陽炎の世界
描写力課題なので、説明を極力抑えた結果がこうなりました。
読了後、内容をどう理解してたか、また具体的な指摘・意見・批評を頂ければ幸いです。
瞼を開き、今日もまた期待と落胆が交差する一瞬を味わう。この両目で見える世界とはあとどれぐらいの付き合いになるだろう?冷静な思考と焦りや諦観に染まった心を振り払い、枕元に雑に置いてあった眼鏡拭きを拾い上げる。掛けっぱなしの眼鏡を取り外し、それを拭く一瞬だけ、はっきりとフレームが見える。
エアコンが切られた室内は瞬間に熱くなるような錯覚を引き起こし、開けた窓から新鮮な空気と早朝特有な湿気が入り込む。鳥の啼き声がする外には所々に見える緑があり、朦朧としたその景色に、思わず眼鏡を外し、汚れによる曇りがないかを探すも徒労に終わってしまう。二重影が織り成す現実はいつの間にか雨に包まれ、地面と頭上に響く雨音が湿気と相まって、世界が与えてくれる不快感はより一層際立つ。
* * *
電気的な光と向き合い、指をキーボードの上に走らせているといつの間にか、無意識に瞼を下ろし、視界を細めていく。世界がクリアになる束の間が過ぎればまた朧気な世界に戻るだろうに、その本能的な動きに逆らえない。わざと目を見開いても得られるのはぼやけた視界だけだ。
それよりも、ボタンを押そうとして空を切るカーソルに募っていく苛立ちを解消できた方に身体が喜ぶ。
喉を潤そうと手を伸ばし、テーブルに置いていた保温瓶を掴むが、中身の重さを感じられない。結果を理解しつつも反射的に口元に持ってきて呷るが、ないものが出てくるはずもない。
身体に染み付いた動きでドアノブを捻り、扉を潜る。水を取るためには、手摺を握り締めながら、階段を降りるという試練に挑まなければならない。まるで心と身体の乖離を象徴するかのように、思考と現実を一致させてくれない二重の影。一つのミスをすれば、足元が空中となり、奈落に落ちていく……まるでこれからの人生のようだ。
幻想を振り払い、潤いを求めてコンビニへと向かい、道中に人とすれ違う度に衝突を躱そうと身体が必要以上に距離を保とうと動く。コンビニの冷蔵庫の扉を開き、手を伸ばしては空気を掴み、値札を確認するのも一苦労。わざわざ近づいてみるその様は、周りからさぞや頭がおかしい輩に見えるだろう。帰り道に筋肉をほぐしながら歩いていると、いつの間にか視界がクリアとなり、二重の影が一つとなっていた。陽炎の如く現れては消えるそれに、言葉は不意に口から零れ落ちる。
「はてさて、今度は何時まで持つだろうか?」
* * *
「…右目網膜の下半部は萎縮しているように見えます。薬の処方はします。恐らく回復することはないだろうけど、目薬を使えば、今後の悪化を防げるかもしれません…」
予想とおりの診察結果を聞き流しながら、両目を順番に閉じては開く。右目を閉じれば視界の三分の一が消え、左目を閉じればその倍が消える。両眼を開いたときに気付かない死角は、片目の時だけ姿を現す。医者の言葉の代わりに耳鳴りが響き、視界に更にノイズが増していく。
「…可能性としてはいくつかありますが、先ずもっとも厄介なのは脳腫瘍だ。あなたの症状では腫瘍によって血管が抑えられ、目への血流が足りなくなったことが原因の可能性がある。MRI検査を受けた方が良い。」
「先生、先ほどの検査を受けてる間、目に見えるものが垂直方向で二重になったようにズレていますが、それは?」
「あ~、今はまずMRI検査を受けてください。ほかのことは結果を見てからまた話そう。目薬を使うことも忘れずにね。あ…君、次の患者を呼んできてくれ。」
アルコールの匂いをさせる待合室で薬の手配を待っている間、瞳孔をリラックスさせる薬の効果が薄れていく。景色が明晰になっていき、双子のように重ね合わせた世界は一つになる。まるで狐に摘まれたような気分を感じながら、エアコンの効いたクリニックの気温に身が震い、思わずコートに覆われた体を自分の腕で抱きしめた。
外に出ると迫りくる熱気と共に眼鏡が曇る。指でずらした眼鏡の隙間から見えた景色はどこかで見たような思いが一瞬頭に過ぎ、陽炎のように消えていく。検査の手配の煩わしさを思い、憂鬱な気分のまま、カレンダーを見ながら、帰途についた。
* * *
