第1夜 新月の人斬り
月明かりはない。夜空は晴れているはずなのだが、昨夜までは霞のようにうっすらとそこにあった細長い月は、今夜はすっかり影をひそめていた。
宵闇を行く三人の男たちの手にした提灯の明かりは実に心許ない。
「いやはや、まさかこんな刻になってしまうとは」
足早に帰路につく男たちは、みな上等な羽織をまとい、腰には立派な業物を差している。身なりから察するに、おそらくは武家の中でもそれなりに身分の高い者たちと見て間違いないだろう。
「近ごろは会議ばかりでつまらぬ。たまには、こうして羽目をはずすのも仕事のうちよ」
「そう言って、昨夜も出歩かれたのをお忘れですかな? たまには早く帰ってさしあげねば、奥方様に叱られますよ?」
取り巻きの一人が冗談まじりにそう言えば、道の真ん中を闊歩する男は声を上げて笑った。大きく肥えた腹を前に突き出し、男はひどく上機嫌である。
「あれは機嫌を損ねると怖いからなぁ」
「なにか手土産でも用意しておけばよかったですな」
「構わん構わん。わしが腰を抱いてやれば、あやつの機嫌もいちころよ」
「ははっ、左様でしたか」
「し、しかし本当に急がねば……。今夜は、し、新月ですし……」
冗談半分でそんなことを言い合う二人に対して、先頭を行く若い男はしきりに周囲を気にしていた。
提灯を左右に掲げては、不安そうに辺りをきょろきょろと見回している。
風に揺れる柳の枝にびくりと肩を震わせたり、かすかな虫の羽音に小さく声を上げたりと、彼は得体の知れぬなにかにおびえているようだった。
できることなら早くこの場から立ち去り、走ってでも家に帰りたいのだろう。腰を引き、せわしなく周囲を見回す彼は、右手を常に刀の柄尻に添えていた。
「はっはっはっ! なにをそんなにおびえることがある?」
「そ、それはっ……」
「『新月の夜は人斬り夜叉が出る』という、あれかね?」
言いよどむ若者の言葉尻を捕まえて、男は神妙な声色でそう言った。
「いやいや、よもや丹波様が狙われるなどありはしないでしょう」
「なぁに、もし夜叉が現れたら、わしの自慢の愛刀で斬り捨ててくれるわ! はっはっはっ!」
返答を聞くまでもなく、丹波吉左衛門は再び声を上げて笑った。そうして前を行く若者の背に、景気づけにと一発平手を打ちつける。
最近世間をにぎわせている人斬りのうわさは、当然彼の耳にも届いている。神出鬼没な人斬りは、月明かりのない新月の夜を好んで現れるのだそうだ。
うわさ話を信じている若者に反して丹波は、そんなうわさ話を真に受けるなど鍛練が足らぬ証拠だと、若者の背中を肉厚な手のひらで叩いていた。
うわさは所詮うわさであって、この広い市中で自分が狙われる可能性など考えたこともない。
豪快に笑う丹波の声に励まされたのか、緊張した面持ちだった若者の表情が少しだけやわらいだときだった。
「……丹波吉左衛門殿とお見受けする」
「「!?」」
三人の行く手に、突如人影が現れた。
月明かりのない晩に提灯も持たず、人影は暗がりの向こう側から三人を見据えるようにして静かにたたずんでいる。
正体を探ろうにも、闇が邪魔をしてその表情は見えない。
しかし腰に帯びた刀の輪郭を確認した瞬間、取り巻きの男たちは丹波を守るように前に出た。
わずかでもいい。人影の正体を見破ろうと、腕をめいっぱい伸ばして提灯を前に突き出す。
だがぼんやりとした明かりは、彼らが知りたい情報をなにひとつとして教えてはくれない。
「何奴か! 名を名乗れ!!」
「ええい、下がれ! 下がらんと斬るぞ!?」
鼓膜を揺さぶる怒声に微動だにすることなく、人影の発した声が一瞬の静けさの中でいやに響いた。
「……この国の民のため、貴殿には死んでいただきたい」
叫ぶ男たちの声を無視して、人影はゆっくりと腰の刀に手をかけた。そうして一歩、また一歩と男たちに向かって歩み寄る。
その歩調は徐々に早さを増し、ついに人影は身を低くして駆け出した。
「丹波様! お逃げください!!」
「この場は我々が!!」
「っうぅむ!」
男たちは提灯を道の端に投げ捨て刀を抜く。
取り巻きたちの言葉に丹波は大きくうなずき、足早にきびすを返した。彼らが怪しい人影と対峙している隙に、急いで自宅に帰るなり、奉行所に駆けこむなりすればいいのだ。万が一彼らが斬られたとしても、自分だけはなんとか助かるはずだった。
しかしその足は、数歩駆け出したところで止まってしまう。否、止まらざるを得なかった。
丹波は正面を見据えたまま、すり足でじり、じり、と後ずさりをする。うしろを振り返れば、先ほどの人影が取り巻きの男たちと刀を交えている。
――なにかがおかしい……!
目の前の暗がりに向かって、じっ、と目を凝らす。
丹波は己の正面にも、また別の気配を感じていた。
「ぬぅ……! 夜叉が、二人だと!?」
にらみつけた辻の向こうで、新たな人影が揺れる。言葉を発することなく、それは静かにこちらに向かってくる。
丹波は自身の刀を抜き、膝を曲げ切っ先を人影に向かって構えた。
「何奴か! どけ! どかねば斬るぞ!?」
みずからを『忠軍』と名乗る反乱組織があった。帝府の政策に不満をいだき、国の体制を建てなおそうと、我こそはと立ち上がった者たちである。内部はそれぞれの思想や主義主張によって、過激派や穏健派、保守派などいくつかの派閥に分類されるが、目指す最終的な目的はほぼ同じである。
派閥の中には、横暴な振る舞いから民衆に非難される者も多くいたが、一方で人々から英雄的に語られる者もいた。
その者は、まさに夜叉のごとく人を斬る。
闇にまぎれ、帝府の役人ばかりを狙い、そして狙った相手は確実に死に追いやる。いままで斬り捨てた者は数知れず。
しかしその実態は、謎に包まれたまま。
うわさだけが、人々の口から口へと一人歩きする。
そうして世間の中で作り上げられた勝手な人物像に尾ひれがついて、気づけば全身血濡れの人斬りの姿ができあがる。
多くの返り血を浴びた人斬りは、その風貌からいつしか『紅夜叉』とよばれるようになっていた。
闇の中で暗躍する人斬りはけっして明るみには出ず、本当の姿を知る者はほとんどいない。
「「……」」
静まり返った路地に、鞘に納めた刀の鍔鳴りだけが響く。
血だまりに沈む動かなくなった男たちの上に、ひらひらと和紙が舞い落ちる。
「「『天誅』――」」
ふたつの影は、静かにその場をあとにした。