松葉杖の男がけげん怪訝な顔のまま馬車へとやって来る。


 馬車の方では既に御者が降りて扉を開けていた。中から出てくるのは一体どんな人物なのか、自分達に何用なのか、二人の夫婦は息を呑んで注目した。


「御嬢様、足下にお気をつけ下さい」


 御者をしていた老紳士が主の手を取り、優雅にエスコートする。心なしか奥方の視線が老紳士の方へと移っているのは…まあ仕方ないことだろう。


 馬車の中から現われたのは鮮やかな緑色のドレスに身を包んだレディだった。

 白い帽子を目深に被っているので顔はわからないが、その気品や物腰は高貴な家の御令嬢のものだ。


 少しウェーブのかかったディープ・ブルー藍色の髪を靡かせて、レディは楚々とした足取りで松葉杖の男の前にやって来た。その斜め後ろにはしっかりと老紳士が控えている。


 亭主は緊張していた。こんな田舎に…それも自分の家なんかにこのような客人など一度として来たことがない。なにかの間違いでは、と本気で思っていた。


「あ、あの…私どもに何か御用でしょうか?」


 緊張した面持ちで尋ねた。

 レディはゆっくりと首を振り、


「もう…さんざん人を心配させといて…」


 帽子をゆっくりと外す。髪が風に靡く。

 夫婦は唖然としたまま声も出せない。


 そこにいたのは、かなり大人っぽくなっていたが間違えようのない実の娘であった。


「ミ…ミイナ!?」

「ただいま。父さん、母さん…」


 久しぶりに帰ってきた娘は、勢いよく父と母に抱きついた。

父と母はまだ驚きから立ち直れないのか、目を丸くして見違えた娘を凝視していた。



          *



「ははは、すみませんでした。ミイナには私のわがままを聞いてもらっただけなんです。御蔭でいい参考になりました」


 テーブルに腰掛けた老執事がにこやかに謝った。

 向かいには体を縮こまらせたこの家の主達が、下を向いて固くなっていた。


「いえ、謝るのはこちらの方で…。女房が紛らわしい手紙を出したせいで、御屋敷の執事様に大変な御迷惑を…本当に申し訳ありませんでした!」


「申し訳ありません…」


 両親ともすっかり恐縮してしまっている。


「そんなに謝らないで下さい。私も楽しい旅を満喫出来たのですから。怪我が大したことなくてなによりです」


 老執事は出されたお茶を飲みながら微笑む。

 隣の部屋ではミイナが二人の弟の相手をしていた。積もる話がたくさんあるのだろう。


「さて、私はこのへんで失礼させていただきます。ミイナには明日また迎えに来ると言っておいて下さい」


「えっ、そんな。どうぞ今日はうち家に御泊まりになって下さい。大したおもてなしは出来ませんが、せめてものお詫びを」


「御気遣いなく。それに今日は一年ぶりの家族水入らずではありませんか。私は近くの村で宿を取りますので心配は要りません」


 老執事は喋りながらすでに出口へと向かっている。止める間もあればこそだ。


 家を出て馬車に向かう老執事は、一つ聞き忘れていることに気付き、見送りに来た両親を振り返った。


「御主人。一つ聞き忘れておりましたが、どうしてそのような怪我を?」


 一応、主への報告のために聞いたのであるが、父親は急にそわそわしだした。


「そ、それはその…魔物に襲われまして」


「ほう、それは災難でしたな。しかし、その程度で済んでなによりです。それでは私はこれにて失礼致します」


 何か引っ掛かったが、リカームはあえて疑問を口にしなかった。




           *       




 ミイナの実家を離れたリカームは、宿をとるため近くの村へと馬車を進めていた。

 執事になる前はあちこち放浪していた彼にとって、旅などなんということはない。その気になれば野宿でも構わないのだ。


 唯一つの心配は御屋敷の主達のことだ。自分がいなくてシェーラが忙しい思いをしてないかとか、メリーナが駄々をこねてないかとか…。

 街道を行くリカームがそんなことを考えていると、


「ん?この匂いは…」


 灰の匂いがした。それ自体は別に珍しいものではないのだが、よく見ると木の枝などに薄く灰が積もっている。これほど広範囲に灰が降るなど、余程大きな火災が起きたに違いない。


