手から、口から、伝わって!
小さな長方形の薄い板は、実に便利で、おもしろくて、どこへ行っても手放せない重要アイテムだ。ベッドでごろごろしている今も、ポコっとかわいらしい音を立ててライトがピカピカ光りだす。
中学校入学を機に買ってもらったピンクのスマートフォンは、この一か月ですっかり樹のお気に入りになっていた。
「樹、ご飯だよーっ」
「……はーい」
伝わっているかはわからないほど小さな声であっても、お返事だけはしっかりと、でも画面からは目をそらさない。無料通話アプリ『OH! SHABERI』通称『シャベ』は、今やスマートフォンを持つ者にはなくてはならないものだ。
今見ているテレビの感想や、宿題の進行状況、リアルタイムでぽんぽんと飛んでくる言葉は、目の前でおしゃべりをしているようだ。
それに何より、考えながら文字を打ち込み返事ができるところがいい。口下手でどもりがちな樹は、普通の会話よりも『シャベ』を使ったほうが饒舌になるほどだった。
だから、樹には不思議で仕方ない。
樹は登録された友達の一覧画面を表示させ、その名前を指でなぞってみた。彼との過去の会話の履歴がぱっと現れるが、スクロールするまでもなく終わる。
『わかった』
『じゃあ明日』
『後で』
かわいい絵のついたスタンプも句読点も何もない、あっさりしすぎの返事だけ。樹は小さく息をつき、母親がしびれを切らせる前にスマートフォンをベッドの上に投げ出した。
「ねえ静、どうして『シャベ』らないの?」
樹は顎を反らせるほど見上げて、何度目かの同じ質問を行った。そうするとポニーテールの毛先が首にあたってくすぐったい上に、朝日が目を刺してちょっとまぶしい。
「今しゃべってる」
上から降ってくるのは、これまた何度目かになる全く同じ返答だ。
人気のない住宅街はシンとしていて、二人の話声以外聞こえてこない。今日も晴天、ちょっと前まではむき出しの首や膝がひんやりしたが、そう感じることも少なくなってきた。すっとするような気持ちの良い朝なのだが、それも台無しだ。
樹は文句を言おうとして、またいつものように言葉に詰まる。
「ち、ちがうよ……。そうじゃなくて」
もごもごと口ごもる樹の頭に、ふふっと笑い声が降ってくる。
「冗談だよ、わかってるよ。答えもわかってるだろ、めんどうだからだよ」
首をかしげるように樹を見下す幼馴染の仲上静は、切れ長の目をやさしく細めて穏やかに言った。女の子たちが頬を染めてざわめくいつもの笑顔だ。
それが余計にむっときて、樹は隣を歩くの静の脇腹、ではなく腰のあたりををつついた。静という名前ではあるが、彼はれっきとした男の子で、中学一年生にして百七十センチ近い長身だ。逆に男の子に間違われやすい名前の樹はセーラー服の女の子で、静とは二十センチ近くの差がある。おかげで顔を見ようとすればぐっと上を向かないといけないのだ。
家が隣同士で幼稚園から一緒の二人は、こうして並んで登校するのが習慣だった。そしてその合間にする他愛のないおしゃべりも。
「便利、なのに」
「そう? 何に?」
「ええと。朝の待ち合わせ、とか」
「角のコンビニのポスト横集合なのはもう何年も変わってないだろ」
「静のバスケ部の朝練の日、とか」
「火曜日と金曜日が朝練のため別々に登校。覚えただろ?」
「覚えた……」
「必要なことがあればちゃんと言う。隣に住んでるんだから口で言ったほうが速いよ」
「そうかな……。ううん、スマホのが速いに決まってるよ」
「そう? とにかく俺は樹と『シャベ』はやらない。ところで、昨日テレビでやってた地上波初放送の映画見た?」
「み、見た!」
明らかに自分の主張のほうが正しいと思うのだが、こうして静が話題を変えればこの話はおしまいだ。樹としては言いたいこともあったのだが、『シャベ』っていない分、話題は一晩のうちにたまっているのだ。
「あの刑事役のヒトがね。すごかった。ええと」
「うん、アクションすごかったな」
「そう、アクション!」
静はぽつぽつと、樹の次の言葉を助けるように話してくる。それに応えるように樹が続きを話せば、頷きながら聞いてくれる。
樹は普段からゆっくり言葉を選びながら話す。慎重すぎて会話に乗り遅れることもしばしばだ。だが、十年以上の付き合いがある静は樹のテンポをよく理解してくれている。それがわかっているから樹も落ち着いて会話ができるのだ。
こうしたやり取りが樹は好きだ。
中学校までの二十五分の道のりを、二人でてくてくと歩いていくこの時間が嬉しかった。