微かなコピー用紙と粉っぽい埃の匂いが漂う室内。充満している冷気に、思わずコートのジッパーを締める。今日も廊下の向こうから流れてくる騒がしい談笑が聞こえて、後ろの席で広げられていた食事先談義と相まって、いつもの如く苛立たせてくれる。
前時代的なコピペ手作業を減らすため、今日も相談されたプログラムを組み上げていく。コードを打ち込み、走らせてはバグを洗い出す。モニターを睨みながら、定位置にあるカップに手を伸ばす。
「あ…」
席に座ったまま背筋を伸ばすと、指先から背中の至る所から軽い衝撃とともに音が響いてくる。首を軽く揺らし、立ち上がり、空になったカップを手にする。
「ねえねえ、どうして片眼を瞑ってるんですか?」
パントリーでカップに水を注ぎながら、同僚の言葉に首を傾げる。そして、知らない間に視界の右端が暗くなっていたことに気が付く。
目を開き、また閉じる。意識的にやっても、理由を思いつかない。
「その方が集中できるからかな?自分も気づかなかった。」
苦笑いを浮かびながら答えると、再び片目を閉じてみる。微かによぎった違和感を無視して、並々となったカップの中身を軽く啜り、舌で軽い金属味を感じながら、その場を立ち去る。
* * *
「おお、医者から戻ってきたか…で、診察の結果は?」
席へ向かっていると天下りのスタッフと廊下ですれ違う。如何にも軽そうな態度に、さほど関心もなさそうな表情で訪ねてくる。医者の言葉を伝えると、彼は大袈裟に口を開けては手でそれを塞ぎ、姿勢を正す。その一連の動きを眺めると、まるで道化劇でも見ているような気分になる。普段のグルメ談義とは打って変わって、真面目そうな声色で今後を訪ねてくるアンバランスさに秘かに息を吐く。
「MRIですか?じゃあ、また今度休みを取るんですね?…予定がわかったら教えて。」
* * *
席に着き、カップをデスクの上に置く。手元を見ずにパスワードを入力し、ツールを立ち上げる。一つ、一つ、動作を検証し、覚えられないほどプログラムを走らせる。異常を発見しては問題の箇所を特定し、コードを修正していく。直しては走らせ、また直す必要な箇所を探す。コードと結果の両方を目で追いながら指を動かし、そのうち、視界を埋め尽くす文字列が段々と大きくなる。両目と指先以外が意識から消え去っていく感覚に陥る。甲高い耳鳴りの音を耐えながら、ループを繰り返していると、肩に軽い衝撃が走る。
反射的に曲がった背筋を正し、画面に集中した意識が拡散する。目を見開いて頭上の影の正体に顔を振り向くと、先ほどまで後ろで週末の予定話に花を咲かせる人物が隣で立ちながら神妙な顔で見下してくる。
「疲れてるなら、家に帰って休んでもいいですよ?」
「はい?」
作業を中断させられた苛立ちを感じながら、意味が分からない言葉に、思わず聞き返す。
「あ、いや、だから、疲れてるなら、休みを取って家に帰ってもいいですよ?」
繰り返されるセリフに首を傾げる。さらに続く理解できない言葉を聞き流し、乾いた喉を潤そうと手を伸ばす。定位置にいるはずのカップが倒れ、デスク一面が水浸しになっていく。立ち上がってティッシュを探して見回し、手早く書類を退かしているうち、隣に立っていた人物が席に戻っていた。その去り際に、また意味不明な言葉を残す。
「とりあえず、顔を洗ってきたら?」
* * *
更衣室のカーテンを閉め、窮屈な室内に振り返る。暖かいコートの重さと入れ替わりに、消毒臭を含んだクリニックの空気が身を包み込み、体を震わせる。ごわっとした検査着の着心地悪さに気にしつつ、体温が残った服を袋に押し込み、カーテンの向こうから聞こえる呼び声に答え、動きを急ぐ。
腕に僅かに残る注射の痛みに耐え、隣の医師の事前確認を聞き流す。長々と、まるで決闘の前口上の如く述べられるが、リスクの表面的な認知確認だけで、本質的な説明はほとんどされない。言われるがまま、薄っぺらい書類に署名を入れ、導かれるがままにベッドに横たわる。
コードだらけの無機質な室内は巨大な筒と相まって、物々しい雰囲気が演出される。中に入る身としては、オーブンに入れられる豚や洗濯機に押し込められた洗濯物な気分になる。
背中が感じるなれないシーツの感触とゴム紐の不快感に身悶えると、スピーカーから警告の声が飛んでくる。細かく位置を調整された首に引っ張られ、明日見舞われるであろう全身筋肉痛を思うと、憂鬱な気分になる。
