影に潜む虎
『文明の〇〇 パンツイッチョマン』(第一シリーズ)の第九話「ブレイクスルー」以後に起きたお話です。
「――付いてきますか?」
そう聞かれた時、瓜爪朱火はすぐに返事ができなかった。付いて行く、という一見すると主体的ではない行動でも、後の人生を左右しうる重大な選択になりうることを、実体験を通じて知っていたからだ。
前回聞かれたのは、大学時代、二年上の先輩男子からだった。
当時朱火は、その先輩男子に憧れがあった。朱火だけでなく、多くの女子からターゲットにされていた男だった。
彼は顔もスタイルも良いだけでなく、学業もスポーツもできた。だが、朱火にとって一番魅力に感じた点は、彼には信念があったことだった。
なんとなく毎日楽しく過ごせれば良いと考えている周囲の者と違い、彼は深く物事を見ているふしがあった。近づいていくことで、彼が気にしている内容が朧気ながら見えてきた。そして、彼が世界の状態に疑問を持つだけでなく、それを修正できないかと行動を起こす度胸も備えているのに気付いた。
危険思想。
彼もそれは自認していた。だから、身近な信頼できる者にしか、その心の内を明かさなかった。そして、朱火がその一人、さらにいうなら、女子の最も身近な一人として声を掛けられたことを嬉しく思った。彼が示した行く先が、朱火が子供の頃に歴史的な資料映像として観て感銘を受けた事件と同じ方向だったことも背中を押した。朱火は「付いて行く」ことを即決し、公安が後に「遅れてきた革命闘士」としてマークする存在がその時誕生した。
それから月日が経ち、世界を見てきた経験が朱火の中から革命の炎を消し去った。道を外すきっかけとなった男も、朱火が大きくなると途端に化けの皮が剥がれた。心の底では女を見下している器の小さい存在だったのだ。
結局、朱火に残されたのは、テロリストとしての技術と度胸だけだった。それらを活かした先に何が待っているのかは、当然理解していた。そして、予想していたとおりの結末を迎えた――はずだった。
だから、ここで人生の分岐を決めうる選択を求められたのは意外で、困惑させられた。
朱火の両手両足には枷が掛けられており、呼びかけと共に差し出されたのはその鍵だった。差し出した相手は既に自分の枷を外していた。
彼女がいるのは護送車の中。一般車両を改造したものではなく、向かい合わせのベンチに等間隔で枷が床へと接続されている、装甲車両だった。
銀行強盗未遂で捕まり、一時的に収容されていた場所から、何処かへ移送される途中だった。しかし、この車がその目的地へ行き着くことはない。窓のない車両内でも、外から聞こえる騒ぎにより、この護送車が何者かに襲撃を受けたのは明らかだったからだ。
「おい、その鍵、俺にくれよ!」
答えない朱火より先に吠えたのは、隣に座っている、同じ銀行強盗をした仲間でドライと呼んでいた若い男だ。朱火はアインという呼び名を与えられ、作戦の指揮を任されたが、仲間の素性は知らなかった。
もう一人の仲間で鍵を持っているツヴァイが、ドライをしばし見つめてから鍵を投げた。
「うおっ!」
ドライが鍵をお手玉し、結局落とした。腰ベルトと手足の枷で動きを制限されているので、体を歪めるようにしてようやく落ちた鍵に指が届く。それを見たツヴァイは放置しても構わないと判断したのか、また朱火へと向き直る。
「少なくとも貴女は、鍵を外すという意味を理解しているわけですね」
朱火は黙って答えなかった。
もちろん理解していた。確かに逃げ出すのには今が絶好の機会だったが、それ以前に逃げることが最適な選択肢とは言い切れなかったからだ。
ここで逃げると、以後二度と表の世界では歩けなくなる。もう一度捕まって刑に服すまでは。それならば、壊された護送車が燃えたり爆発したりしないかぎり、中に繋がれたまま残っていれば、刑期が長くなることはない。カード賭けで下りるかどうかを考えるよりもずっと簡単な、受容すべき損失の問題だ。
「そういうところも、俺は貴女を買っています」
おそらく三十代と思われる鳶色の瞳を持つツヴァイが微笑んだ。
「……付いて行って、私が得られる物は?」
「スリルです」
即答されたが、それは一般的に、十数年を超える不自由と釣り合うものではない。だが、ある種の潔さに朱火の頬も緩んだ。
そういえば、この男のこういう性質は作戦行動中も好ましく思っていた。
「そう。でも、私はもうそういうので心躍らせる歳でもない」
「そうですか? そうは見えませんが」