だからこそ、家に帰ってからもスマートフォンを通じて会話ができたら楽しいのに、とずっと思っているのだが、静の返事はいつもつれないものだった。めんどうだから、というのもなんだか言い訳のように聞こえてならない。
実際の理由は今日もわからないままだ。
「あっ、男子たちサッカーやってる」
「仲上くんもいる!」
昼休みに入ったばかりの教室は、窓から差し込む光でぽかぽかと暖かい。給食でお腹いっぱいになったら、午後の授業にそなえて体力を温存しなければならない。
仲良しの里奈と、もう一人の仲良しの愛美のそばに椅子を寄せてだらだらとするのがいつもの過ごし方だ。ついまどろんでしまうのも仕方がないだろう。
誰かが呼んだ幼馴染の名前に視線をあげれば、にんまりとする里奈と愛美の顔があった。
「……なに?」
「んん? 半分寝ぼけてた子の目が覚めたみたいだから」
「やっぱり気になっちゃうのかな~って。B組の仲上くんは、『しずか』に人気だからね」
樹は里奈のその言葉の真意が理解できず、ぼんやりと目を瞬かせた。
「静は静でしょ?」
「ちがうって、シャレじゃないって! マジの話!」
まーた樹がボケてる、とゆるく二つに結った髪をゆらして愛美が笑う。
里奈が眼鏡のずれを直しながら指さすほうを見れば、さきほど静の名前を呼んだのだろう女の子たちが集まっている。窓越しに熱心に校庭を眺めているようだった。
男の子たちの笑い声が遠くに聞こえる。きっと食べたばかりだというのに、転げまわって遊んでいるに違いない。その中には静もいるようだ。
「仲上くんって運動神経いいよね。バスケ部期待の新人、だっけ?」
「そうそう。頭もいいって」
二人のやりとりに、そうかな、と樹は内心首をかしげる。宿題や試験勉強をいっしょにやることはあるが、実力は似たようなものだったはずだ。学年で真ん中程度の順位をキープしている樹と同じということは、ふつうなのではないか。
樹がそう言おうかと思った時には、すでに話題はちょっと変わっていた。
「ああいうふうに遊んだりはするけど、他の男子みたくバカはやらないし」
「物腰柔らかいよね、なんか対応がオトナ。落ち着いてる。親切。重たいものとか持ってくれるっていうし、ドア開けてくれたりするって。紳士的!」
「ウチのクラスの小木くんもモテるけど、あっちはワーッて一緒に騒ぐタイプじゃん? 積極的に近寄っていきやすい。仲上くんは本人が静かだから、仲上くんが好きな子も遠くから静かに見つめるパターン多いよね。あんなふうに。ねっ、樹!」
「……だから、『しずか』って言ったのかァ」
「ようやくわかったの!? も~、樹はぽ~っとしてるんだからァ」
机から身を乗り出した愛美は、つんつんと樹のおでこをつついた。きれいにみがかれた爪のせいでちくりとしたが、痛くはない。だが里奈が愛美から樹を引き離し、おでこにやさしく手を当ててくれた。
「暴力反対! いじめないでよね」
「いじめてませんー」
里奈と愛美は小学校からの仲ということで、お互いに遠慮なく言葉を交わしあっている。それに口の動きが速い。そのスピードについていけないことが多いが、二人のやり取りは聞いていて楽しいもので、樹は二人といるのが静とはまた別の意味で好きだった。
「で、よ。まだ続くんだってば」
「ああ、そうだよね、続くよね」
うんうん、と頷きあった二人は、またニヤニヤと樹を見る。
「ねえ、名前を聞いただけで目が覚めちゃう、幼馴染の有馬樹ちゃ~ん」
「二人で毎朝登校しちゃってさァ。実はけっこう目立ってるんだから」
「もう、そういうこと言わないでよォ」
声は潜めてくれているものの、誰かに聞かれでもしたら一発でわかってしまう。樹は露骨に嫌な顔をして見せたが、二人はどこ吹く風だ。
「何か進展あった?」
「……なァんにも」
樹は机に顎をのせてむすっとむくれた。
静はただの幼馴染であって、決して特別な関係ではない。
つまり、樹の片思いだ。
「泣けるよねぇ、幼稚園からの片思い!」
「かわいいよねぇ、好きになったきっかけ!」
知り合ってまだ一か月だというのに愛美と里奈にはすっかり恋心を見抜かれた上に、言葉巧みになぜ好きになったのかまで吐かされてしまっていた。からかわれるのにも慣れて、もはやふてくされることしかできない。
きっかけは本当に単純だった。
幼稚園の入園からすぐ、自己紹介をする場面でのことだ。男の子のような名前を言うのがイヤで、ただでさえ重い口が一層重くなっていたときのことだ。隣に座っていた静が樹の手をとり、「樹ちゃん、ぼくは静ちゃんだよ。お名前、いっしょに言おう」と励ましてくれたのだ。
それ以来ずっと片思いを続けているが、その恋が実る気配はまったくない。
