後編 原子の海に挑んだクマさん
海風が、潮の香りを運んでくる。
浜辺に立つ、ひときわ大きな影。
その名はほのか。
羅臼山に生まれ、幾星霜を超えて生きながらえた熊である。
──彼には、かつて果たせなかった約束があった。
昭和のあの頃、戦艦大和に挑み、果し状まで書いたものの、戦いは実現しなかった。
あれから幾十年。
ほのかは語彙を覚え、字も上達し、現代社会のこともだいたい理解した。
もちろん、寿命のことを気にする者もあったが、当の本人──否、本熊──は元気そのもの。
「いやぁ、長生きはするもんだ」
若々しい声で、ほのかは呟いた。
相変わらずの好戦的精神は衰えを知らず、今回の対戦相手に選んだのは、アメリカ海軍が誇る原子力潜水艦・オハイオ級。その存在を知ったのは、近隣の中学生が落としたミリタリー雑誌からだった。
“こいつはつよい。やまとより、たぶんつよい”
そして、ほのかは再び筆を執った。
──果し状──
貴艦「オハイオ」殿
御身、万里を渡りて東方の海に至りしと風の噂に聞き及ぶ。
我こと、北地羅臼山に棲む山の熊「ほのか」と申す者。
かねてより、真に強き者と相まみえ、力の程を試すこと、念願に候。
よって、此度、勝負一番、御受け願いたく、ここに状を認め奉る。
日取り、場所の儀、そちら様の御都合に任せ申し候。
然るべき時に、海辺にて相見え度く候。
此の一戦、尋常にて勝負願いたし。
敬具
天候不順の折、御身お労わりくださり候こと、切に願い奉る。
羅臼山在住
熊・ほのか(血判)
この書状をポストに投函するという行動をとるあたり、文明との折衷を感じさせる。
なお、宛先は「アメリカ海軍 第7艦隊御中」とした。
……そして数週間後。
返事は来なかった。
だが、ほのかは諦めない。
「返事が来ないなら……会いに行くのみ」
そして彼は、貨物船にこっそりと忍び込み、太平洋を越える。
──夏のある日、某所、太平洋上。
水平線のかなた、巨大な鋼鉄の塊がゆっくりと浮上してきた。
オハイオ級潜水艦。その姿を見て、ほのかは言った。
「……なるほど、これはつよい」
甲板の縁に立ち、しずかに両手をあげる。
武器は持っていない。
心にあるのは、ただ一つ。
たたかいたい──それだけだ。
「おい、熊だ! それも……旗持ってるぞ!」
米兵たちが慌てふためく中、ほのかは日本語で叫んだ。
「ワタシ、ホノカ! タタカイ、ノゾム!」
通訳が呼ばれ、ドローンが飛び、報道ヘリが旋回する。
そして、オハイオ艦内でも緊急会議が開かれた。
「……これは、戦いを挑んでいるのか?」
「どうやら本気らしい」
「で、我々はどうすれば?」
結局、その日は艦に近づくことも叶わず、ほのかは貨物船の甲板でビーフジャーキーをかじりながら夜を過ごした。
──戦いは、なかった。
翌日、潜水艦は静かに去っていった。
だが、ほのかは満足そうだった。
「見ただけで、ちょっと満足しちゃった」
そして彼は、また羅臼山に帰っていった。
目に見えない勝負のあと、海は静かだった。
いまも彼は、どこかの山で、つぎなる“最強”を夢見ている。
──終
(`・ω・´) がむばれ!