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エリーナがシュバルツの背中から顔を覗かせる。
「ウィリアム殿と言ったか。私がエリーナだ。夜会の招待状だって?」
「ああ、あなた様が。カイレン殿下直々のご招待ですよ。光栄に思ってください」
誇らし顔のウィリアムからひとまず封書を受け取ると、分厚い高級紙にざっと目を走らせた。
シュバルツはちらりとエリーナの横顔をうかがう。
「……行くのか?」
「うーん。夜会って貴族の遊びみたいなものだろう? 困っている人がいる気はしないから、行く必要はないな。――ウィリアム殿、そういうわけだから欠席で頼む」
「はっ!? カイレン殿下からのご招待ですよ。断るなんてあり得ません!」
信じられないというようにウィリアムは目を剥くが、エリーナはさっさと店の鍵を開け、中に入っていく。ちょっと振り返ると、ひらひらと手を振った。
「招待状は他の令嬢にも配っているのだろう? 私一人行かなくても夜会は成立するが、店はそうではないからな。すまないが理解してくれ」
「あっ! ちょっと! スカイ元伯爵令嬢っ!」
ウィリアムが手を伸ばして中に入ろうとした瞬間、シュバルツが勢いよく扉を締める。
扉の前でまだ何か叫んでいたが、エリーナは迷いなく招待状を屑籠に投げ入れた。
◇
料理にとりかかるシュバルツの傍らで、エリーナはソラマメの皮むきやナッツのより分けを手伝った。
魔法を使えばすぐだが、他愛もない会話を交わしながら、時間をかけて手を動かすことも楽しい。
お疲れ会の夜は和やかに更けていった。
「悪い、シュバルツ! 先に寝る!」
酔いでほんのり赤く染まった頬を手で抑え、エリーナがソファから立ち上がる。
「ああ。おやすみ」
「昔はもっと飲めたんだがなぁ。あー、ふわふわふするぞ」
「おい、そこは壁だぞ。ったく……」
シュバルツは苦笑するとドアではなく壁を押しているエリーナを部屋に押し込む。
静かにドアを閉めると、居間に広がる空になった皿や酒瓶の片付けに取り掛かった。
料理や片付けは嫌いではない。別に好きでもないが、やるとエリーナが「助かるよ!」と喜ぶからやっている。
それに、スカイ伯爵家の独房に閉じ込められていたころに比べれば、何もかもが夢みたいに嬉しいことばかりだ。
ずっとエリーナと一緒にいられること。自分がしたことで、エリーナが喜んでくれること。
(この暮らしが、ずっと続けばいいのに)
皿を洗いながら、シュバルツは今日に至るまでのことを思い返していた。
◇
シュバルツ・シルトは、ヴァリシエル王国から遥か北の地、獣人族が集う里グルナハルで生まれた。
グルナハルの国土は広く、各種族は生態に合わせて独立した暮らしを営む。狼族であるシュバルツたちは雪が薄く積もる山岳地帯で暮らしていた。
彼の記憶にある両親の姿はおぼろげだ。
なぜなら生後すぐに育児放棄され、別の集落に住む祖母に育てられたからだ。
シュバルツの両親の髪色は茶色なのに、生まれたシュバルツの髪は銀色だった。狼族は執着心と嫉妬心が強い。不貞を疑ったシュバルツの父は家を出た。決してそんなことはしていないと言い切った母は恐ろしい顔で幼いシュバルツを睨みつけ、
「あんたのせいよ! こんなことになるなら生むんじゃなかったわ!」
と吐き捨て、すぐに父を追った。
祖母は捨てられたシュバルツを哀れに思い、愛情深く育てたが、数年後病にかかりあっけなく亡くなった。
天涯孤独の身となったときシュバルツは四歳 。いくら身体能力の高い狼族でも独りで暮らしていける年齢ではない。
ある日食料を求めて出かけた森で、シュバルツは賊に捕獲される。獣人族は愛玩用や戦闘要員として価値が高く、幼齢の獣人族は狙われやすいのだ。
奴隷市場に売られてあちこちを転々とし、十三歳でスカイ伯爵家にやってきた。
そこでシュバルツは驚いた。少女が隣の独房に入れられていたのだ。奴隷市場では見知った光景だが、貴族家で、しかもその家の娘が幽閉されているのはどういうことなのだろうと。