 突然、リカームはさっきの父親の態度を思い出した。


「まさか」


 小さく叫んだリカームは、アレクサンダーを風上へと向けてむち鞭を入れていた。




 風上を行くと森に突き当たった。この先は馬車を降りなければならない。用心のために馬車や馬に魔除けの札を貼っておく。


 魔除けの札とは紙に魔物の嫌がる匂いを染み込ませたものである。表面には幾何学的な模様が書かれていた。昔はこれに魔導士が魔力を込めていたというが、魔導の廃れてしまった現在、ただのお守りにしかならない。


 森の中を進むごとに匂いは濃くなっていく。もはや、推測は確信へと変わっていた。

 鬱蒼と繁ったやぶ薮を通り抜けた時、リカームの視界は大きく開けた。


「やっぱり・・・」


 そこは一面の焼け野原だった。


 焼けた大地には炭となった大木や厚く積もった灰が散乱している。森の真ん中にぽっかりと大きな穴が空いたようなものだ。周囲の木は切り倒され、切り株が焼け野原を囲むようになっていた。

 ちょっと風が強ければ大きな森林火災になっていただろう。


 こういうことはよくあった。無許可の焼き畑は禁止されているのだが、誰だって苦労して少しずつ開墾するよりは一気に大きな土地を手にいれたい。

 誰にも見つからない場所に延焼を防ぐ処置をしてから森に火をかけるのだ。多かれ少なかれどこの農家でもやっていることである。


 しかし、焼き畑というのは森の生態系をいちじる著しく壊す。特にこんな森の真ん中ではなおさらだ。これでは多くの獣は別の森に移ってしまったはずだ。

 獲物がいなくなって飢えた魔物が人間を襲ったとしても不思議ではない。


「これは…何か手を打たないといけませんね」


 つぶや呟いたリカームは、深刻な顔で元来た道へと戻って行った。




             *    



 夜。月は欠けることなく辺りを照らし、森の手前にある一軒家をくっきりと浮かび上がらせている。その窓からはランプの明かりが洩れ、中での暖かな団欒を連想させる。


 今、その一軒家に二つの影が歩み寄っていた。影は血走った眼を闇に輝かせ、激しい吐息で明かりを凝視していた。



 ミイナは久しぶりの一家団欒を楽しんでいた。

 既にドレスから普段着に着替え、髪も二本のおさげに戻している。


「それにしてもお姉ちゃんが来た時はびっくりしちゃったなあ。まるで、どこかの御嬢様のように綺麗なんだもん」


 向かいに座ったわんぱくそうな少年が、にーっと顔いっぱいに笑みを作って言った。


「ふふっ、ありがとミット。私もそんなに驚いてくれるとは思わなかったわ」


「それに前よりも上品になったみたい」


 隣に座ってミイナに縋り付いていたおかっぱ頭の少年も、姉を見上げて呟いた。


「そう?ジェミルありがと」


 ミイナは嬉しそうに、今年八歳になる弟の額をちょんとつついた。


 そうされることが嬉しいのか、少年は零れそうなほどの笑顔で姉の胸に飛び込んだ。ちなみに向かいのミットは今年十歳になる。


 おさげの少女はジェミル弟の頭を撫でながら、


「マイエル家では仕事の合間にメイド長のミアラさんがレディたる者…って、いろんなことを教えてくれるのよ。先輩方は口うるさいとか言ってるけど、本当はとっても感謝してるんだから。レーラさんて先輩なんか、今度はダンスを教えてくれるって聞いたらミアラさんに飛びついて熱烈なキスをしちゃったんだもの」


「あははははは!」


「ミイナ…お前、素晴らしいお屋敷に行ったんだね」


「うん」


 母親の言葉に、ミイナは満面の笑顔で答えていた。

 久方ぶりの一家の団欒は、今宵遅くまで続くと思われた。


 しかし、


ガシャアアアン!


 ガラスの割れる耳障りな音によって、一家の団欒は掻き消された。


「きゃあああっ!!」


 窓を突き破って何かが飛び込んで来た。ガラスの破片が部屋の隅々にまで飛び散る。


 ミイナと母親が子供達を抱えて部屋の隅へと固まった。

 家族を守るため松葉杖を構えた父親が、驚愕の叫びをあげる。


「フライング・リパー飛刃猿…」


 その姿は猿に似ていた。大きく裂けた口からは長い乱杭歯が突き出し、両人差指には大きく変形、発達した鎌のような爪が備わっていた。

 そして最も大きな特徴が、赤褐色の獣毛の中から生える赤黒い翼だった。形は蝙蝠の翼に近いが、まだ自力で飛べるほどには発達していないと言われている。


 二匹の魔物は血に飢えた真っ赤な眼で、自分達を凝視している。明らかに獲物として自分達を狙っている眼だ。

 五日前、ミイナの父親…ラスター=ハイルトンを襲った時と同じ、怒りに眩んだ眼をしていた。


キシャアアア!


