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カイレンの予想は的中した。
十番街のパン屋の店主も、「そういえばここ一か月くらい、出来が悪い日があったな。言われてみれば水の曜かもしれない」と頷いた。
ただ彼に気にする様子はない。話しながら呑気にパンをこね続けている。
「でもまあ、売れるんでね。スラムがすぐそこのウチじゃ、多少硬くても”食えりゃいい”ってお客ばっかりだから。質より何より量が大事だ」
「景気は良くなっているはずだけど?」
不思議そうにカイレンが訊ねると、店主は生地をこねる手を止めて、彼を頭の先から爪先までまじまじと見つめた。
「あんたさんは貴族の関係者か? なら上に言っといてくれ。第一王子様の強硬政策のせいで貧富の差が広がってるってね。経済改革だの治安の向上だのなんて、十番街やスラムの連中には関係ない。工場勤めの常連客も、国の補助を使って買ったとかいう機械に仕事を取られてクビになってんだ。失職者が変な商売始めたり、学のない連中が騙されて犯罪の片棒を担がされたりしてるって話も聞く。最初から『持ってるやつ』は豊かになるが、『持ってないやつ』からしたら、生活を引っ掻き回されて大迷惑なんだよ」
相手の正体を知らない店主はとうとうと国への不満を語る。
気位の高そうなカイレンが怒り出さないかシュバルツは気を揉んだが、当の本人は意外と真剣に店主の話に耳を傾けていた。
「――なるほど。いろいろ教えてくれて、感謝するよ」
聞きたいことを聞き終えると、一行は店を出る。待ちきれないようにエリーナが訊ねた。
「原因はわかったのか? 情けないが、私にはさっぱりだ」
カイレンはくすりと口角を上げると、九番街の上空を指さした。
「原因は、あれだ」
「……?」
つられるように額に手をかざして見上げるが、何を言いたいのかわからない。視界に見えるのは青い空と、流れる白い雲だけだ。
しばらく眺めてみるエリーナだったが、ふと違和感を覚えた。
「――雲にしては、動きが早い」
今日は快晴で風も穏やかだ。それなのに雲は、まるで煙のようにゆらゆらと一定方向へ流れている。
雲の動きを逆走するようにして顔を動かすと――そこには天を突くようにそびえる煙突があった。
「――! 本当に煙だったのか」
エリーナが瞠目すると、カイレンは爽やかに笑った。
「そう、それが答え。パンの天敵はあの煙だったんだ」
「九番街は王都を支える公共施設が立ち並ぶ。あれはごみ焼却場か? いやでも、南の川沿いにあった気がするが……」
小首を傾げて腕を組むのはシュバルツだ。伯爵夫人とドロシーにあちこち連れ回されていたため王都の地理は頭に入っているが、焼却施設は昔から九番街の南の奥まったところにあったと記憶していた。
「すみません、話が見えないのですが」
ゴドー夫妻がおずおずと口を挟むと、カイレンは悠々と真相を語り始める。
「原因は焼却施設から出るあの煙だ。煙が風に乗ってパン屋の煙突から焼き窯の中に流れ込み、焼き上がりに影響したんだよ」
「で、でも、毎週水の曜だけというのは」
信じられないというような顔でゴドーが訊ね返す。
「焼却炉の稼働は週一回、水の曜だからね」
「でも、それなら急に一か月前からというのはおかしくないか?」
シュバルツが疑問を呈す。
「実はね、稼働日は今までずっと土の曜だったんだ。この前の閣議で老朽化にともなう焼却炉の建て替えが正式決定して、一か月前から場所を移転して稼働している。そのときに、休日に働くのは嫌だという従業員の声を反映して、週末稼働ではなく平日稼働に変更していた」
「移転していたのか。確かに一か月前からゴミの収集日が金の曜から火の曜に変わったな」
「なるほど。焼却炉は九番街にあるから、距離の近い八番街と十番街のパン屋にだけ影響が出たんですね」
初めて要領を得たようでゴドーが「納得しました」と頷き、エリーナも、「そういうことなら、一か月前から水の曜だけという謎も説明がつく」と目を輝かせた。
カイレンは説明を続ける。
「ゴミを燃やした排煙にはさまざまな物質が含まれる。ゴドーの話だと、酵母っていうのは小さな生き物みたいなものなんでしょ? 化学物質の影響でうまく働けなくなってしまったんだ。最近暖かくなってきたから、煙突内部の上昇気流が弱まっていたことに加えて、窯も煙突も老朽化していた。つまり煙突効果が逆に働きやすい条件が揃っていた。焼き窯自体はいつも通り仕事をしたからこそ、いつも通りに焼けなかったんだ」
「煙突効果?」
エリーナが頭の上に「?」を浮かべてシュバルツに視線を移すが、(俺も知らない)とシュバルツは首を振る。
「簡単に言うと、煙突の中の空気が温かいと、外の冷たい空気より軽くなって、上に流れていく現象だ。だから煙や熱が自然に外に出ていく。そうだなあ……、たとえば風魔法を使うときも温度の影響を考慮するでしょ? それと同じ」
「それならピンとくる。つまり温度差がなくなると空気の循環が止まったり、逆流したりするってことだな?」
「そういうこと」
カイレンはゴドーに向き直る。
「悪かったねえ、ゴドー。もとを辿れば僕が閣議決定したのが原因だったようだ」
「…………?」
