6 大好き
――今日は午後から雨だから、傘持っていきなさいよ。
そんな言葉と一緒に姉から渡されたビニール傘を手に、陵は学校への道を歩いていた。天気予報を反映してか、空はどんより曇っている。陵は右肩にスクールバッグを提げ、左手に握った傘を、棒きれのように振ったり上げたりしていた。
住宅街を抜け、学校を囲むブロック塀が手前に見えてきた頃、
「陵、傘振り回すのやめなさいよ。そのうち人に当たるわよ」
後ろから、葵のきびきびした声が飛ぶ。陵が面倒くさげに向き直ると、予想どおり、幼なじみの少女が立っていた。
「先生かよ、お前は」
陵はぼやきながら、しぶしぶ傘をまっすぐ下ろす。
「あたしが先生なら、あんたは幼稚園児ね。そんなだから、ガサツだの乱暴だのって陰口たたかれるのよ」
葵は陵と同学年で背も低いのだが、まるでもう一人の姉みたいな態度で、いつも陵と互角に渡り合っていた。
「はん。直接言ってこれねえ奴なんか、俺の敵じゃねえや」
対する陵も、どこ吹く風というそぶりだった。
葵は軽く肩をすくめると、
「あんたって、そういうとこ強いわよねー」
陵の改心など、端から期待していないとばかりに呟いた。
しばしの間を置いて、
「一昨日さ、山那くんとバスケした時、何で途中で帰ったの?」
葵が思いきったように訊ねた。
「……」
その問いは、傘の件よりずっと陵の心をゆるがすものだった。貝が口を閉じる速さで、陵の表情から余裕が消えていく。
「いきなり黙って行っちゃうし、顔色も悪そうに見えたから……あんた、負けそうだからやめるってタイプじゃないでしょ? みんな心配したのよ」
葵の言葉に触発され、陵はあの出来事を思い返した。斉二のそばへ行った時に感じた衝撃は、忘れようもない。相手に勝つことが全てだった自分から、あらゆるこだわりや執着が消えて、裸になったような感覚だった。そして斉二と和解した今も、その理由は謎のままだ。
ゆえに、陵は正直に答えるしかなかった。
「……わかんねえよ」
「は?」
陵の声が小さかったのか、あるいは意味が通じなかったのか。葵は眉根を寄せて聞き返した。
「だから、わかんねえんだよ、俺にも」
陵は絞りだすように言って、それきり黙りこんだ。葵が驚いて陵を凝視すると、これまで見たこともない、沈んだ横顔があった。
その時、
「陵ちゃ~ん!」
二人の状況にまるで似つかわしくない、明るい声が響いた。同時に、背後からバタバタと近づいてくる、軽快な靴音。
陵が慌てて振り返ったところ、目の前に、輝くような笑顔の斉二がいた。
「おはよう、陵ちゃん!」
歓喜あふれる挨拶とともに、斉二は正面から陵に抱きついた。
「☆□&◎っっ!?」
突然の事態に、陵はまったく対応できず、やれたのは、よろめいて意味不明な言語を発することだけだった。
斉二は陵よりわずかに小柄で、まさに『胸へ飛びこむ』格好になっていた。斉二のぬくもりに包まれたと思った直後、やや茶色がかった猫っ毛が陵の頬にふれ、さわやかな石鹸の匂いが、ほんのりと陵の鼻をくすぐった。それらを感じた瞬間、なぜか陵の胸の鼓動はぐんと速くなり、体が熱くなる気がした。
隣で目を点にして固まる葵に、
「葵ちゃんも、おはよう!」
陵に抱きついたまま、斉二は元気よく声をかける。その拍子に、陵ははたと正気に戻った。
「斉二! 朝から何なんだ、てめーは!?」
陵は内面の動揺を丸出しで、くっついて離れない斉二をスクールバッグごと押し返した。
「だって、陵ちゃんに会えたから!」
けろりと答える斉二に、
「お、おはよう山那くん。陵と仲良いんだね……」
葵がUFOでも目撃したような顔で、ようやく口を開いた。
「うん。ぼく、陵ちゃん大好きだもん!」
その言葉が、また陵を落ち着かなくさせて、
「お前、恥じいこと言うな!」
「いつからそうなった!?」
陵と葵が、たまらず同じタイミングで突っ込んでいた。
「あ、ぼく日直なんだ。もう行かなくちゃ」
しかし、斉二にはどちらの台詞も耳に入らず、思い出したようにスクールバッグを持ち直すと、
「じゃあ、先に行くね陵ちゃん! 葵ちゃんも、また教室でね~!」
ひらりと駆けていった。
「何だよ、あれ――」
残された陵が、ため息まじりに呟いた。大型の台風が上陸して、去っていった心地だった。
「へー……あんたと山那くんが仲良いって、ちょっと意外かも」
平静を取り戻した葵が、興味津々な表情を陵に向ける。陵は即座に目を逸らすと、
「勝手に決めつけんな。つーか、あいつのカバン軽すぎだろ。中からっぽなんじゃねえの」
苦しまぎれで、この場にさして関係のないことを口走る。
「陵」
それでも、幼なじみは陵から視線を外さなかった。
「何だよ」
「顔、赤いけど」
「うるせーな。あいつのおかげで調子狂ってんだよ!」
陵は先ほどの熱が再び全身をめぐるのを感じながら、葵を置いてずかずかと歩き始めた。