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1話 泥濘の堕天使

激痛で、世界が白く弾けた。


 全身の骨が軋み、肺が潰れるほどの衝撃。  口の中に広がったのは、かつて天界で味わった甘露ではない。鉄錆と、腐った泥の味だった。


「が、は……ッ!」


 アザゼルは咳き込みながら、重い瞼をこじ開けた。  視界が赤い。額から流れた血が、片目を塞いでいる。  身体を起こそうとして――背中に走った灼けるような喪失感に、息が止まった。


 ない。  誇りだった純白の翼が、ない。


『――堕ちよ。情に惑う者に、天の席はない』


 脳裏に焼き付いた冷酷な宣告。  天界の支配者、ソロモン。  無機質で完璧だった白亜の広間。引き裂かれる羽根の音。同胞たちの蔑むような視線。  人が救いを求める声を「雑音」と断じた、あの完璧な秩序。


「……ッ、ソロモン……!」


 アザゼルは泥を握りしめた。爪が剥がれ、指先から血が滲む。  許さない。俺から全てを奪い、あの母子の祈りすら踏みにじったお前を。


 顔を上げると、そこには天界では決して目にすることのない、「極彩色」の地獄が広がっていた。


 暴力的なまでに青い空。不規則に流れる雲。肌を焼く太陽。  湿った土の匂いが鼻孔を犯し、虫の羽音が耳障りに響く。  「不変」こそが至高とされる天界とは真逆の、目まぐるしく、騒がしく、生々しい世界。


「……これが……地上……なんと、汚らわしい……」


 吐き捨てるように呟く。  だが、その不快感と痛みこそが、自分が「生きて堕ちた」証だった。


「其処までだ! 怪しい影を発見!」


 金属音が静寂を切り裂いた。  草むらを掻き分け、数十の影がアザゼルを取り囲む。陽光を反射する銀の鎧。切っ先を突きつけられた剣。  ドロステ王国の騎士たちだ。


「動くな! 貴様、何者だ!」


 騎士の一人が怒声を上げる。  アザゼルは揺らぐ視界で彼らを睨み返した。たとえ泥にまみれようとも、自分は高貴な天使だ。下等な人間如きに怯む理由はない。


「……頭が高いぞ、人間。我は、アザゼ……」


 威厳を込めようとした声は掠れ、風にかき消された。  喉が焼けている。魔力も底をつき、声を張り上げる力さえ残っていない。


「なんだ? 答えぬか!」 「空から落ちてきたぞ、魔物の一種か?」 「いや、人の形をしているが……あの髪、見ろ」


 騎士たちの目が、怯えと嫌悪に変わる。  泥と血にまみれてもなお、アザゼルの髪は月光のように白金に輝き、瞳は人ならざる黄金の光を放っていた。  異質。異端。この世界には存在しない色。


「この国は正義の旗の下にある。不審者はすべて、裁きの座へ!」


 一人の騎士が剣を振り上げる。  殺される。  アザゼルは歯噛みした。こんな泥の中で、薄汚い人間たちに囲まれて終わるのか。


「待て」


 凜とした声が、殺気を制した。  騎士の列が割れ、一人の女が進み出る。


 白銀の鎧。翼の意匠が刻まれた肩当て。  整ってはいるが、氷のように冷たい瞳をした女騎士。彼女は、路傍の石ころを見るような目でアザゼルを見下ろした。


「ただの放浪者か、あるいは魔か。……王の裁きに委ねる」


 有無を言わせぬ指示で、分厚い鉄の枷がアザゼルの両手首に打ち込まれる。  ガチャン、と重い音が響き、アザゼルの誇りは地に落ちた。


「連行しろ。地下牢がお似合いだ」


 引き立てられる最中、アザゼルは空を仰いだ。  遥か高く、憎らしいほどに遠い場所に、白い月が浮かんでいる。  かつての故郷。そして今は、憎悪の対象。


(見ていろ、ソロモン)


 泥に足を取られながら、アザゼルは胸の奥で黒い炎を燃やした。


(この泥濘(ぬかるみ)から這い上がり、必ず貴様の首を……!)


 アザゼルの手から滴り落ちた血が、地面に染み込む。  その瞬間だった。  血を吸った地面が不自然に隆起し、一瞬にして青々とした双葉が芽吹いたのは。


 踏み潰されそうなほど小さな、けれど異常な生命力を宿したその「萌芽」に――まだ、誰も気づいてはいなかった。

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