18
「絶針の静刻」
その瞬間、腕を振りかぶったドロシーの身体が、目と歯を剥いた醜悪な表情のままぴたりと止まった。
エリーナは深くため息を付く。
「……血を分けた妹なんだ。こんなことはしたくなかったが」
とても伯爵令嬢とは思えない悪魔のような顔。残念なことだが、妹の本性をよく表している。
交戦状態になったら最後、手加減できる自信がまるでなかったので、動きを止めることが今できる一番平和的な解決法だと判断したのだった。
「こちらには男性用のお手洗いもあるのだったか。あなたのその顔さえも愛せる男が現れることを祈る」
時を止めたため耳も聞こえていないはずだが、エリーナは申し訳なさそうに語りかけた。
歪な性格のドロシーだが、幸せになってほしい。それは姉として嘘偽りない願いだった。
この魔法は夜会の終了を告げる鐘の音で解けるようになっている。強めの灸を据えたことで、自分を振り返るきっかけになってくれたらいいのだが。
(それにしても危なかった。あれ以上言われていたら、我慢できたかかなり怪しい)
爪が肉に食い込んで血まみれになった手のひらを眺める。
昔の自分だったらなら、これは相手の返り血だったはずだ。
(……少しは成長できているのだろうか)
傷口にヒールをかけ、ぎゅっと手を握る。
顔を上げると、城の奥へと歩を進めた。
◇
左の道を進むシュバルツは、人の気配のないところまで来ると、ポケットから小瓶を取り出した。
その虹色の液体を口にするいなや、彼の外見がどんどん変わっていく。
見事な銀髪は何の特徴もない黒色に。頭の上でぴんと立っていた耳とフサフサの尻尾も消え、華やかな夜会の服装は質素な使用人の服へと変わっている。
(元の姿は銀髪のせいで目立つ。潜入しやすいようにと、エリーナが作ってくれたんだよな)
心の中でエリーナを想うと、緊張感が少しだけ安らいだ。
美容サロンを謳って人体実験をしていた三級魔法使いのリリスだが、エリーナが闇を暴いた後、しばらくして確認に行ってみると、無人の店舗には隠遁の魔法がかけられ放置されていた。薬草類はそのまま残されていたため、今回『偽貌の霊薬』をつくるために拝借したのだった。
ぴかぴかに磨き上げられた大理石の柱に映る姿を確認すると、どこからどう見てもただの使用人だ。
シュバルツは唇を引き結んで頷く。
(――アイシャ・ミルズは野菜屋勤め。城の調理場に納品に行くと言って店を出たきり、帰っていない)
城内を歩いて調理場を探し出すと、そこは戦場のような慌ただしさだった。
「黄金エビの香草焼き、上がったぞ!」
「おいっ、これ間違ってるぞ! ボルン芋のポタージュはボウルじゃなくてショットグラスで提供だ!」
「スイーツの減りが早いようです! どんどん運びます!」
「ガードナー公爵様がルビニア産赤ワインを気に入られ、屋敷に一樽送ってほしいそうです! まだ在庫ありましたっけ!?」
だれもかれもが忙しくしている中、シュバルツは調理場を歩き回るコックの一人を捕まえる。
「おい、少し聞きたいことがあるんだが」
「夜会で出す料理の準備でそれどころじゃない。後にしてくれ!」
すげなく断られ、どうしたものか少し逡巡していると。
「ねえ、そこの坊や。どうしたの?」
声の主は、シュバルツよりやや年上の女性だった。
蒼い髪を無造作にまとめ、シェフたちと同じ制服を着ているが、胸元を着崩し耳に長いピアスを付けている。
彼女が纏うどこか異質な雰囲気 に、思わずシュバルツは疑問を呈す。
「調理で忙しいんじゃないのか?」
「あたしは毒見役なの。できた料理を一口食べるだけだから、今日に限らず暇なのよ」
「毒見役?」
この女が? なぜ? というシュバルツの疑問を感じ取ったのか、女は薄く笑う。
「そりゃあ運が悪いと死ぬかもしれないけど、ああしてあくせく働いてるシェフより楽に稼げるんだもの。他の仕事と掛け持ちもOKだし、どうってことないわ」
「……そうか」
女は足を組んで座っていた木箱から立ち上がると、にこやかにシュバルツを見上げる。
「あたしはファリーダ。坊やは男前だから、知ってることなら教えてあげる」
シュバルツは訝しげな顔を向けていたが、周囲を見渡して殺気だった厨房の様子を再確認すると、小さくため息を付いてファリーダに向き直る。
「……アイシャ・ミルズという女性を探している。四日前に納品に来たときのことを教えてほしい」
「ああ、その子なら知っているわ。ドワーフの血が入ってる子でしょ。元気で可愛らしいわよね」
