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くれない夜叉  作者: 志築いろは
第1章 偶然という名の必然
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第2夜 勝手口の喧騒

◇◇◇◇◇



 白んできた空模様が東の果てからうっすらと朝焼けに染まるころ、路地裏にふたつの足音が響いていた。

 辺りはまだ、しん……、と静まり返っている。ひんやりと立ちこめる霧が、かすかに視界をさえぎっていた。

 吸いこんだ空気は湿っぽく、それでいてどこか清々しい。

 草履にこすれた細かい砂利の音にまぎれて、時おり日の出を告げる虫たちの鳴き声が鼓膜を揺らした。鈴を揺らしたようなその音色は、早朝のさわやかさをいっそう際立たせている。


「う~、さむっ……」

「くくっ、今朝は冷えるな」


 黒鳶色(くろとびいろ)の長髪を頭の下のほうで無造作にひとつにまとめた男―長岡朱里(ながおかしゅり)は、相棒の言葉にわずかに口角を上げながら栗梅色(くりうめいろ)の着物を羽織った肩をすくめた。


「風呂、沸いてるといいなぁ」

「そうだな」


 蘇芳色(すおういろ)の着物に鼠色の袴をまとった小柄な相棒は、朱里の隣を歩きながら、はぁー……っ、と自身の手ひらに息を吹きかけた。

 濡羽色(ぬればいろ)の長い髪を高い位置でひとつに結った山科佑介(やましなゆうすけ)は、ぼんやりと明るくなった空を見上げる。

 冷えこむ朝の空気に比例して、今日はいい天気になりそうだ。


 朝独特のひんやりとした風が、せまい路地裏に吹き抜ける。

 この町の人たちの朝は早い。表通りからはすでに、軒先を掃く竹箒の音が聞こえはじめていた。


「おなかもすいたし、早く帰ろう」

「そうだな」


 人目を避けるようにして、入り組んだ細い路地を足早に抜ける。


 二人が足を止めたのは、市中郊外、御許町(おもとまち)の宿場通りに面した、少々さびれてしまった小さな旅籠『神田屋』の勝手口だった。

 ここに世話になってもうどのくらい経つだろうか。宿を切り盛りする女将をはじめ、身の回りの世話を焼いてくれる仲居の面々とはずいぶんと打ち解けた仲になったものだ。


 佑介は、慣れた様子で勝手口の引き戸に手をかける。


(ともえ)ー!」

「ちょ、この格好のときは『巴』って呼ぶなって、何度言えばわかるんだ、あんたは!」


 戸を開けるや否や飛び出してきたのは、無造作に毛先を跳ねさせた黒茶色(くろちゃいろ)の短髪の男だった。山吹茶(やまぶきちゃ)の着物を着崩し、墨色のたっつけ袴を身にまとっている。

 無遠慮に腰にまとわりつく男―笠置恭介(かさぎきょうすけ)を押しのけながら、佑介は声を荒らげた。毎度お馴染みの光景に、隣に立つ朱里は苦笑いである。


「お! 朱里も一緒か! ご苦労だったな!」

「ただいま戻りました」


 山科佑介―本名、山科巴は、(れっき)とした女である。訳あって男物の着物を身にまとい男のように振る舞ってはいるが、彼女は正真正銘『女』である。

 しかしこのご時世。立場上、男のふりをしているほうがなにかと都合がいい。

 にもかかわらず、恭介は何度言っても本名で彼女を呼ぶのである。


「とりあえず、あんたはさっさと離れてください」

「なんだ! そんなに邪険にせんでもいいだろ!?」

「うるさい! いいから、はーなーれーろー!」

「だが断る!」

「まったく! なにやってるんですか、あなたたちは! 近所迷惑になるでしょう!?」

「いたっ!?」


 一向に佑介から離れようとしない恭介の後頭部に、鈍い痛みが走った。小気味よい音は、屋内から発せられた怒号とともに路地に反響する。

 恭介の腕がゆるんだ瞬間を見計らって、佑介はそそくさと朱里の背に回りこむ。そして頭を押さえてうずくまる彼の向こう、拳骨という名の制裁を加えた人物を見遣った。


「おかえりなさい。長岡くん、佑介くん」


 八木創二郎(やぎそうじろう)は、小姓の船井進之助(ふないしんのすけ)を引き連れて、戸口で仁王立ちになっていた。

 創二郎の切りそろえられた紫紺色(しこんいろ)の髪は、寝起きとは思えないほどにさらさらと風になびいている。実は寝ていなかったのではないかと疑いたくなるほどだ。否、もしかしたら本当に寝ていない可能性もあるのだが、そこはあえてつっこまないでおく。


「お前の声も十分でかいだろ!」

「だまらっしゃい! 恭介も恭介です。あなたには自覚が足りないんですよ! いいですか!? そもそもあなたは!」

「いや、八木さん……?」


 突如始まった創二郎の公開説教に、彼のうしろに控えていた進之助は遠慮がちに声をかけた。できればそういうことは、部屋に戻ってからにしていただきたい。

 しかし残念なことに、二人にはまるで聞こえていないようだ。創二郎の説教に負けじと恭介もいちいち彼に反論しているが、そのたびに言葉が二倍にも三倍にもなって返ってきていた。


「おふたりとも、朝なんでもうちょっと静かに」

「……聞こえてないな」

「だな」

「……はぁ~」


 朱里の言葉に、進之助はがっくりと肩を落とした。深々と吐き出したため息に、二人とも気がついてくれないだろうか。

 うなだれる進之助は背すじを伸ばすと、口を真一文字に引き結んで腹に力を入れた。肺いっぱいに大きく息を吸いこんで、一瞬呼吸を止める。


「あのぉー! 八木さぁーん?」

「なんです? あなたも静かになさい、船井くん」


 先ほどよりも通る声でそう呼びかければ、創二郎は恭介の襟首をつかんだまま振り向いた。ようやっと話を聞いてもらえそうである。


「とりあえず、中に入りませんか?」


 進之助は苦笑いで開け放したままの戸口を指さす。

 周囲に目をやれば、騒ぎを聞きつけた宿の者やら通行人やらが、何事かと店内や表通りから路地をのぞきこんでいた。図らずも注目の的である。これは非常に居たたまれない。


「コホンッ、ほら、あなたたちも早く入りなさい。ほら! ほらほら!」


 その場を取り繕うように咳払いをひとつして、創二郎はみなを勝手口の奥へと追いたてた。




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