そう言われて朱火は目を細めた。どういう意味か判断に迷う。そういう性質に見えないことか、そういう歳に見えないことか。朱火は首を小さく左右に振った。今、重要なのはそんな事ではない。外の音から「制圧」は済んだようだ。じきに、「解放」へ移るだろう。時間はあまりない。
「目的は?」
朱火の問いにツヴァイはまた微笑む。
「知りません。俺は下っ端ですから」
真意を計ろうと朱火が相手の目を見ていると、隣でガチャガチャと音を立てて格闘していたドライが吠える。
「おし! 外れた!」
手枷の錠が、手枷をはめられた本人でも外せてしまう。すんなりとはできないとはいえ設計上の欠陥だな、と朱火は思った。
「脱出したらどこへ行くんだ?」
ドライがツヴァイに聞いてから、答えを受ける前に足枷の解錠に取り掛かる。ツヴァイはドライを一瞥した後、朱火へと向き直り会話を再開する。
「日本の暗部で蠢いている組織があります」
ツヴァイの話す言葉が突然英語に切り替わった。しかし、海外で訓練を積んだ朱火には理解できた。朱火が短い期間加わった組織は世界規模の人員で混成されており、その共通言語が英語だったからだ。今になって、その組織が反米活動を目的としているのに英語を使っていたことが皮肉だと思えた。
「ん! 何だ? 英語か?」
ドライが下げていた頭を上げる。しかし、ツヴァイはまた無視をする。
「その組織に対抗すべく創られた組織、『影虎』」
和名で語られた「影虎」だけが浮いて聞こえた。その名は朱火にも聞き覚えがあった。
「経済系テロリストか」
朱火も英語で呟いた。
テロの背後には思想がある。しかし、影虎にはその思想的背景がはっきりしなかった。一般市民を巻き込む暴力的な活動もあまりなく、金融機関を電子的に攻撃する活動から、「経済系」と評されていた。だが、朱火を使い銀行の金庫室を狙ったり、こうして護送車を襲ったりするあたり、聞いていたイメージよりずっと激しい組織のようだ。
「まあ、こちらも闇で蠢いている特徴は一緒なんですけれど。元は一つの組織だと言う説もあり、詳しくは知りません。下っ端ですから」
「おい。さっきから何だよ! 日本語で話せよ」
ドライが足枷を外し終えて、鍵を摘まんでブラブラと揺らす。
「静かにしろ。おまえの指も折るぞ」
朱火が日本語で冷たく言い放つ。
指が折れているのは朱火自身だった。金庫から目当ての荷物を運び出そうとした時に阻まれた異能者にやられたのだ。今は、人差し指は伸ばした状態で固められている。
朱火は手負いの状態のうえに、両手両足を枷で固定されていたのだが、ドライは黙り込んだ。朱火の凄みと、計画実行前に誰がリーダーかわからせておいたおかけだ。ツヴァイが手のひらを上に向けてのばすと、ドライが鍵を投げ返す。
ツヴァイは鍵を摘まむと目の前に掲げた。どうするつもりか、という問いかけだ。しかも最終機会だ。
護送車の扉がガタガタと鳴った。解放まで秒読みの段階だ。
朱火は鍵を見つめ、その奥にいるツヴァイへと焦点を移す。
この鍵は、ツヴァイが口の中から出した物だった。連れ出される前に、もちろん身体検査はされていた。だから、それ以降誰かから渡されたのだろう。あるいは、身体検査は厳密なものではなかったので、保持しながらやり過ごすのは不可能ではなかった。手を調べられる時は身体のどこかに隠しておき、そこが調べられる前に素早く取り上げる方法だ。「手先の技」と言われる技術だ。熟練者は身体検査をする相手に気付かれず一時預けすらやってのけてしまう。
ツヴァイにその技術があったとしても、そもそも枷の鍵を入手するにはやはり別の誰かの助力が必要だ。護送車を襲撃し、銀行の金庫を狙う作戦規模といい、影虎はかなり力のある組織といえた。
「乗った」
朱火は手枷を限界まで、対面に座るツヴァイへ突き出す。錠を外してもらうためだ。ツヴァイがそうしたように、朱火も口を使って鍵を回すことはできるが、別の人に外してもらう方がずっと早い。
ツヴァイが鍵を回すと同時に後部の両開きの扉が開いた。そこには完全装備の二人が立っていた。フルフェイスのヘルメットを被っていたが、体型から男女の組み合わせだとわかる。男の方はサブマシンガンを構え、扉を開いた女もすぐにサブマシンガンを構える。訓練された動きだ。
「ありがとう」
ツヴァイが仲間に礼を言うと立ち上がり、外へと出て行く。朱火の足枷は嵌められたままだったが、そこは自力でしろということだ。朱火は手枷の鍵穴から鍵を抜くと、足枷を外し始める。影虎のメンバーが無駄にできる時間は全くない、と考えているのは間違いない。朱火は既に、振り落とされかねない試験に挑まされていた。
