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シーグラス

作者: 後藤翠
掲載日:2025/12/17

 この町では、時間がまっすぐ進まない。

 前に進んでいるはずなのに、同じ場所に戻ってきてしまう感覚がある。

 住んでいる人間は、それに慣れてしまっている。


 駅から自転車で十五分ほど走ると、海に出る。

 観光用に整えられた浜ではなく、岩と砂が混じった、名前のない海岸だ。

 防波堤のせいで、水平線は最後まで見えない。


 それでも、波の音だけは届く。

 近いとも遠いとも言えない距離で、ずっと。


 小川澪の名前は、昔から知っていた。


 同じ町で育ち、同じ保育園に通っていた。

 砂場で遊んだ記憶がある。

 色の剥げたスコップと、割れかけのバケツ。

 何を話していたのかは、思い出せない。


 小学校に上がる頃、自然と話さなくなった。

 理由はない。

 ただ、同じ場所にいなくなった。


 中学ではほとんど言葉を交わさず、

 高校二年で同じ教室になったときも、

 特別な感情は湧かなかった。


 懐かしいわけでも、親しいわけでもない。

 ――知っている。

 それだけだった。


 クラス替えで、俺は窓際の席になった。

 後ろの席に座っていたのが、澪だった。


 最初に言葉を交わしたのは、彼女が消しゴムを落としたときだ。


「どうぞ」


 拾って渡すと、澪は一瞬だけこちらを見て、頭を下げた。


「ありがとう」


 それ以上は続かなかった。

 続けることはできたはずなのに、俺は何も言わなかった。


 澪は目立つタイプではない。

 けれど、完全に背景になることもない。


 声を出せば教室に届く。

 笑えば、周囲もそれに応じる。

 ただ、彼女は自分から輪に入らない。


 呼ばれれば応じる。

 だが、自分から呼ぶことはしない。

 その距離の取り方が、以前よりも少しだけ不安定に見えた。


 六月、数学の小テストで赤点を取った。

 放課後、補習教室に向かう。


 同じように呼ばれた生徒は何人かいたが、澪の姿はなかった。


 帰り道、自転車置き場で澪を見かけた。


「補習?」


「うん」


「大変だね」


 それだけ言って、澪は鍵を閉めた。


 沈黙が落ちた。

 立ち去るには十分な間だった。

 それでも、俺はそこに残った。


「海、行く?」


 澪が言ったのは、少し間を置いてからだった。


「今から?」


「うん。寄り道」


 理由は説明されなかった。

 断る理由も、なかった。


 夕方の海は、昼間より色が薄い。

 青も白も混ざって、境目が分からなくなる。


 澪は靴を脱ぎ、波打ち際まで歩いた。

 その後ろ姿を見て、なぜか声をかけてはいけない気がした。


「ここ、昔はもっと汚かったらしいよ」


 澪が言う。


「割れた瓶とか、そのまま流れ着いてたって」


 足元には、丸くなったガラス片が転がっている。

 澪は一つ拾い、光にかざした。


「割れてたはずなのに時間が経つとこうなる」


 その言い方は、自分とは関係のないものを見ているようだった。


 俺は何かを聞くべきだと思った。

 けれど、何を聞けばいいのか分からなかった。


 帰り道、校舎の前を通ったとき、まだ明かりのついている教室があった。


 中から、笑い声が聞こえる。

 少し遅れて、別の声も重なる。


 澪は、そちらを一度だけ見た。

 本当に一瞬だった。


 確かめるような目だった。


「じゃあ」


 そう言って、澪は自転車に乗った。


 俺は、何も聞かなかった。


 その日、ポケットの中に残ったのは拾い上げたまま返しそびれた小さなガラス片だけだった。


 丸く、どこも欠けていない。


 俺はそれを、しばらく指先で転がしてからポケットの奥にしまった。


 夏休みが始まる少し前から、澪と話す時間が増えた。


 何かきっかけがあったわけではない。

 数学の補習の帰りに海へ寄った日から、その流れがそのまま続いただけだ。


 昼休み、教室で短い言葉を交わす。

 放課後、特に用事もなく並んで歩く。

 

