第2話 狐狼鉄拳キャプテン・ブレッド 前編
黒ずんだ枯れ木が、膝を抱えている。
――それが「人」であることに気づくには、目と鼻の先まで近づかなければならなかった。
廃墟の隅に蹲る、木製の人形。一見するとそのようにしか見えないが、彼らは確かに「人間」の子供である。骨と皮だけで辛うじて「原形」を保っているような、極度の飢餓状態だった。
「ねぇ……」
「……ダメだよ」
彼らはすでに、正気ではない。自分達のために、数少ない食料を与え続けてきた両親さえ――今は「ご馳走」に見えている。
僅かに残された理性だけが、その選択を阻止していた。まだ餓死してから時間が経っていない両親の身体は、腐敗もしていない。
――今すぐ両親を喰らえば、あと何日かは生きられる。それは人間の尊厳と命を秤にかけた、究極の選択であった。
「そうだ。それは、ダメだ」
だが。彼らの前に現れた1人の男は、その決断を許しはしない。
子供達は生気を失った瞳に、自分達の前に現れたその男を映す。赤茶色に錆び付いた、無骨な強化服と鉄仮面に、己の全てを覆い隠した彼は――
「……さぁ、これを」
――その一歩を踏み出すたびに、全身から歪な機械音と蒸気を噴き出して。
懐から柔らかなパンを差し出すと、仮面の下で人知れず微笑んでいた。
◇
時代が進み科学が発展すれば、それは必ずどこかで悪用され、人心と文明は荒廃して行く。その事実は何世紀にも渡る人類史が証明しており、2121年現在の某国における紛争地域では、誰もが食うや食わずの日々を強いられていた。
残された僅かな食料を巡り、人々は奪い合い殺し合う。その連鎖の頂点に立つ「陸軍」は約半世紀に渡り、民草の生殺与奪を握り続けていた。
――だが、その陸軍の精鋭である「戦闘改人」の中に、1人だけ。1丁の銃さえ携えず、荒野の戦地を渡り歩く男がいた。
銃を握ることよりも、食料を握ることを選んだ、その「故障品」の渾名は――「CAPTAIN-BREAD」。
かつては陸軍最強の戦闘改人でありながら、銃を捨て軍を去り、飢えた難民に食料を与え続ける流浪の脱走兵。彼の者は今日も、誰かに一握りのパンを届けていた――。
◇
柔らかなパンが舌に触れ、そこから伝わる味覚が脳を通して全身に命を吹き込む。口の中に広がった塩味が、消えかけていた命に生の充足を齎す。
長きに渡る飢餓状態で、衰弱していた子供でも咀嚼できるほどに柔らかく。陸軍兵用の携行糧食として、高カロリーに作られているパン。
それは、陸軍でしか管理されていない「高級品」であった。
「出て来い、脱走兵! 食料強奪の常習犯め……今日こそ貴様を鉄屑にしてやる!」
そんなものを何百回と陸軍基地から盗み出しては、飢えた子供達に与えているのだから……当然、足はつく。
砂塵が絶えない廃墟だらけの貧民街にも、追手の戦闘改人達が迫ろうとしていた。陽の光が差し込むと、彼らの全身を固める紫紺のボディが、眩い輝きを放つ。
鉄人達は赤い眼を光らせて、その全身に無数の銃器を備えていた。この国の人々を苦しめる、「暴力」の化身――特殊部隊「VIRUS-FORCE」である。
「あ、ぁ……」
「……下がっていろ」
それは最早、日課であった。与えられたパンに齧り付く子供達を、廃墟の陰に隠して――赤茶色の戦闘改人は、自分を追ってきた陸軍兵達の前に現れる。
赤銅色に錆び付いた逆三角形の盾を背負う、彼の姿を目にしたVIRUS-FORCEの隊員は――瞬く間に色めき立った。
「赤い装甲、胸部の十字傷……間違いない。ついに現れたなCAPTAIN-BREAD、戦闘改人の名誉を穢す『偽物』めが! よくも我々の前に堂々と――がはぁあッ!?」
「――食事中だ、静かにしろ」
だが。銃器の一切を持たない、たった1人の戦闘改人を相手にしていながら。完全武装された兵士の1人は、いきなり投げ付けられた盾を顔面に喰らい、昏倒してしまう。
フリスビーのように投げられた盾は追っ手の1人を打ち倒すと、反動で跳ね返り、持ち主の手元に帰ってきた。さながら、ブーメランのような挙動である。
「我々の知らない新装備か!?」
「違う、ただの鉄板だ」
「そんなバカな! 戦闘改人の装甲が、ただの鉄板で破られるはずがないッ!」
「戦闘改人の装甲とて、全てを完全に防護しているわけではない。脳機能部に繋がる視神経機能に、ピンポイントで鋭利な衝撃を与えれば――」