ツヴァイが道を空けた二人の間に降り立つと、女性から拳銃を渡されて受け取る。そして、肩越しにチラリと振り返り言い放つ。
「彼女は連れて行く」
たちまち完全装備の二人の間に違和感が生じた。問答すらなかったが、首や肩の動きから不満があるようだ。
「お、俺も連れて行ってくれるよな」
ドライもツヴァイの後から降り立ち、不安そうに問いかける。それに対するツヴァイの答えは銃口だった。
「ここで死ぬか、独りで逃げるかだ」
「う、うそだよな?」
ドライはひきつった顔で二三歩下がった後、クルリと背を向けて走り出した。
素人が見ていたら臆病で無様に映ったかもしれないが、素早く的確な判断だったと朱火は評価した。もっとも、「一緒に逃げる」という意味を分かっていない時点で優秀とも言えなかった。しかしそれは、そう考えてしまう世界にまだ居る、という意味で幸せとも考えられた。まだやり直せるのだ。
一方、朱火の前にはもうまっとうな道は伸びていない。
ドライが話している間に、足枷を外した朱火が軽やかに車を降りる。ツヴァイは、ドライとの問答が発生しうると予測できていたからこそ、足枷の解錠を放置したのだろう。そして、朱火はツヴァイが設けた制限時間を突破できた。
完全装備した女がサブマシンガンを朱火に向ける。トリガーに指を掛けず横に添え、一歩距離を取った彼女に、朱火は表情こそ変えなかったが感心した。急な動きを取られても制せられる間合いと、ふとした動きで誤射してしまう危険性を理解している。
ツヴァイは仲間の女性の動きに気付きつつも、それを咎めるような素振りを見せなかった。
「すんなり解放するなんて、優しすぎましたか?」
話しかけられて朱火はツヴァイを見た。その目を見て真意を測る。
ドライを逃がした事について言っているのだろう。暗に逃がさない展開は「死人に口なし」の効果があると示している。朱火は束の間考え、小さく首を左右に振った。
「いや、ウサギだろ?」
自分でも分かりにくい例えだと理解しているので、聞き直される前に先に続ける。
「警察は、影に潜むトラより跳ね回るウサギに目が行く。そういうもんだろ?」
ツヴァイはニヤリと笑うと、仲間をサッと見回す。朱火を引き込んだ説得力を見せつけられたからだろう。人を殺すことに躊躇いはなく、ただ効率を優先する思考。一般人とは異なる。いや、一般人とは馴染まない所にまで行き着いているかも知れない。今にして朱火はツヴァイの誘いに乗った判断が間違っていなかったと追認する。他に行き先はなかったのだ。
「行くぞ」
完全装備の男が唸るように言うと先に歩き出す。その後をツヴァイ、朱火が続き、朱火をまだ狙ったままの女が最後に付く。しかし、行き先は、進路を塞いでいるライトバンではなかった。襲撃に乗り込んできたのはその車両に違いないはずだが、近寄りもせず路地へと入っていく。
しばらくすると、小さな爆発音がした。見えずとも朱火は、襲撃用のライトバンが爆発させられたのを悟った。音の規模からすると、爆発で吹き飛ばす効果より、調査を阻むための炎上を狙ったようだ。きっと今向かっている先に逃走用の別の車があるのだろう。それならば、証拠は残さない方が良い。
同時に、ドライを去らせた理由もさらに理解できた。目撃した情報のうち、襲撃用車両については警察がドライから引き出したとしても意味がないからだ。
ほとんど駆けるほどの早足で数分移動した後、待っていたのは白の自家用車だった。まさか、テロリストが乗っているとは思えないほどの日常感があった。
その車には既に中年男性の運転手が乗っており、朱火の存在に眉を寄せたが、何も言わずに後部トランクを開けた。そこへ完全装備をしていた二人が武装を積めていく。歩きながら一部は外し始めていたので、すぐに終わりそうだった。その間、ツヴァイは後部扉を開け、朱火に入るように促し、朱火がそれに従うと、逆に回りこんで自分が朱火の隣に滑り込む。
当然だが、朱火にドア側の席を譲る気はないらしい。じきにもう一人が、朱火の逆の隣に座るのだろう。
その時、また爆発音が聞こえた。先ほどの車に違いない。燃料を積んだ車両に火を点ければ起き得る反応だ。
「新しい門出を祝う、祝砲みたいなものですね」
ツヴァイが朱火に微笑んだ。不意に朱火は閃いた。自分では気づかなかった自身の特性、いやむしろ弱点というべきものがあったと。それが可笑しくて、朱火はフフフと声を出して笑った。
「どうかしましたか?」