ゴドー夫妻はぽかんとしてカイレンのにこやか顔を見つめ返す。ちょっとした沈黙が流れた。
「――あっ、そうか。名乗る習慣がないから忘れていたよ。僕はカイレン・セスト・ヴァリシエル。この国の第一王子だ」
「――――!!」
気軽な挨拶のように名乗った瞬間、ゴドー夫妻の顔から一気に血の気が引く。夫妻は忙しなくエリーナとシュバルツに目を走らせ、否定しないことが分かると、膝が砕けたように地面に倒れ込んで地面に額を擦り付けた。
「おっ、王太子殿下とはつゆ知らず、大変無礼なことを! 申し訳ございませんっ!!」
「そういうのいいから。よろず屋には勝手に入り浸ってるだけなんだ」
「好き勝手してる自覚はあるんだな」
ぼそっとシュバルツが呟く。
「それにしても、稼働日変更にこんな弊害があったなんてなあ。もとに戻すとそれはそれで不満が出てしまうから、水の曜でもパンが焼けたらいいんだけど」
ゆったりと腕を組み、カイレンは空にもくもくと立ち上る煙を見上げた。
「要は焼き窯を使わなければいいってことだろ。なら手はあるんじゃないか?」
シュバルツが石畳の上で震えるゴドーに問いかける。
「はっ、はい! はっきりと原因がわかりましたので、対処できます。異国では蒸してつくるパンや無発酵でもつくれるパンがあると聞いたことがあります。レシピを調べてみます!」
「あっ、そういうのがあるんだね。じゃあ、城の製パン部門のシェフにレシピを書き起こさせるよ。彼は留学経験があったはずだから」
「お城のシェフ様に!? そこまでしていただくわけにはいきません!」
「遠慮する必要はないよ。ただ一つ約束してほしい。もし他に煙のせいでパンが焼けないという店があったら、レシピを共有してあげて」
カイレンが指を動かすと、ひざまずいていたゴドー夫妻の身体がふわりと浮き上がり、すとんと足の裏で地面に着地した。王子の申し出に感激し打ち震える夫妻に、彼は居心地悪そうにぼやく。
「……別に、とりたてて感謝されることじゃない。プラスマイナスがゼロになっただけの話なんだから」
「女神シルヴァーナ様に誓って、お約束いたします。このご恩は生涯忘れません。生まれてくる子供にも、よく伝えます」
目尻を拭ったゴドーはトゥーラの腹に手を添え、陰りが消えた心からの笑顔を浮かべた。
「トゥーラは妊娠中だったのか?」
驚くエリーナに、ゴドーは照れくさそうに頭をかく。
「はい、そうなんです。なかなかできなくて諦めかけていたところに、ようやく授かった子で。このままでは妻と子供を養えなくなると気が気じゃありませんでした。原因がわかり、解決のめどもたったので、心からほっとしています。本当にありがとうございます」
「いや、私の力じゃない。カイレンの見識の広さと洞察力のおかげだ」
「カイレン殿下。この度は、なんと御礼を申し上げたらよいか……」
「……だから、いいって」
カイレンはふいと顔を背けた。ハイエルフ族の血脈を感じさせる少し尖った耳の端が朱に染まっている。そのことに気がついたエリーナは、ほのかに胸の奥が暖かくなる。
(ふふ。かわいらしいな)
器用に見えて、実は不器用な一面もあるのかもしれない。
素を出していけばいいのにと思ったが、それができない環境にいたからこうなっているのだと思うと、世の中は複雑なのだなと感じずにはいられなかった。
◇
このあと城で会議があるというカイレンは急いで戻っていった。
エリーナとシュバルツは、のんびりとした足取りで、よろず屋への帰途につく。
「いやあ、見事な解決劇だったと思わないか? 化学反応だとか煙突効果だとかって、ちっとも知らなかった。今回のことでつくづく自分は魔法だけだと思い知らされた。やっぱり教養を身に着けないといけないな」
興奮冷めやらぬエリーナがカイレンを褒めちぎる。シュバルツにとっては面白くない話だが、楽しそうなエリーナに水を差そうとは思わない。相槌を打ちながら八番街を抜けていると、傍らの商店のショーウインドーに映る自分の姿がふと目に入った。
(……エリーナの言う通り、背が伸びたようだ)
――これ以上伸びなくていいのに。
シュバルツの口内に苦い味が広がっていく。
伯爵邸に幽閉されていたときは待ち遠しかった成長が、今では呪いのように感じられた。
狼獣人は人間の二倍の速度で成長する。
成長とはつまり、老化だ。
(俺は確実に、エリーナより早く老いて死ぬ)
それは避けられない運命だ。
獣の血をひく獣人族とはそういうもの。寿命の長いエルフ族、魔女族としばしば対比される世界の常識だ。
獣人ならではの逞しさや輝くような見た目も、長くは保たない。だからこそペットのように扱われたり、使い捨ての奴隷にされる獣人が後を絶たないのだ。
(最初からわかっていたはずなのに)
出会ったときは見上げていたエリーナの顔が、いつしか同じ高さになり、見下ろすようになった。伯爵邸のあの牢獄では、そのことだけが幸せだったのに。
今やそれが、たった一つの不幸になってしまった。
常識に疎いエリーナがこのことを知っているかは分からない。分からなくていいとさえ思う。悲しまれたり、憐れまれたり、そういう感情を向けられたくなかった。
シュバルツはショーウインドーに映った自分から逃げるように俯く。足元に転がる小石を蹴ると、深く静かにため息をついた。