「ええい、うるさいッ! 奴を永遠に黙らせろォッ――!?」
そして、数多の銃器で武装された自分達に対する「当て付け」の如く。時代錯誤な代物で攻撃されたことに逆上したVIRUS-FORCEの兵士達が、その鎧に内蔵された銃を撃つよりも――遥かに疾く。
赤茶色の脱走兵は、矢にも勝る速度で、彼らの懐へと入り込んでしまった。その体内で唸りを上げる機関部が猛烈に回転すると、それに伴う発熱が蒸気となって、ボディの節々から噴き上がっていく。
「なぁッ――!?」
「その動き、新兵だな。――もはや俺に割けるベテランなど残っていない、ということか」
刹那――銃を握るために造られた拳を、子供達を飢えから救うための拳で打ち砕き。鋼鉄の剛腕と豪脚が、立ち塞がる者達を蹴散らして行った。
如何に機体性能で優っていようと、陸軍拳法の頂点に立つ彼の前では、何の意味も為さない。小隊規模だったはずのVIRUS-FORCEの頭数は、瞬く間に「1」になってしまう。
「おのれッ――ぐぉあぁッ!?」
「さらばだ、黴共」
左肘に内蔵された歯車が超高速で回転し、擦れ合い――機関部に灯る高熱が、蒸気噴射を呼ぶと。その勢いを乗せ、鋭さと威力を増したアッパーカットが炸裂する。
盾の先端を利用したその一撃を受けて、舞い上がる最後の戦闘改人を追うように――右肘の噴射を利用しながら、「偽物」の脱走兵が跳び上がった。
「――BREAD-SMASH」
そして。最大火力の一撃を解放するため、呟かれたその一言と共に。
「ぐぎッ――あぁあぁあッ!」
弧を描き振り下ろされた右の鉄拳が、肘から噴き出す噴射の推力を借りて。浮き上がっていた戦闘改人のボディを――真上から叩き潰す。
下から突き上げた敵を、さらに上から打ち抜く2連打撃。その威力によってひしゃげていく装甲は、さながら噛み砕かれたパンのようであった。
「わぁっ……!」
「やったあぁあっ! すごぉいっ!」
全ての追手を喰い殺す、弱肉強食の拳。身長193cmという、戦闘改人としては小柄な体躯でありながら――そこから繰り出される打撃の破壊力は、基礎性能で勝るVIRUS-FORCEの兵士達を穿つほどであった。
その雄姿に子供達から歓声が上がり――VIRUS-FORCEの戦闘改人達を撃滅した「脱走兵」もまた、彼らにそれだけの元気が戻ったことに安堵する。
蒼い眼を持つ鉄仮面の下に、絶世の美貌を隠して。怜悧な黒髪の青年は、珍しく笑みを零していた。
「……」
だが。居場所を知られた以上、長居はできない。それでなくても、彼には行かねばならない場所がある。
次の目的地へと視線を移す彼を、子供達は不安げに見上げていた。
「さて……」
「……行っちゃうの?」
「それが、俺の役目だからな」
彼のボディには、人体が飢餓状態に陥った際に血糖の代替エネルギーとして使われる、ケトン体を感知する機能――「LOVE&COURAGE」が搭載されている。その装置の反応によれば、陸軍基地を越えた先にある集落で、何人もの難民が飢えに喘いでいるのだ。
だが。そこに行くということは、陸軍基地に単身乗り込むことを意味する。
しかもそこには――「口減らし」と称して貧しい人々に毒ガスを撒き、大量虐殺を繰り返してきた羅刹の将軍が待ち受けているのだ。
陸軍内部からも「GENERAL-VIRUS」と呼ばれ、恐れられているヴィルゴス・ロイドハイザー将軍。世界最古の戦闘改人にして、実質的な陸軍の指導者でもある彼との戦いになれば、間違いなく双方ともタダでは済まない。
それでも。食料が基地にしかない以上、避けては通れない。もとより、行くしかないのだ。
例え、すでに損傷が激しい胸部装甲の傷が、開いたとしても。
「……帰ってきてね」
「……あぁ」
彼によって飢えから救われた子達にはもう、祈ることしか出来ない。彼らの応援によって得た、愛と勇気だけを頼りに――男は1枚の盾を携えて、死地へと歩み出して征く。
「おい……CAPITAN-BREAD、まだ俺は生きているぞ! 殺すなら殺せ、決着を付けろッ!」
「……」
「なぜだ!? なぜ俺を殺さない、なぜだァアッ!」
全員纏めて叩き伏せられたVIRUS-FORCEの中において、ただ1人。
「未来ある子供」という理由で見逃され、地を這いながらも生き延びていた――とある少年兵を、置き去りにしたまま。