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「空間感知」
目の前で展開される魔法の数々を、カイレンは真剣なまなざしで見つめる。エリーナが展開する美しい魔法を、何一つ取りこぼさずに吸収しようとする目だ。
「調理場の湿度、温度は問題なさそうだ」
煙突に繋がる焼き窯に歩み寄ると、エリーナはそっと手を触れる。
「メモリア・フォルキス、オステンデ・ミヒ・ドゥア?」
語りかけるような文言が終わると同時に、窯の中にかすかな火がともる。
揺らめく炎は地を這うような低い振動音をたてる。不思議とそれは言語のように聞こえた。
「……フェーキ・クォド・ポルトゥイトゥ……ニヒ・ウルリケ……」
「グラティア・アンティクァ。ルーメン・トゥム、ウィアム・ミヒ・オステディート」
腕を胸に当てて頭を下げる仕草をすると、窯の中の炎はすっと姿を消した。ぽかんとする一同を振り返ったエリーナは、困ったようにこめかみを押さえる。
「焼き窯に訊ねてみたが、いつも通り焼いたと言っている。振り出しに戻ってしまった」
「君は物と対話することができるのか!?」
ほとんど叫ぶように吃驚したのはカイレンである。
「んっ? ああ。と言っても、この窯のように古く長く時を経た物に限る。そういう物には精霊が宿り、いにしえの言葉で問いかけると、気まぐれに応えてくれることがあるんだ」
「精霊と対話! 神話上の存在だと考えられていたけど実在するのか! ねえ精霊は今、なんと答えたの!?」
彼はエリーナの両肩を掴むと、食らいつくように訊ねる。
「『我は為すべきを為した。それ以外は知らぬ』と」
「そのあと君が伝えていたのは?」
「教えてくれた礼を伝えたんだよ。……ははっ。あなたは心から魔法を愛しているんだな」
好奇心旺盛な子供を慈しむような顔を向けると、カイレンははっとして我に返る。肩においた手を離し、誤魔化すように咳払いをした。
その少し後ろでは、ゴドー夫妻が不安げな表情を浮かべている。
「エリーナさん。その、窯の不具合ではないとなると、原因はどうなるんでしょう?」
エリーナは「うぅ〜ん」と唸り、腕を組む。
「正直なところ、糸口は掴めていない。シュバルツはどうだ?」
「悪い、俺もだ。材料と窯の不具合の線は外れたから、それ以外に要因があるのかもしれないが……」
「そうですか……」
ゴドーが沈んだ声を出すが、場に流れる重たい空気を感じ取ると、「すみません! 色々調べていただいて感謝します! もうこうなったら、水の曜を定休日にしちゃおうかな」とおどけてみせた。
確かにきっかり水の曜だけパンが焼けないのだから、その日パンを焼かなければ済む話ではある。
けれどもここヴァリシエル王国では、一部の公共サービスを除いて、国民の休日は週末二日、土の曜と風の曜と決まっている。自宅で家族と過ごすか休息を取ることが文化だから、例えば平日休んで週末に店を開いても客が来ないのだ。今までと同じ売上を立てることは難しい。
「いや、心配はいらない。必ず解決してみせる。諦めるのは早い」
励ましながらも内心エリーナは途方に暮れていた。水の曜だけパンが上手く焼けないなんて、考えれば考えるほど奇妙な話だ。
カイレンが口を開いたのは、エリーナが得体の知れない怪異や呪いの類ではないかと超常現象の線を考え始めたときだった。顎に手を当てて考え込んでいたが、なにかに気がついたように顔を上げる。
「ねえゴドー。一度、最初からパンを作ってみてくれない?」
「あっ、はい。それは構いませんが」
「確かに一度最初からチェックしたほうが良いな」
エリーナも頷いた。
ゴドーの製パン中、カイレンは真剣な表情で作業を見学していた。時折手順の意図や、原理などの質問を織り交ぜる。
材料を混ぜ、生地をこね、発酵させ。焼き上がったぺちゃんこのバターロールを見て、彼は一つ頷いた。
「皆も見たよね? 窯に入れてパンが膨らみ始めたけど、少しすると逆にしぼんでいった」
「ああ」
「僕もそれには気付いてました。でも、発酵はしっかりしてるのに変です」
「エリーナの話だと、焼き窯はいつも通りに仕事をしているんだろ」
やはり、明確な答えにはつながらない。
けれどもカイレンは面白そうに微笑み、焼き窯から天井、煙突へと上へ視線を動かす。
「ねえゴドー。八番街に他にパン屋はある?」
「いえ、うちだけです。七番街には何軒かありますが」
「その店にも異変が起こっている?」
「馴染みのパン職人とこの間ばったり会いましたが、そのときは何も言ってませんでしたね」
カイレンは顎の下に手を当てる。
「じゃあ、九番街と十番街にパン屋は?」
「九番街は飲食店をやるには不向きの区画なので、ありません。十番街には確か一軒あったかと。ですが店主と面識はなく、様子は分かりません」
「なるほど。……答えが分かったかもしれない。僕の予想が当たっていれば、おそらく十番街のパン屋でも同じ現象が起きているはずだ」
一同は目を見開き、答えを探るようにカイレンを見つめた。
「確かめに行ってみよう。僕はもうすぐ戻らなきゃいけないから、急ごうか」