耳栓もなく、カバーもつけさせられない。丸裸になった鼓膜に規則的で不規則的な騒音が襲ってくる。遠くから響いてくるような重低音と金属の塊がぶつかり合うような固い音が交互に響き、閉塞感から逃れようと目を閉じれば閉じるほど、音が脳を揺さぶってくる。口の中に残ったスポーツドリングの僅かな酸味と甘さが唾の味と混じりあい、口の中に広がる。喉の水欲しさに苛まれたまま、意識が段々と遠退く。
騒音が子守唄になりつつ頃、ようやく解放される。
* * *
夜の帷が降り始める頃、人の波に流されたまま帰途につく。互いの熱気を感じられるような密度の人の海に紛れていると右手に衝撃が走る。振り向けば肩よりやや下の位置に、眉間にしわを寄せた女性が不審げな視線でこちらを睨んでくる。その表情は、彼女の嫌悪感を舌打ちとともに、如実と表してくれる。
川中にいる岩と化した二人に、水は裂かれて行き、居心地の悪さに耐えきれず、口からこぼれ落ちる謝罪の言葉に相手はとりあえず納得した顔で去っていく。苛立ちを抑えながら、右手を鞄の肩紐に持っていき、意識の外からまた襲ってくるであろう衝撃に備える。
* * *
無機質な診察室内で検査結果と睨み合いをしている医者と相対する。一通りに悩み終わった医者は目を資料に釘付けたまま、こちらに向き直り、検査結果の説明を行う。
「あー、うーん…MRIの結果を見ましたが、前に予想された脳腫瘍は発見されませんでした。それはよかったことです。ただ…逆に言うとそれで君の症状が原因不明になるわけで、簡単に根本から治す手段がないということだ。え…眼圧の異常は無いので、低眼圧緑内障として考え、対症療法を行うしかありません。前回と同じ、目薬を処方しますんで、今後も目薬を使って継続的な通院をしてください。」
「あぁ、そうか…」
落胆と安堵の綯い交ぜた気持ちが胸中に往来し、ある程度予想できた説明に今更感慨が湧き上がるはずもない。それよりも知りたいことを目の前の医者にぶつける欲求に駆られ、幻の手がかりを掴めようとする気持ちで乾いた口を開く。
「えっと、それと先生、以前も話してたんですが、目で見えるものが二重の影になってずれている件に関しては?あれは何なんでしょうか?」
「あ?どういう症状なのか、説明してみて。」
微妙な唾の渋みを感じながら繰り返して感覚を伝えようと説明していく。形が定まらない病状を何とか形にして伝えようと、医者は手を突き出し、その説明を遮る。
「今は発症してますか?」
「…今は発症してません。」
「あー、それならまた今度発症しているときに来てください。発症してないと診察しようかないからね。他に何か質問はありませんか?なければ外で薬の処方を待っててください。用意させますから。また今度二か月後に通院してください……あー、君、次の患者を呼んでください。」
診察室から出ると、すれ違い様に右足の脛に衝撃が走り、軽くぐら付く。見下ろすと母親の足に抱き着き、こちらを見上げる子供がいる。無垢な眼差しがこちらの反応を伺うように見上げ、母親は代わりに謝罪をしてくれる。軽く礼をしてから廊下へ歩き出し、待合室のほうに向かう。
前回同様の目薬をもらい、クリニックの外に出る。自動扉を潜ると熱気が襲ってくる。懐に手を伸ばし、眼鏡拭きを探りながら、靄をかかったメガネを外す。レンズを握る指に思わず布との摩擦を感じられるほどの力が入る。曇りや脂を落として、メガネをかけ直し、二重に見える駅の方向へ歩き出す。
* * *
片手に空になったカップを持ちながら、パントリーへと向かう。無意識に首を揺らし、体をほぐす。廊下を通りながら、仲の良い同僚へ目で軽い挨拶を交わす。オフィスエリアから出ると、いつものようにその急な段階に気をつけながら角を曲がる。
パントリーには普段通りに掃除や雑務を担当する女性が手元にある携帯をいじりながら座っている。挨拶を交わし、テーブルにカップを置き、持参したインスタントココアの包装を数度軽く振り、パックの封を開ける。微かなココアの匂いを漂わせるパックの中身を細心にカップの中に落とし、給湯器からお湯を注ぐ。水で軽く洗ったスプーンを拭き、珈琲色が広がりつつあるカップの中に差し込む。軽く攪拌しようとすると底にある水に濡れたココアパウダーの粘りを感じる。珈琲色の液体がカップからこぼれ落ちないように注意しながらスプーンを回し、段々と濃くなっていくココアの香りを楽しむ。
