プロローグ
その大陸に大きな戦乱がなくなってから三百年が経つ。
異世界より襲来した魔王による戦役も今は昔、世界は惰眠のような歳月を貪っていた。
王都から幾分離れたこの街ティフランの外れには、広大な敷地を持つ三階建ての大きな屋敷がある。この街で一、二を争うといわれる事業家マイエル家の屋敷である。
チリンチリンチリ~ン!
「リカーム、リカーム~ッ、どこにいるの~っ!」
鈴の音とそれよりも大きな幼い声が、屋敷の隅々にまで響き渡る。
またメリーナ様のお呼びですか。まだ御幼少とはいえ、老人をあまり急き立てるものではありませんよ。まあ、御嬢様方のお役に立てるのが私の無情の歓びなのではありますが…。
私は苦笑する姉のシェーラ御嬢様に目礼をすると、部屋を出て廊下を急いで歩きます。
もちろん、走るなんてみっともない事は致しません。けれど、迅速に。
「メリーナ御嬢様。御呼びでしょうか」
鈴の音から十も数えることなく、扉の前で渋い声を発します。
この渋い声というのが案外練習を必要とします。気を抜くとなんの重みも無い声になってしまいますからな。
白髪をオールバック、蝶ネクタイに黒のタキシード、物腰柔らかな六十歳前後の老紳士。今の私はどこからどう見ても渋い老執事ですが、やはり醸し出される年輪というものは中々真似できないものです。
もちろん、日々己を磨いていますとも。そのうち、加齢臭さえ醸してみせましょうぞ。
入室の許可が聞こえる前に勢い良く扉が開け放たれ、小さな少女がまろび出てきました。
少しウェーブのかかった栗色の髪に、元気の溢れる豊かな表情。まだ、八歳になったばかりのおませで可愛らしい御嬢様。
マイエル家の次女・メリーナ御嬢様であらせられます。
「もう~遅いじゃないの。あのね…リカームにお願いがあるんだけど…」
思わず孫に対する祖父のような慈愛が湧き上がるのですが、ここはマイエル家の使用人として受け答えねばなりません。
――――――老紳士は趣味ですが、執事は仕事ですので。
「申し訳ありませんが、外出はアクラを御連れ下さい。私はシェーラ御嬢様付きの執事ゆえ、シェーラ様のお許しがなければ外出はできないのです」
自然体の姿勢から右手を胸にあてて軽く腰を折る。全体から滲み出る優雅な物腰の会釈は、日々練習の賜物です。
「なら、あたしがお姉さまにお願いしてくるわ。待ってて!」
「えっ…」
見事なサイドステップで脇を抜かれました。
…………は、速い。返答する間もありませんでした。
うむ、やはり子供は元気が一番ですな。淑女教育などまだまだ必要ないと思いますぞ。
メイド長に具申したら怒られそうですが…。
私は苦笑しつつ、メリーナ様を追いかけてシェーラ様の執務室へと向かいます。
「ねえ、お願い!ほんの二時間くらいでいいから!」
「昨日もそんなこと言って、遅くまでリカームを引っ張り回してたじゃない。リカームも歳なんだから可哀想よ」
幼い妹に優しく諭して聞かせているのは姉のシェーラ様です。
十六歳になる栗色の髪の少女であり私が心から忠誠を捧げる御方であり、御屋敷の使用人達にも気を使ってくれる優しい方でもございます。ゆったりとした淡い水色のワンピースも、気さくなシェーラ様によく似合っておられます。
主自慢で誠に恐縮ですがその容姿はこの街で知らぬ者はないというほど麗しく、この御歳で旦那様から幾つもの会社を任されているほどの才媛でもあります。
現在、旦那様が仕事で屋敷を留守にしているため、シェーラ様が実質的なこの御屋敷の主なのです。
「そんなことないよ!リカームも楽しいって言ってくれるもん。それにリカームはアクラよりよっぽどタフなんだから」
おやおや、メリーナ様も引く気はないようですな。自嘲せねば…とは思いつつも、熱烈な御好意に嬉しさが隠しきれません。
ちなみにアクラとはこの屋敷で一番若い執事のことです。旦那様付きの執事であるハタルさんを除けば、現在このお屋敷には私を含めて三名の執事がおります。
「もう…リカームはどうなの?嫌だったらちゃんと言ってくれていいのよ」
老執事に対する労わりの心に感謝します。
……ですが、私に返答を預けたという事は大した仕事も残っていないのでしょう。