 同じ帰り道を、

 何度か一緒に歩いた。


 話すことがなくても、それを不自然だと思わなくなっていた。


 以前なら理由が必要だった距離が、いつの間にか、理由なしで許されるようになっていた。


 夏休みに入ってからは、海へ行く回数が増えた。

 制服ではなく、私服で会うのは少しだけ落ち着かなかった。


 白いTシャツに、色の落ちたジーンズ。

 それだけなのに、教室で見る澪とは違う人間のように感じた。


「暑いね」


「夏だから」


「それ、理由になってない」


 そう言って、澪は小さく笑った。


 海では多くの話はしなかった。

 学校のことも、家のことも、将来のことも。


 そういう話題は、自然と出てこなかった。

 代わりに、どうでもいいことを話す。


 波の形。

 雲の動き。

 足元に転がるガラス片の色。


「これ、前に見たのより丸い気がする」


 澪が言う。


「そうかも」


「分かんないけど」


 時間が経つと、見分けがつかなくなる。

 それは、少し安心できることだった。


 七月の終わり、駅前の映画館へ行った。

 古い建物で、冷房が強く効いていた。

 澪は、席に座るとすぐ腕を抱えた。


「寒い?」


 澪は、一瞬だけ迷ってから小さくうなずいた。

 上着を差し出すと何も言わずに受け取った。


 暗い客席で肩が触れそうで触れない距離。

 スクリーンの光が切り替わるたび、澪の横顔が一瞬だけ浮かび上がる。


 映画の内容は、ほとんど覚えていない。

 覚えているのは、エンドロールの間、澪の指先が袖口に触れたままだったことだけだ。

 

