6ー①
「……エリーナ、なのか?」
驚いた顔で椅子から立ち上がったのは、美しい狼獣人――シュバルツだった。
白銀の髪は新雪が溶け込んだかのように淡くきらめき、見るものの目をひきつける。高い鼻梁と切れ長の双眸は鋭さと気品を併せ持ち、獣人らしい精悍な顔立ちをさらに引きたたせていた。
その一方で、引き締まった体つきは、大きな鍵で閉ざされ鉄格子で仕切られた部屋にひどく不似合いだった。
彼は動揺するように髪と同じ銀色の耳と尻尾を揺らすと、エリーナに駆け寄った。
「ずっと戻らないから心配してたんだぞ。とうとう屋敷を追い出されたんじゃないかと気が気じゃなかった。……いや、それよりも。血の匂いがする。怪我をしているのか!?」
シュバルツは彼女の背中にべったりとした血痕を見つけると、ぎょっとして動きを止めた。
「おい、どうしたんだこれ!?」
「ちょっとゴタゴタがあってな」
「ゴタゴタってレベルじゃないだろ!」
そういえば打ち据えられた背中の怪我を治していなかったな、とエリーナは気づく。
(でもまあ、もう出血は止まっているし、後でいいだろう。蘇ってからとばしすぎたのか、眠気がひどい)
魔女の魂に宿る生命力は人間のそれとは桁違いだが、肉体と魂が馴染む前に魔法を使いすぎたのかもしれない。
急な魔法の使用と、元々の栄養失調と睡眠不足が合わさって、エリーナの肉体は悲鳴を上げていた。
(さっさとここからおさらばして休もう)
そう考えると、部屋のあちこちから薬をかき集め始めたシュバルツを引き止める。
「シュバルツ、朗報だ。解放されたぞ」
「――はっ? いや、そういえば、どうしておまえは鍵を開けられたんだ……?」
「母上と取引をしてな。戸籍から抜けるかわりに自由を獲得した」
「はあっ!? 戸籍から抜けるって、平民にさせられたってことか!?」
「させられたというかまあ……そこは納得済みだから構わない。とにかくこんな辛気臭い場所はもう御免だ。詳しい話は新居でしようじゃないか」
スカイ伯爵家の半地下牢。
騎士団に勤める父の仕事の関係で、罪人を一時的に収監するために作られた施設だが、実際には一度も使われることなく放置されていた。
継母グレタが当主夫人となってからは、エリーナは自室をドロシーに奪われてここに連れてこられた。シュバルツの隣の独房が、エリーナが十年間過ごした場所である。
薄暗く、殺風景な、じめじめした空間。
ここに来てからは、いいことなんて何一つなかった。それこそシュバルツという親友ができたこと以外は。
そんなシュバルツは、エリーナの言葉に怪訝な表情を浮かべる。
「新居? どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。ここを出たら新しく住む場所を決める必要があるだろう?」
「それはそうだが……」
シュバルツは耳をぺたりと倒し、喜びと寂しさと怒りが入り混じったような、複雑な顔をする。
どうも話が噛み合わないな、と小首をかしげるエリーナだが、「……ああ!」と理由に思い当たる。
「あなたも一緒に行くんだよ、シュバルツ。私たちは自由になったんだ!」
「……俺も?」
「もちろん! この家を出るときは、必ずあなたとふたりでと決めていた」
「……!」
大きく息を呑み、苦しそうに顔を歪めるシュバルツ。
エリーナが呪文を詠唱すると、彼の手足に付けられた枷は、粉々に砕け散った。
「次はこっちだ」
グレタから受け取ったもう一つの鍵をシュバルツにかざす。すると、彼の首を一周する隷属の契約印が光と共に消滅した。
この契約印の影響で、いくらシュバルツが力の強い狼獣人であっても、屋敷から逃げ出したり伯爵家の命令に逆らうことができなかったのだ。
無事に隷属印が消えたことに満足するエリーナだったが――次の瞬間こめかみに手を当てて倒れ込んだ。
「おいっ、どうした!?」
「……少しめまいがするだけだ、問題ない。長らく栄養不足だったからな……立て続けに魔法を使った反動がきたんだろう」
「じっとしていろ」
シュバルツは軽々とエリーナを抱き上げる。自分よりずっと小さくて傷だらけのエリーナを見下ろして、そっと訊ねた。
「……色々と聞きたいことはあるが、まずは休んでからだ。どこへ向かったらいいのか教えてくれ」
半地下から一階へ階段を上がると、待ち伏せていたドロシーが金切り声を上げる。
「ちょっとちょっと! なにしちゃってるの!? ふしだらだわっ!」
「邪魔だ、どけ」
「なによシュバルツ! あたしとお母様のおかげでいい暮らしができてたんでしょっ!」
「他人に見せびらかすときだけ飾り立てて、普段は牢に閉じ込めておくことの、どこがいい暮らしなんだ?」
「〜〜〜〜っ! ケダモノの分際で恩を忘れたのっ!?」
はっとして口を抑えるドロシー。さすがに言い過ぎた、という顔をしている。
シュバルツは心底哀れそうな眼で彼女を見下ろすと、薄い唇の間から鋭い牙を見せた。
「ケダモノに貴族の家は似合わない。さようならだ、お嬢様」
信じられない顔をしているドロシーを残し、シュバルツはエリーナを抱えて屋敷を去った。