後は私だけの問題ならば、私の応えは決まっています。
私はぴしりと頭を下げ、
「シェーラ御嬢様がよいとおっしゃ仰るなら、メリーナ御嬢様に御同行したいと存じます」
あまり大っぴらには出来ませんが、体力だけは有り余っていますので。
私の返答が予想通りだったのか、シェーラ様は笑いを噛み殺し…
「それでは、メリーナの面倒お願いします。くれぐれも無理はしないようにね」
「はい」
主の優しい気遣いに小さな感動を覚えた私は、深くおじぎ御辞儀をするとメリーナ様と一緒に部屋を出て行きました。
本当は…シェーラ様も息抜きにお連れしたいのですがね。
*
「リカーム~。早く~!」
「メリーナ御嬢様。あまりお急ぎになると転びますよ」
大通りを走る御嬢様に声をかけておきます。
街まで馬車を出そうとしたのですがメリーナ様の…歩いて行きたい!という言葉で却下されてしまいました。
今日の目的地は市場です。
市場ではいろんな店がのき軒を連ね、沢山の人達が活気のある声をあげています。
メリーナ様は私から貰ったわずかな御小遣いで、何を買おうか迷ってはあちこちを行ったり来たりしています。やはりこういう経験も幼少期の情操教育に必要な事と心得ます。
やがて、何か面白そうな物を見つけたのか、御嬢様は私を手招きで呼び寄せました。
「リカーム、リカーム。こっち来て、これってなーに?」
小さな御嬢様が好奇心いっぱいの目をして指差したものは、台の上に並べられた掌サイズの紙の束でした。長方形の紙の表面には複雑な模様が書き込まれています。
「ああ、それはまよ魔除けの札ですね。布紙に魔物の嫌う匂いを染み込ませて、近寄らせないようにした物です。昔は魔導士が魔力を込めていたという話ですが、現在ではただのお呪いですね」
店主がじろりと睨んできますが、魔導の廃れた現代でこれを魔導具と間違える人はいませんよ。魔除けとしては結構使えますがね。
「ふ~ん、でもあたし魔物なんて見たことないけどそんなに怖いの?」
「そりゃあ怖いですとも。大の男でも震え上がってしまいます。まあ、それは街の警備隊か冒険者にお任せすればいいですから心配ありません。そうですね……今度シェーラ様にお願いして、魔物博物館でも見学に行きましょうか?」
「えっ、本当?行く、行くっ!約束だからね」
人差し指を立て、片目をつむ瞑ったおませなポーズで念を押す。
これはメイドの一人、レーラの真似でしょうかね。
「はい」
同じく片目を瞑って返事を返してみました。
「わーい、リカーム大好き!」
メリーナ様は感激を体で現して私に飛びつきました。そして、勢いのまま私の皺だらけの頬っぺに軽くキスしました。変装用の人工皮膚で申し訳ないですが。
「お、御嬢様!はしたないですぞ」
そりゃもう、執事として注意しますよ。しかし、孫を可愛がる御老人の気持ちが分かりますな。
うむ…メリーナ様なら、本当に目の中に入れても痛くないかも知れませんぞ。
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窓から眺める景色がすっかり紅くなり始めた頃、私は読んでいた本にしおり栞を挟み窓際へと向かった。
黒い表紙の本には”事業経営論”という題目がある。
我ながら、なんて色気のない本を読んでるんだろう…と苦笑してしまった。
私は窓枠に手をかけると、夕日に焼けた街の方角へと目を凝らす。
「もうそろそろ…帰って来る頃じゃないかなあ」
呟いて遠くを見つめる私の目に、丘を登ってくる黒い影が見えた。
前へと伸びる影の元には見慣れた老執事の姿がある。
可愛い妹の姿が見えないが、少しも気にならない。また、いつものようにリカームの背中で寝ているのだろう。
リカームって歳の割に結構体力あるのよね。
私は窓枠に肘をつくと、溜息まじりに呟いていた。
「あ~あ…子供はいいよね。素直に甘えられて…」
年頃の淑女にはあんなスキンシップはとても真似出来ない。ましてや、相手が理想の男性ともなるとかなり気恥ずかしい。
精々、こうやってちょっとした焼き餅を焼くらいだ。
春の到来を告げる悪戯な風が二人を出迎えている。
そんな暖かな光景を、私はくすくすと笑いながらいつまでも眺めていた。