 飛刃猿が震える人間達に襲いかかった。


「きゃああああああ!」


 父親の構える松葉杖に跳び付いた飛刃猿は、あっさりとそれを噛み砕いた。

 やはり、そんなものでは魔物には通用しない。父親は成す術なく床に組み伏せられた。

 獲物を引き裂こうと、鎌のような爪が煌めいた。


「待ちなさい!!」


「ギイッ?!」


 いきなり後ろから聞こえた声に、二匹の魔猿は身を硬直させて振り向いた。


 いつの間に入って来たのか、魔猿の背後にはマントを羽織ったタキシードの紳士がたたず佇んでいた。


「リカームさん!?」


 一瞬、あの老執事かと思った。

 だが、違う。見上げた紳士の顔はもっと若い、二十代半ばの青年だった。

 裏地が赤の黒マントが妙に似合っている。なんとなく知り合いの老執事に似ていた。


 二匹の魔猿はその姿を見るや、父親のことなど忘れたかのように紳士に襲いかかった。一番強い相手を最初に倒す…魔物や獣の本能だ。紳士はそれが分かっていたのか、魔猿を誘うようにマントをひるがえ翻すと、壊れた窓から外へと踊り出た。


 母親が父を抱え起こしている間、ミイナはさっきの紳士のことが気になっていた。家の外では魔物の唸り声と激しい物音が聞こえる。


 まだ、戦っているのだ。


 ミイナは紳士が丸腰だったことを思い出し、手近にあったフライパンを持って入口へと駆け出していた。




 飛刃猿の爪が喉を掠めた。

 紳士は鮮やかなバックステップでその魔猿と距離をとる。


 横合いから別の魔猿が屋根まで飛び越すような跳躍をした。そのまま紅翼を拡げて紳士に向かって滑空する。

 彼はマントを翻して敵の眼を撹乱すると、その脇を通り抜けた。


(ふうっ…さすがに武器がないと辛い。マントもいつまで持つか…)


 今までは華麗なマントさば捌きで攻撃を避け切っていたが、それもあまり通じなくなってきている。マントは既にぼろぼろになっていた。

 彼にとっては短剣一つあればケリをつけることは造作ない相手だ。しかし、そんな気は全くない。今回はこの魔物達こそ被害者なのだから。


 彼が二度目の滑空を避けた時、家の中からミイナが駆け出して来るのが見えた。満月となれば夜でもその姿がよく分かる。少女の手にある黒ずんだ塊さえも。


 青年紳士はそれを見た途端、大声で叫んでいた。


「ミイナ、それを投げて下さい!」

「え…はいっ!」


 言われるままに、ミイナはフライパンを放り投げた。

 回転するフライパンは、魔物の攻撃をかわ躱す青年紳士の右手に吸い込まれるように納まった。


「グアアア!」


 苛立ちの声をあげる魔猿が、とうとう紳士の懐に入り込んだ。

 しかし、その紳士の右手には…


パアンッ!


「ギャッ!」


 景気のいい音とともに、飛刃猿の一匹は地面に叩き伏せられていた。もう一匹が仲間の仇を討とうとあの驚異的な跳躍からの滑空を行う。


 青年は肩のマントを外して魔物に投げつけた。


「キイッ!」


 魔猿は未発達な翼を羽ばたかせてこれを避けた。そのまま標的へと…が、標的は消えていた。


パカアアンッ!


「グキャンッ!」


 いつの間にか頭上まで跳躍していた青年によって、魔物は叩き落された。マントに隠れて位置を移動していた彼の作戦勝ちであった。


「はあ、はあ、はあ…」


 荒く息を継ぎ、青年紳士は魔物達を見下ろした。

 二匹とも伸びてはいるが、頭以外はたいした怪我はない。気がつけばまた暴れ出すことは目に見えている。


 難しい顔をして考え込む青年のもとに、おさげ髪の少女がおずおずと歩み寄った。その向こうでは他の家族もこちらへと歩いて来ていた。


「あの…危ないところを本当にありがとうございました。どこかお怪我はありませんか?」


「いや、心配は無用だ。それよりも御主人!」


「は、はい!」


 紳士の強い口調にびくっと反応する父親(ラスター)