固形物の感触がなくなる頃、スプーンを取り出し、それを水に当ててからティッシュで拭き、定位置に戻す。カップの持ち手を握り、口元に持ち上げる。鼻の奥に入り込んだココアの濃厚な香りが仕事の緊張を緩め、口で軽く息を吹き、完成されたホットチョコレートを冷ます。ひと口を飲み、舌から感じた濃厚な甘みと渋みが混合され、えもいわれぬ調和された美味しさを堪能する一瞬。仕事の苦労が報われる錯覚さえさせてくる。備え付けのテレビで、午後四時のニュースを見ていると、肩が軽く叩かれ、業務最適化作業に協力してくれた経理の同僚が話しかけてくる。
「助かったぞ。昨日完成したプログラムのおかげで、月末の残業を二日は減らせる!」
「それはよかった。バグや手直しが必要なところがあれば、また教えてくれ。」
軽く返礼をし、少しの間プログラミング談議に花を咲かせる内に、また誰かに呼ばれる。振り向くといつも廊下の向こうで騒いでた者の一人が立っている。
「支店長があなたを呼んでいるようです。」と彼女は手振り身振りで教えてくれる。経理の同僚に軽く手を振りカップを片手に席に戻る。廊下を通る間、僅かに囁きが聞こえてくる。
「…また片目を瞑っている…」
「…それにあのバトラーみたいな芝居かかった姿勢は何?」
席にカップを置き、支店長の部屋へと急ぐ。視界外の衝突を回避するためか、歩く時に右手で左手の二の腕に掴む動作は右目を瞑る動きと共に既に無意識な習慣になりつつあり、人の横を通る時はさらに身を引き締め、距離を保つ。軽く身嗜みを整い、支店長室の扉にノックする。部屋の中には、支店長の他に実働チームのトップも同席していて、張り付いた様な笑顔を浮かばせている。
「確かあなたは以前にも現場に勤めた経験はありましたよね?急に人手が必要になった現場があるので、明日からそちらに出勤してもらえます?そちらに行ったら、もう営業所の作業はしなくていいから、すぐに現場の責任者と連絡を取って通勤等の情報を確認してくれ。」
続く様に、実働チームのトップが笑いながら近づいてくる。
「えへへ…いきなりでごめんね。お願いします。」
部屋を退出すると更に畳み掛ける様に、支店長が上半身だけ部屋の外に差し出し大声でこう言った。
「すぐに準備してね!」
席に向かう途中、同じ部署の同僚から来週を跨る作業を依頼される。明日から現場に派遣されると伝えると、完全に予想外の表情を表し、詳細を確かめてくる。話を聞くと、彼は慌て出し、上司に確認してくると言葉を残し、その席に向かった。今度は引き継ぎミーティングを開催させようと上司と同じ部署の人たちが集まる。パソコンに整理された資料を印刷して会議室へ向かい、部屋から出てくる頃、時計の針は既に八時を示し、営業所のスタッフは半分も残っていない。
「あ~、それと、例のツールは国際部に採用されるので、ソースを含めて渡してくださいね!」
背中から聞こえる、いつもどこかの食事についての評判を話す声の言葉を聞き流しながら、席へ向かう。
「まだいるのか?帰ったと思った。」
まだ仕事中の経理の同僚は、リラックスした雰囲気で話しかけてくる。明日から現場出勤になると伝えると、彼の顔は驚きに染まり、また楽天的な顔に戻る。
「まあ、でもいいんじゃない?現場のほうは監視が少ないから気が楽でいいですよ!」
彼の言葉に頷きながら、三年間付き合ってたデスクから、冷めたココアが残るカップを回収し、片付けるためにパントリーへと向かった。
* * *
半年ぶりに戻るオフィスの廊下を歩きながら、始業時間前に出席してきた同僚と軽く挨拶を交わす。きれいに掃除されたデスクの上に両手を乗せ、パソコンを起動させる。メールの確認作業を終えると、ペットボトルを片手にパントリーへ向かう。
パントリーでは、朝の準備で忙しく、人が動き回る。給水器から水を貰いながら出社してきた同僚たちが話しかけてくる。
「久しぶり!いつ戻ってきたのか?」
「今朝だ。昨日現場が終わったから。」
「ちょうど相談することがあったから、あとでそちらに行くわ。」
席に戻り、背もたれに背中を預け、ペットボトルの中身で口を濡らす。周りを見渡すと支店長も実働チームのトップもおらず、背後の席も珍しく静かであり、聞けば、誰もが出張しているようだ。廊下の向こうから聞こえる談笑の声だけは相変わらずオフィス中に響き渡る。