 帰り道、澪は上着を返しながら言った。


「こういうの、慣れてない」


「何が?」


「……誰かと、ちゃんと出かけるの」


 俺は、何も言わなかった。


 八月に入ってから、澪は時々、スマートフォンに目を落とす時間が少し長くなった。


 操作するわけでもなく、ただ、画面を見ている。


「何かあった?」


「ううん」


 それ以上、聞かなかった。


 夕方の海で、澪は言った。


「ねえ」


「なに」


「この夏、ちゃんと残ると思う?」


 意味がすぐには分からなかった。


「写真とか?」


「そうじゃなくて」


 澪は足元の砂を見ていた。


 俺は答えなかった。

 答えを探すふりをして、何も言わなかった。


 澪はそれ以上、何も言わず波の近くにあったガラス片を拾った。


 一度、手のひらで転がしてからまた砂の上に戻す。

 持ち帰らないという仕草。


 その様子を見て、俺はなぜか安心した。


 この夏は、ここにある。


 そう思いながら、波の音を聞いていた。


 夏休みが終わると、教室の空気が少し変わった。


 涼しくなったからではない。

 席順も時間割も特に変わっていない。


 ただ、音の途切れ方が違った。


 澪が近くにいると、会話が一度止まる。


 誰かが話し始める前に、一拍、間が入る。

 笑い声は少し遅れて続く。


 澪は、前よりも静かになった。


 もともと多くを話すほうではない。

 だから最初は、変化だと断言できなかった。


 昼休み、澪が席を立つと教室の別の場所で別の話が始まる。


 澪が戻るころには、その話題は終わっている。


 理由は分からない。

 誰も何も言わない。


 それでも、同じことが何度か続いた。


 俺は、それを見ていた。


 気づいていなかったとは言えない。


 ある日、廊下ですれ違ったとき、澪が一瞬立ち止まった。


 何か言いかけて、やめたような仕草。


 目が合った。


 長くはなかった。

 ほんの一瞬だった。


 でも、目を逸らす理由を考えるには十分な時間だった。


 声をかけることも、足を止めることも、できたはずだった。


 俺は、そのまま歩いた。


 教室に戻ると、いつもと同じ時間が流れていた。


 チャイムが鳴り、ノートが開かれ、黒板の文字が増えていく。


 誰もさっきのことに触れない。


 だから、何も起きていないことになる。


 放課後、澪は何事もなかったように、海へ行こうと言った。


 浜辺で、澪は波を見ていた。


 言葉を探している様子はなかった。

 ただ、視線だけが、水平線のない先を向いている。


「私、ここから出る」


 唐突な言い方ではなかった。

 その声の出し方で、前から決まっていたことだと分かった。


「卒業したら」


 澪は、俺を見なかった。


 夏のあいだ、スマートフォンに目を落とす時間が少し長くなっていたこと。

 教室での沈黙。

 廊下での短い視線。


 それぞれは、大した出来事ではない。


 でも、重ねると一つの形になる。


「この町、嫌いじゃないでしょ」


 澪の声には、確かめるような響きがあった。


 否定できなかった。


 好きだとも、言えなかった。


 澪はそれ以上、何も言わなかった。


 駅へ向かう道を、二人で歩いた。


 同じ方向のはずなのに、歩く速度が違っていた。


 途中で、足音がずれた。


 澪は立ち止まり、俺はそのまま進んだ。


「この夏のこと、忘れないで」


 その声は、これまででいちばん、澪自身のものだった。


 澪はそう言って、振り返らなかった。


 引き止める言葉は、浮かばなかった。


 謝ることも、説明することも、できたはずだった。


 でも、

 どれも、

 正しい気がしなかった。


 正しい言葉を探しているあいだに、距離ができた。


 その距離は、自然に埋まるものではなかった。


 駅の改札の前で、澪の姿が見えなくなった。


 それでも、俺は立ち止まらなかった。


 振り返らなかった。


 何もしなかった、

 という選択だけが、

 そこに残った。



 大学に進学して、町を離れた。


 引っ越しの荷物は少なかった。

 必要なものだけを詰めたつもりだったが、何を置いてきたのかは、はっきりとは覚えていない。


 講義に出て、アルバイトをして、新しい人間関係ができた。


 初対面の名前を聞き、次に会うまでに忘れ、もう一度、聞き直す。

 それを、何度か繰り返した。


 人と並んで歩く距離には、すぐに慣れた。

 ただ、その先へ踏み込むタイミングだけは、最後まで分からなかった。


 時間は、滞りなく進んでいった。


 人の声が途切れる瞬間に、次に出す言葉がほんの少し遅れることがあった。


 誰かが話し終えたあと、次の声が出るまでのあいだに視線の置き場を探してしまう。


 笑うべきかどうか、判断がつかないまま、時間だけが先に進むこともあった。


 視線が集まらない場所を、無意識に選ぶようになった。


 壁際の席。

 出入り口に近い場所。

 名前を呼ばれなくても、不自然にならない位置。


 何かを言いかけて、やめた回数は、数えなかった。


 数えるほどのことではないと、思っていた。


 そう思える程度には、毎日は、問題なく続いていた。


 卒業が近づいた頃、祖母の家を片づけることになり、久しぶりに町へ戻った。


 駅前は、少しだけ新しくなっていた。

 看板の色が変わり、知らない店が一つ増えている。


 それでも、改札を出たときの匂いは、前と変わらなかった。


 海へ向かう道も、ほとんどそのままだった。


 自転車で走ると、風の向きだけが違う。

 ペダルを踏む感覚は昔のままなのに、進む速度が少しだけ違って感じられた。


 防波堤の影は、前よりも長く伸びている。

 時間が経ったからなのか、季節のせいなのかは、考えなかった。


 浜辺に降りると、足元に丸くなったガラス片が転がっていた。


 拾い上げると、指先に冷たさが残る。

 風にさらされたせいか、角が丸くなっていた。


 しばらく、手の中で転がした。


 ポケットに手を入れると、何も入っていなかった。

 布の内側に触れるだけで、何かを探す必要もなかった。


 それでよかったのかどうかを、考えることはできた。

 確かめる理由は、どこにもなかった。


 波の音は、前と同じ距離で聞こえる。

 近づいたわけでも、遠ざかったわけでもない。


 浜辺には、自分の足音しかない。

 砂を踏む音が、一歩ごとに短く残る。


 澪が、まだこの海を覚えているのかは、分からない。


 ここに戻ってきたことがあるのかも、分からない。


 考えることはできた。

 考えただけだった。


 拾ったガラス片を、砂の上に置いた。

 それから、手を引いた。


 波が届く前に、少しだけ後ろへ下がった。


 足元を見下ろすと、ガラス片はまだそこにあった。


 ポケットは空のままだった。


 俺はもう一度だけ、海を見てから靴を履いた。


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