青年紳士は無表情で続ける。


「これがあなたが森を焼いた結果だ。多くの動物を森から追い出し、魔物達をここまで追い詰め、そして自分の家族を危ないめに遭わせてしまった」


「!?」


 容赦ない紳士の言葉。

 家族の視線が集まる中、青ざめた父親は紳士に向かって膝をついた。


「す、すいません!まさか、こんなことになるとは…」

「父さん…」


 父親が自分を遠くへ出稼ぎに出すことに責任を感じていたことを知っていた。禁忌を破ってまで森を焼いたのは家族に楽な暮らしをさせてやるためだったのだ。


「森は人間だけのものではない。反省しているのなら、もう二度とあそこには立ち入らないように」

「…はい」


 ラスターは素直に承諾した。

 おそらく、前々から罪の意識を感じていたのだろう。住み家を追われた魔物が誰かに迷惑をかけていないか…と。


 青年紳士はうむと頷いた。


「この魔物達は私が責任を持って別の森に連れて行く。なに、そのうち動物達も増えてまた彼らも戻って来れるようになるさ」


 紳士はそのまま魔猿を抱えて立ち去ろうとする。ラスターが慌てて名を尋ねたが、青年ははぐらかすだけで決して名乗ろうとはしなかった。


 いずこ何処かへと去って行く紳士にミイナが叫ぶように礼を言った。


「あの…紳士様、どうもありがとうごさいました!」

「お嬢さん、ナイスフォローだったよ」


 背中越しに声をかけた紳士は一度も振り向くことなく、魔物を抱えたまま夜の闇に消えて行った。

   


          *



 翌日。

 ミイナは昼近くになってやってきた馬車に乗り、御屋敷へと戻りつつあった。


 馬車の中にあっていまだに思い出すのは、昨日のことだ。

 マントを靡かせた素敵な紳士の姿が何度も脳裏をよぎる。夢見心地に昨日の謎の紳士を回想していたミイナは、一つおかしな点があるのに気が付いた。


(あの時…確かに私の名前を呼んだわ。私とは初対面のはずなのに)


 いくら考えてみても分からない。

 そのうち、うとうととしてしまい、ミイナは馬車の壁に頭をもたせかけた。

 昨日はいろんなことがあり、なかなか寝つけなかったのだ。流れる景色を視界に納め、段々と睡魔に身を任せて行く。

 視界が完全に閉ざされる直前、窓枠に一条の赤毛を見たのが最後…


(えっ、今のは?!)


 眠気が一変に吹き飛んだ。眼を開き、毛を指につま摘んでじっくりと見てみる。

 赤褐色の獣毛…それは昨日部屋に飛び込んできた魔物と同じ色をしていた。


 突然、ある仮説が閃く。


(まさか!?)


 ミイナは馬車の中をくまなく調べた。

 馬車の中には急いで掃除した跡があったが、座席の隙間や隅の方に同じ獣毛を何本か発見した。


「やっぱり間違いないわ。まさか、リカームさんが…」


 そう考えると今までの疑問が全て繋がる。

 全てはあの老紳士の御蔭だったのだ。いや、老紳士と呼んでいいものかどうか…。

 リカームの意外な正体を、すぐには信じられないミイナであった。


ブルルフッ!


 アレクサンダーがくしゃみのような吐息をつく。

 彼も昨日の夜から走りづめで、少し疲れているようだった。


(リカームさん…ありがとう)


 ミイナは心の中で礼を言った。

 本当は口に出して言いたいが、知らないふりをしてあげた方がいいだろう。

 気が付くと、老紳士をさらに身近に感じるようになっていた。


「リカームさーん!一つ頼み事があるんですけど、いいですか?」


 窓から頭を出して大きな声で呼びかけた。


「何でしょう、ミイナ」


 いささか覇気のない声が帰って来る。


「昨日なかなか寝つけなくて…少しお昼寝して行きませんか?」


「それはありがた…いえ、そうですね。アレクサンダーも疲れ気味ですし、ちょっと休んで行きますか。では、気持ちの良さそうな木陰を探しましょう」


 徹夜明けでは今の時間、さすがに辛いのだろう。リカームの嬉しさを隠しきれない返事を聞いて、ミイナは馬車の中でくすくすと笑った。


「ふふ~ん、ふんふん…」


 上機嫌な老紳士が、聞いたこともないような音程を口ずさむ。通り過ぎる人々がくすくすと笑っているが気付いてない。

 ぽかぽか陽気の街道を、それにもまして陽気な鼻歌が流れていくのだった。


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