当時その少女――エリーナは十四歳だった。彼女は困ったように眉を下げながら、シュバルツに微笑みかけた。
「私、お義母様と妹に疎まれているみたいで。シュバルツ、これからよろしくね」
エリーナ・スカイという人間は奇妙だった。
自分だって辛いはずなのに、やたらとシュバルツのことを気にかけた。
ふたりの独房の間には鉄格子のついた地窓がついていたが、その窓越しにエリーナは「だいじょうぶ?」「嫌だよね、怖いよね」など声掛けをして、年下のシュバルツを安心させようとした。
麗しい見た目を保つため僅かしか食事を与えられなかったシュバルツに、それより少ない自分の食事を分け与えた。
夜、房の中でシュバルツがうなされていると、鉄格子の隙間から手を伸ばしてそっと握りしめた。
それはいっときの気まぐれでは終わらず、毎日毎晩、変わらずに続いた。
狼獣人は人間の倍の速さで成長する。シュバルツに成長期が来て、エリーナより身体が大きくなっても、まるで弟のように優しく愛情を注ぎ続けた。
エリーナの温もりは、ゆっくりとシュバルツの心を溶かしていった。
いつしかシュバルツは、スカイ伯爵家を出てエリーナと暮らすことを夢見るようになった。
「この隷属印がなければ、こんな扉なんてすぐに壊せるのに」
首にくっきりと浮かぶ、屈辱の証。
これがある限り、自分は伯爵夫妻に逆らうことも、屋敷を出ることもできない。
しかしシュバルツは諦めなかった。
無駄かもしれないと思いながらも、夜中少しずつ、鋭い爪でベッドの下の床を削り続けた。幾度となく爪が剥がれ、指先は血まみれになった。
見世物にされて得たチップは汚らわしいことこの上ない。しかし万が一ここを抜け出せた場合、魔法使いに頼んで隷属印を無効化してもらう足しになると思って、こっそり貯めておいた。
すべてはエリーナのため。必ず自分がここから連れ出すと、シュバルツは心に決めていた。
――ところが、ある日を境にエリーナは牢に帰ってこなくなった。
ひどく嫌な予感がした。
「もしかして、屋敷を追い出されたのか……?」
あの継母と義妹ならやりかねない。命をアクセサリーとしか思っていないような人間だ。
気に入ったものは大金を注ぎ込んででも手に入れるし、逆に無価値だと認定したものはゴミのように扱う。
グレタとドロシーを問い詰めると、ふたりはいかにも愉快というように扇子を仰いだ。
「屋敷の廊下に埃が残っていたから、愚図は出てお行きとは言ったけど」
「冗談に決まっているのにね。お姉様がいけないのよ」
シュバルツはこのときほど自分を無力に感じたことはない。
その日から食事を拒み続けた。彼女がいないのなら死ぬと覚悟を決めていた。
――だが、事態は思わぬ結末を迎えた。
エリーナは戻ってきた。そしていとも簡単にシュバルツの牢の鍵を開け、隷属印を跡形もなく消し、「私たちは自由だ!」と太陽のように笑ったのだ。
エリーナの魂が死んだと聞いたときは足元が崩れ落ちたが、しかし目の前のエリーナからは、確かにエリーナの感覚がした。
(死んでいない。エリーナは生きている)
彼女が十六年間生きてきた証は確かに目の前に存在しているし、ずっと共存していたというエレンディラには、エリーナの片鱗が感じられた。
本人にその自覚はないのだろうが、エリーナとエレンディラの魂は完全に分断されず混じり合っているのだろう。
シュバルツの獣人としての本能は、そう結論づけた。
「俺にとって、エリーナはエリーナだ」
複雑に考える必要はない。
唯一心を許せる人間で、唯一大事にしたいと思う存在。
それはこれまでもこの先も、変わることはない。
◇
後片付けを終えたシュバルツは、毛布を抱えてソファに身を沈めた。長身の彼にとっては寸足らずで、つま先ははみ出てしまう。
シュバルツは隣の部屋に大切な人の気配を感じ、口元を綻ばせる。
(……おまえの幸せは、俺が守る)
あたたかな想いとともに、シュバルツはまどろみの中へ溶けていった。
次話から二章に入ります。




