11 Sideカイレン
ヴァリシエル王国王城。
王城の屋上庭園に広がる緑の絨毯では一人の青年が寝そべり、ぽかぽかとした陽の光を浴びていた。
澄みわたる空に、あたたかな陽の光。さえずる小鳥に、軽やかに花から花へと舞う蝶。
けれど、カイレン・セスト・ヴァリシエルにとって、この世界は灰色だった。どれほど陽の光を浴びようとも、心の奥底まで温まることは無い。
彼がヴァリシエル王国の第一王子として生を受けたその瞬間から、戦いは始まっていた。
絶対的な王制が敷かれるヴァセリアンでは、その政権において、いかに要職に就くかということがすべて。
ポストについた者は一族二代、三代にわたっての繁栄が約束される 。
一方で、ポストからあぶれた敗者は政権交代を待つしかない。野心を抱く貴族たちは派閥を形成し、こぞって幼い王子たちを担ぎ上げた。
一見して平和に見えるヴァリシエルだが、城内は陰謀や駆け引きが渦巻く修羅の巣だった。
幼いカイレンも権力闘争に巻き込まれ続けた。表では甘言を弄しながら、いとも簡単に人を裏切る者たちを目の当たりにしてきた。
側近さえも彼を裏切った。一年と同じ人間がそばにいたことはなかった。
あまり関わりを持たせてもらえなかった実母も、弟を産んだ後、急死した。それすら誰かの陰謀ではないかという噂が流れ、カイレンはちいさな胸を痛めた。
(僕なんて生まれてこなければよかったんだ。権力なんてどうでもいい。王位も弟にあげるのに)
争いの外に身を置こうとしたカイレンだが、運命はそれを許さなかった。
決定的な事件は、八歳のある夜に起こる。
第二王子派の勢力に陥れられ、魔獣の餌になりかけたのだ。
命からがら生還したものの、出迎えた臣下たちの中から小さな舌打ちが聞こえた。
その瞬間、カイレンの心は深い闇に沈み、固く閉ざされたのだった。
それからは、ただ生き延びるためだけに力を身に着けた。
剣を学び、魔法を極め――気づけば"最強の魔法使い"と讃えられるようになっていた。いまや誰もカイレンを殺すことなどできない。
渦巻く陰謀のなかを慎重に立ち回り、政治の手腕で黙らせ、安全地帯を築いてみせた。
国王はそんな第一王子の才能を認め、皮肉にも後継者に指名した。「これで我も隠居ができる」そのときのカイレンの落胆は計り知れない。
カイレンが生きる理由はただ一つ。
(あの日、ロードグリフォンから助けてくれたお方を失望させたくない)
それだけだった。
突然現れた女性は、見たこともない美しい魔法を使ってカイレンを救い、目の前で死んだ。
あの日カイレンは、初めて無償の愛というものを知ったのだ。
彼女が救ってくれた命だということが、今日までの彼を支えていた。
(――この空をどこまでいっても、あの人はもういない。……人生は長すぎる)
今日もカイレンは、ぼんやりと灰色の空を見上げている。
◇
いつのまにか、瞳を閉じてまどろんでいた。
風に揺れる緑が、さわさわと穏やかな音を立てている。
そんな静寂を破ったのは、近づいてくる足音だった。
「執務室にいらっしゃらないので探しましたよ、殿下」
カイレンは瞼を閉じたまま、傍らにひざまずいた男に話しかける。
「どうしたんだい、ガラハルト? 多忙な騎士団長みずから来るなんて珍しいじゃないか」
「多忙だとご理解いただけているのなら、執務を抜け出して行方不明になることはお止めください」
「やることはやってるんだ。堪忍しておくれ」
ガラハルトは白髪が混じり始めた硬質な髪をポリポリとかき、苦い顔を隠さない。
カイレン第一王子が突然ふっといなくなることは今に始まったことではない。卓越した魔法使いであり政治の才能もあるが、気まぐれすぎるというのがこの王子の唯一の難点だった。
お目付け役も兼ねているガラハルトは、気を取り直して用件に移る。
「王都の治安の件で、報告にまいりました」
「ああ、その件か。続けて」
カイレンは頭の下で腕を組み、鷹揚に応える。
「殿下のご指示通り、スラム街の治安悪化の主な要因である、暴力組織集団について調査を進めていたのですが――」
そこまで言うと、ガラハルトは困惑を浮かべた。
「先日、現地の衛兵から連絡が入りまして、急遽向かったのですが……。アジトが壊滅しておりました」
「…………壊滅?」
優美な眉がぴくりと動く。
「はい。アジトの建物は大破し、中では気絶した構成員が縄で拘束されていました」
「……面白いな。騎士団でも衛兵でもないのなら、いったい誰がそんなことをしたんだろう」
「アジトとは別の場所で氷漬けにされた構成員が発見されました。連中が言うには、『令嬢の皮をかぶった悪魔だ』とかなんとか……。よほど恐ろしい目に遭ったのか精神的な混乱が続いています。治療を受けさせていますので、いずれ情報が得られるかと」
「人間を氷漬けにした? しかも殺さずに? そんなことができる魔法使いが僕の他にいるなんて。ああ、俄然興味が湧いてきたよ!」
ククッとカイレンの喉が鳴る。
黄金の長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、エメラルドのように美しい翠眼が輝いた。
「早急に調べて、その令嬢を僕の目の前に連れてきて。治安改善に協力してくれたお礼をしなければいけないし、それに――」
芝生から起き上がり、長い前髪をうるさそうに掻き上げると、妖艶に唇の端を持ち上げる。
「あのお方以上に優れた魔法の使い手はいないが、暇潰しにはなりそうだ。僕を満足させられる美しい魔法を見せてくれたら、褒美を取らせよう」
「御意」
指示を受けたガラハルトは敬礼をして去っていく。
カイレンは再び芝生に横たわると、空を見上げた。
気持ちの良いそよ風が吹いて、甘い花の香りがカイレンの鼻腔をかすめる。
――少しだけ、世界が色づいた気がした。




