7 捨て猫
その日の昼過ぎから、本当に雨が降ってきた。
「……マジかよ」
雨は放課後には本降りとなり、陵は校舎の窓に映った雨雲に、小さなため息をついた。
(姉ちゃんの予報、当たったな)
正確には姉が観たテレビ番組の天気予報なのだが、陵はあくまで姉に感謝しつつ、やっと出番がきたビニール傘を開いて下校した。
授業の後、陵は体育委員会に参加していたため、部活動のない生徒は大方すでに帰っていた。雨でけむる運動場にも人の姿はなく、正門を抜けた陵は閑散とした通学路を進んだ。道には降りしきる雨音だけが響き、少し肌寒かった。
ところどころ、濡れてにじんだブロック塀のそばを歩きながら、陵は道路を挟んで反対側に建つ古い車庫の前に、知った顔を見つけた。
「斉二?」
学校の向かい側には戸建ての家や空き地などが並び、車庫は空き地の隣にあった。今はシャッターが降りたその軒下で、斉二が傘もささず、ぽつんと横向きにしゃがみこんでいる。
(何やってんだ、あいつ)
悪天候と時間帯が重なってか、道路には他に人気がない。陵の足は引き寄せられるように、アスファルトのくぼみにできた水たまりを避けつつ、道を横切り、斉二の方へ向かっていた。
車庫へ近づくにつれ、相手のようすもはっきり見えてきた。シャッターの前には白い小さなダンボール箱が置かれ、斉二はどうやらそれを見つめているらしい。しかし、その横顔はもの悲しげで、今朝の明るい彼とはかけ離れた表情である。
そして、どういうわけか、そんな斉二を目の当たりにした陵も、胸の奥がしめつけられるような不快感を覚えた。
「斉二」
奇妙な感情にかられたゆえ、陵の呼びかけも、知らずつっけんどんな口調になってしまう。
「陵ちゃん……」
一方、斉二はその声で初めて陵の存在に気づいたようだ。淡い栗色の瞳が驚きでわずかに見開かれるが、元気さを取り戻すには到底及ばない。
「どうしたんだよ、こんなとこで――」
と問いかける陵の耳に、ミイミイとかすかな鳴き声が聞こえた。
陵が言葉を止め、ダンボール箱を覗きこむと、底に敷かれた白いタオルの上を、黒い子猫が鳴きながらチョロチョロと動いている。
「そこの空き地の木の下に、置いてあったんだ」
子猫を見つめて、斉二が静かに答えた。
「捨て猫か」
陵は苦々しく呟いた。同時に、斉二の愁い顔のわけはこれかと合点がいった。
子猫の体は手のひらに乗りそうに小さく、ぴんと立ったしっぽも陵の人さし指ほどに短い。
「誰だか知らねえけど、無責任なことしやがる」
陵はそう毒づきながら、子猫が入れられたダンボール箱を見た。しかし、箱の外側には緑色の字で『南紀特産 紀州みかん』と書かれているだけで、元の持ち主がわかりそうな情報はない。
「お前が、こいつを空き地からこっちに?」
陵が尋ねると、斉二はこくりと頷いた。
「木のおかげで、そんなに濡れてなかったけど……こっちの方が屋根もあって、まだましだから」
淡々とした斉二の言葉を聞きながら、陵も再び身を乗り出して、子猫をまじまじと見た。黒い毛はまだうぶ毛で、動物というよりほわほわとした塊に似ている。子猫はつぶらな瞳で陵を見上げ、まるで何かを訴えるように、ミイミイと鳴き続けている。
「このまま置いとくのか?」
陵もさすがに子猫が心配になってきた。箱には申し訳程度のタオルがあるだけで、食べ物などは何もないのだ。
対する斉二は、首をゆっくり横に振った。
「雨が止んだら、一旦うちに連れて帰るよ。ぼくの家、猫がいるから、とりあえずの面倒はみれると思う」
それを聞いて、陵はひとまず安心したが、
「でも、雨は夜まで降るって聞いたぞ。つーか、お前、傘は――」
「持ってくるの、忘れちゃった」
そう言う斉二の口調は幼い子どものようにあどけないが、どこか頼りなげでもあった。
「お前……」
陵は半ば呆れつつ、
「てことは、もしかして――」
ある考えに思い至って、おもむろに斉二の肩をつかんだ。すると陵の予想どおり、彼のブレザーはじっとりと濡れていた。さらに、よく見れば髪の毛も湿っている。
「やっぱり、濡れちまってるじゃねえか」
傘なしで学校を出たのと、子猫を移した際に濡れたらしい。
「このままだと、猫より先にお前が風邪ひくぞ」
「ひかないよ。ぼく体強いから」
陵が忠告しても、斉二は固くしゃがみこんだきり、動こうとしない。だが、放っておけば、春の寒さと雨で、斉二の濡れた体はますます冷えてしまうだろう。
「バカ、余裕こいてる場合か!」
「そんなんじゃないもん。この子を置いてなんかいけない。雨が止むまで、ぼくもここにいるもん」
(この、わからず屋……!)
いくら言っても、こちらの話に耳を貸そうとしない斉二に、陵は無性に苛立った。
そして、
「じゃあ、俺ん家に来い!」
思わずそう口走っていた。
「え?」
斉二がきょとんと陵を見上げる。さながら、言葉の意味がわからないといいたげに。
(しまった、何言ってんだ俺!?)
自分の発言に驚いたのは、陵も同じだった。斉二とは知り合ったばかりで、家に招くほど親しくもない。しかし、言った言葉は取り消せないし、そもそも言い出したことをあっさり撤回するなど、陵の主義に反する。
「う、うちはすぐ近くなんだよ! アパートだから本当はペットはダメだけど、お前が着替える間くらい、チビ猫の一匹や二匹入れてやる! とにかく、お前はその濡れたのを何とかしろ!」
陵はいっそ開き直り、叫ぶように言った。血圧がむだに高くなった気がした。
「……」
斉二は相変わらず、ポカンとしたままだったが、それまで彼の面を覆っていた憂いの色が、少しずつ消えていく。
「……ほら、来いよ斉二」
陵はぶっきらぼうに言うと、傘を子猫の箱と斉二にさしかけた。
「陵ちゃん……」
斉二がここで陵の名を口にするのは二度目だったが、今その顔には、泣き笑いのような表情が浮かんでいた。