ファリーダは銀色の瞳を瞬かせる。
「ここ数か月は毎週来てくれてるから、多少は知った仲よ。四日前に来たことも覚えてる」
「いつもと変わった様子はあったか?」
「普段と同じよ。野菜を納品して、軽く雑談をして、いつも通り出ていったわ。確か晩餐の毒見を終えた後だったから、十八の鐘の前くらいかしら」
「そうか……」
腕を組んで考え込んだシュバルツに、ファリーダは疑われていると思ったらしい。
「あたしの言うことなんて信じられないかもしれないけど。ほら、納品の伝票があるから本当よ」
彼女は厨房の片隅の棚に雑然と突っ込まれている綴りを持ってきて、シュバルツに見せる。
そこには確かに、四日前の日付と、アイシャのサインと副料理長だという男のサインがあった。
「ね? 嘘じゃないでしょう」
「そうだな」
アイシャは確実に納品をして、厨房を後にしている。
(ここを出た後に行方がわからなくなったということか。別の場所を探す必要があるな)
「助かった。ありがとう」と伝えてさっさと出ていこうとするシュバルツを、ファリーダは引き止める。
「ギデオン爺のところは行ってみた? 確かギデオン爺のお弟子さん、アイシャちゃんの幼馴染よ。仕事が忙しくない日は、納品ついでに寄っていくこともあったわ」
「――ギデオン爺?」
足を止めて振り返ってファリーダの顔を見つめると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「ようやくまともに顔を見てくれたわね。……ギデオン爺ってのは王城の庭師よ。そこの勝手口から出て左に真っ直ぐ行くと、爺が住んでる小屋があるわ」
「……すまない」
少し気まずそうにシュバルツが目を瞬かせると、ファリーダは「構わないわ」とひらひらと手を振る。
「でも、これだけ教えてあげたんだから、今度の休みにあたしとデートしましょうよ」
唐突な誘いにシュバルツは瞠目するが、即座にきっぱりと言いきった。
「悪いが、それはできない」
「どうして? 恋人がいるのかしら?」
「命より大切な人がいる」
迷いのない言葉。
ファリーダは目をぱちくりさせて、この男にそこまで言わせる『大切な人』とはどのようなものだろうかと興味を抱いた。
目の前の男は変装をしているようだが、ただの使用人でないことは厨房に入ってきた瞬間からわかっていた。自分の読みが外れていなければ、身分を隠した貴族か人間に化けた高位の他種族だ。姿形は変えられても、滲み出るオーラまで隠すことは難しい。
面白いわね、とファリーダは舌で小さく唇をなぞる。
「……その子は幸せ者ね。もし振られてやけ酒でも飲みたくなったら、いつでも声を掛けて」
「本当に、助かった」
誘いには応えずにシュバルツは礼を伝える。
「名前を聞くくらいはいいかしら?」
「……シュバルツだ」
「そう。じゃあまたどこかでね、坊や」
聞いたくせに呼ばないのか、と少し理不尽な気持ちになりながらも、シュバルツの頭はすでにギデオン爺のことに切り替わっていた。
◇
ギデオン爺の小屋を訪ねると、爺は憤慨していた。
話を聞けば、弟子であり同居しているオーウェンが突然帰ってこなくなり、連絡がとれないのだという。
「あの野郎、もう四日も帰ってこねえんだ。ちっとは見込みのあるやつだと思ってたが、もう知らん。根性なしはこっちからお断りだ」
「オーウェンの幼馴染のアイシャという女性も行方がわからないんだが、なにか知っているか?」
「ああ、アイシャなら知ってる。だが、ここ数か月は顔を合わせてねえな。俺達も城のあちこち動き回って手入れしてるから、ほとんど単独行動なんだよ」
オーウェンとアイシャが二人して行方不明になっている。
事件や事故に巻き込まれたか……ふたりの関係性によっては駆け落ちという可能性もゼロではなさそうだ。
(だが、城のどこかには居るはずなんだ。しかし優先順位をつけて探さないと、とても一晩では終わらない)
由緒あるヴァリシエル王国の権威を表すがごとく広大な王城。本城に付随する建物まで合わせると、両手では数え切れないほどの数がある。
人が隠れられそうな庭園や森なども加えると、本当に途方もない広さだ。
(どこから探したものか)
シュバルツがふと夜空を見上げた瞬間、本城の奥のほうで爆発のような閃光が走った。一瞬だったが、まるで昼のように空が明るく照らされた。
「――――エリーナ?」
シュバルツの胸に嫌な予感がよぎる。
気付いたときには、その方向にむかって走り出していた。