昼前の遅い頃、廊下の向こう側から来た人事のマネージャーが妙にかしこまった態度で話してくる。後についていくと、人気のない会議室に案内され、とっくに予感していた話を聞かされる。
席に戻り、パソコンの中身を確認しながら、メールのドラフトをまとめる。世話になった相手の名前を探し、送信先に並べて送信ボタンを押す。
メールを見た何人かが訪ねてきて、今後の引き継ぎ先を聞かれる。話し込んだ少しの間を経て、モニターに振り返り、スクリーンセーバーを解除しようとパスワードを入力する。帰ってくるアカウント無効のメッセージを見ながら、軽くため息を吐く。空になったペットボトルを手元から離し、放物線を描きながらゴミ箱に吸い込まれるその様を静かに眺める。
* * *
いつもと違う帰り道を歩き、閑散とした街の中で日の光に照らされながらバスを待つ。乗客を乗せていないバスに乗り込み、後部座席に腰をかける。エンジンから発する振動を感じながら、シートに背中を預け、当てのない視線を外の景色に向けさせる。
繁華街の人混みを通り越し、日中にもかかわらず、セピア色の明かりが照らしたトンネルを潜る。緑の山と青い海の上を渡る高速を走り、閑静な住宅街に行き着く。乾いた空気が醸し出す冬の気配とカバンの肩紐を握りしめる右手から伝わる微かな痛みを感じながら、陽炎の世界の中で自宅へ向かう。
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今日もまた貴重な時間を読書に贅沢に使う。長く本棚に積まれた本から漂う微かな印刷紙の匂い、黄色になり始めたページの暖かな感触。手で文字をなぞりながら読み進み、そのうち時間をも忘れる。ページを捲りながら、幻想の世界に―
そこには人々の営みがあり、それぞれの感情がある。定められた運命、散りばめた謎、そして解決へ―
いつの間にか閉じかかった目を力いっぱい見開く。ぼんやりした視界に、身に染みついた動きで手を伸ばし、指先の硬質なテーブルの感触に、思わず首を振り向く。目的のものを見当たらず、部屋中に視線を巡らせる。見つかったそれに手を伸ばし、三度でようやく掴む。眼鏡を外し、片目で確かめながら、それを拭く。視界に映る伏せたままの本に、一週間の道程に思いを馳せる。その本への旅はまだ三分の一しか進んでいなかった。
立ち上がり、背筋を伸ばし、体をほぐす。淡い街灯の光が照らした窓の外に視線が吸い寄せられる。蒸し暑い空気に乗った虫の合唱が部屋に入り込み、扇風機の振動音と混じりあって、夏を演出する。慎重に手を伸ばし、掴んだ保温瓶の中身を飲み干す。あけっ放しの扉をくぐり。撫でるように階段の手すりをつかむ。反射的に視線を下ろし、足元を見ながら慎重に一歩一歩と降りていく。足元が地面から離れる度に心が落ち着かなく浮び、バランスを保つために手に力が入る。爪先を伸ばし、地面を探り、次の段階へゆっくりと踵を下す。足の裏で地面の感触を確かめると安堵し、そしてまた上げる足に合わせた緊張が走る連続が繰り返される。
薄手の上着を羽織り、外出用の靴を履き、ドアノブを捻る。街灯に照らされる中、夜風に吹かれながら、コンビニへの道程をぼんやりと眺める。ずれた二重の影に朧げな景色、眼鏡の汚れか、発作の兆しか、もはやその違いもさほど重要とは思えない。デジタルな歓迎を通り過ぎ、人気のない店内で迷わず冷蔵庫へ近付き、ガラスの上に指を滑らせてドアのハンドルを掴む。値札に目もせず、指先で目当てのものの感触を確かめてからそれを引っ張り出す。
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掌の冷たさと口中の酸っぱさに思わず瞼をきつく閉ざし、深い息を吐き、蓋を閉めたボトルを放り出す。消された照明と反対に、目の感覚が少しだけ鋭くなる。伝わってくるシーツと枕の感触と天井の模様を背に、明日を思い、目を閉じる。
完走、おめでとう!
ここまで付き合ってくれたことにまず感謝を捧げます!
もしよければ、あなたがこの物語に対する理解(例えば、いったい何が起こって、何がどうなっていたか)、指摘・批評・意見(説明を増やせや!何が言いたいのか全く分からんわ!的な?)を、ぜひ!コメントに残してください。