不審に思ったのかツヴァイが聞いてきた。朱火は何でもないと片手をヒラヒラと振る。
「ううん。ちょっと昔を思い出してね」
朱火の答えは半分本当で半分嘘だ。思い出したのは、朱火が道を違えるきっかけとなった大学時代の先輩だ。
そう。『女闘士』と恐れられる朱火の弱点は、好きな男の誘いは断れない、ということだった。
電話が鳴った。
苔石銀行本店の頭取室の電話だ。午後五時半を越えてからこの電話が鳴るのは稀だ。一部の一流企業が推移しているように、苔石銀行でも従業員の残業を減らすような流れがあった。それ故、頭取も一応は午後五時半には終業という形を取っており、緊急の用件ではない限り連絡は翌日に回すように勧められている。
そういうルールがあっても、自分は適応外だと考えるヒーロー気質の者はどこにもいる。しかし、ここ苔石銀行本店においては、敢えて一線を踏み越えてくる者はほとんどいない。
怖いからだ。
しかし、苔石銀行の頭取、養老統は、あまり例のない着信に驚くことなくパソコンから目を離すと受話器に手を伸ばした。
「もしもし」
近年のビジネスマナーでは勧められていない古風な応答をすると、すぐに向こうから男の声が掛けられる。
「兄さん、龍精髄を狙った連中が護送中に逃げた」
ここで統はわずかに表情を変えた。口角が少しつり上がった。
「ほう。当代の影虎はかなり活動的だな」
護送車が襲撃された情報は警察へと届いていたが、まだ報道はされていなかった。現場を撮影した一般人が個人的に映像情報をネットに上げていたが、何が起きたのかはほとんどわかっていなかった。変わった車両が炎上し、消火活動が行われている、という程度だった。
だが、養老家は独自に張り巡らせたネットワークにより、警察と同等レベルの情報を把握していた。
「兆候が出ていたからこそ、龍精髄をここから動かしたが、予想以上の反応だな」
統の言葉に、電話先にいる実弟、征十郎は答えなかった。指示を待っているのだ。
「では、引き続き情報収集を頼む。とはいえ、簡単に尻尾は掴ませてくれまい。コストを過剰に注ぐ必要はない」
「はい」
「お互い、警護も強化しておくべきか。まさか一個人を潰しにくるとは思わないが、念のため」
「兄さんは頭だから狙いにくる意味はあるだろう」
「そうしたところで、新しい頭にすげ替わるだけだ。老人たちを全滅させるなら、混乱も影響も大きくなるが、現実的ではない」
「だからこそ、今の頭を潰せば、全体のパフォーマンスは落ちる」
「そうか? そうとは思えないが」
「いや、そうさ」
征十郎の躊躇いのない返事に、統はしばし黙る。
「攻撃的ではない接触なら、こちらに来る可能性は高い」
この征十郎の言葉にも、統はすぐに答えなかった。数秒間経ってから一言投げかける。
「危険な役どころだな」
電話の向こうで弟がフフフと笑う。
「逆に一番楽しめる砂被りとも言えるよ」
受話器のこちら側でも統が口角を上げる。
「徹も否応なしに前線に立たねばならぬかもしれん。もうしばらくは養老の頸木から解放してやりたがったが」
甥に対して統が言及すると、その父である征十郎も溜め息を吐いた。
「仕方あるまい。仕掛けてきたのは向こうだ。こちらに選択権はない。……それに、養老家から離れられた、という認識は幻想だ。きっと徹もそれはわかっている」
「そうだな」
そこで数秒の間が生まれた。次に話し出したのは、養老家当主である統。
「おそらく、当代の影虎は過去稀にみる勢力となっておろう」
「はい」
「こちらが影に封じられないよう、ゆめゆめ油断するな」
「心得ています」
そこで統の顔がふと緩む。「能面」と揶揄されるほど表情がほとんど変わらない彼の今の顔を、部下たちが見たら大いに驚いたことだろう。
「達者でな、征十郎」
「兄さんこそ」
返す弟の声も柔らかかった。
こうして、七百以上に渡って続いている密やか闘争が再び活性化した。闇で繰り広げられるせめぎ合いは一般人の目には触れないが、知らずともその影響には否応なく巻き込まれることになる。
養老家と影虎の攻防は、アクション映画的なものというより、ビジネスドラマ的な展開になるでしょう。経済が主戦場です。
その中で、外部から影虎へ編入した朱火は、能力を認められ、実行部隊の現場隊長へとのし上がっていきます。
作者がまともなら絶対こちらの方が作品展開として進められるのでしょうが、あいにく半裸の男にスポットライトが向けられるので、こちらの話を今後書く予定はありません。どこかでクロスするくらいならあるかもしれませんが。