というよりも、告白などして今の関係が崩れるほうが怖かった。もどかしい気持ちはするけれど、失うよりまずっとマシだ。
はあ、と思わず漏れたため息に、愛美はあわてたように樹のおでこをなでてきた。
「ごめんごめん! なにせ『しずか』な『静くん』が唯一ちゃんと話す女の子っていうからさ!」
「あ、それ、詳しく聞きたい!」
突然かけられた声に驚いて振り返れば、校庭を眺めていた女の子たちがこちらを向いていた。その中でも大きな目をキラキラさせている子が、両手を合わせながら近寄ってくる。
「急にごめんね! 話聞こえちゃって」
「……ううん、こっちこそうるさくてごめんね」
まさか、さっきまでの話はすべて聞こえていたのではないか。横目で里奈が愛美を小突いているのが見えたが、樹は体の芯がゾッと震えてそれどころではなかった。
彼女は三宅美沙、確か女子バスケ部に入っていた子だと樹は記憶している。すらりとした身長にぱきぱき話す快活な性格で、日頃クラスでも目立っていた。
「有馬さん、仲上くんの幼馴染なんだよね? えっと、付き合ったりはしてないの?」
これまで幾度となくされた質問に、樹は冷静に答える。詳しいことは聞かれていないらしい、と少しだけ安心できたからだ。
「登校が一緒だから付き合ってるのってよく聞かれるけど、付き合ってないよ。家が隣だもん、それで行くところが一緒なら道が同じなのも朝出るのが同じ時間なのも、当然でしょ? 」
「おお、樹が滑らかにしゃべっている」
「それだけ答え慣れている、と見た」
「……もー」
「すみませんっ!」
むくれて見せれば里奈と愛美はあわてて平謝りする。一方、美沙のほうは何やら不満げだ。
「ふうん、そうなんだ。さっき聞こえたみたいにさ、実際仲上くん、あんまり女子と話さないし。昨日も見ちゃったんだよね」
「ええと。見たって?」
「有馬さんがB組にわざわざ行ってるトコ」
昨日、さて何があったか。美沙の言う意味がわからず考え込むと、隣で里奈が数学のプリント、とささやいてくる。
「ああ。課題の提出が遅れちゃって」
「そのプリント、仲上くんに渡したでしょ」
「そういえば、そうだった」
提出するプリントがあり隣のクラスへ行けば、ちょうど教室を出るところだった静と会った。だからプリントを渡しておいてほしい、と頼んだだけだったのだが、他人の目から見れば違ったらしい。
「有馬さんに気づいた仲上くんがすぐにそばに寄ってって、どうしたのって声かけたって」
「うん?」
「で、先生がいなくて困っていた有坂さんからプリントを受け取って『いいよ、俺がやっといてあげる』って王子様みたいにほほ笑んだって!」
「う~ん……?」
畳み掛けるように何やら事実から微妙に異なった話を聞かされ、樹は唸ることしかできなかった。しかし里奈と愛美は樹の発する否定の意志をしっかりくみ取ってくれたらしい。
「あれ。やっぱりなんか違うの?」
「二人はラブラブではないの?」
「ちがうよォ」
静は小さいときから整った顔をしていた。おかげで静の一番近くにいる樹は、よく女の子に嫉妬の目を向けられた。
確かに樹は静が好きだが、彼を王子様というにはちょっと違和感があった。
昨日だって、プリントを届ける代わりに飴を要求されたのだ。小腹がすいたときのためにこっそり持ってきていたのになぜバレたのか。
静の外面はいい。親切なのも、落ち着きがあるのも本当だ。だがその反面、静は頑固者で意見を曲げないし、自分のやりたいように動く男だ。朝の連れ立っての登校だって、いくらからかわれようが一切合切無視して続行している。指図されるのが嫌いなのだ。
だがそういったことを説明すれば長くなる。
「静はけっこうクセがあるから。王子様ではないなァ」
「ふうん……」
ここまで言っても美沙は納得しきれないらしい。きれいにそろえた眉毛をひそめ、睨みつけるように樹を見据えている。
それに気圧され、樹はがんばって言葉をつづけた。
「それに、中学生になってからは朝ぐらいしか一緒にいないよ。むこうは部活があるし、わたしは名前だけの美術部だし」
「『シャベ』とかは? スマホ持ってるんでしょ」
鋭い切り返しに加え、ちょうど言われたくない部分を突かれてひるむ。しかし答えないワケにはいかなかった。
「登録はしてるけど、会話にならないよ。めんどうなんだって」
すると美沙は急にぱっと目を見開いた。
「それホント? でもあたし、けっこう仲上くんと『シャベ』やるよ?」
「え」
「保健委員会で一緒なんだよね。それでお互い登録したんだ。スタンプばっかりだけど、ちゃんと『シャベ』ってるよ?」
そういう美沙に、彼女の友だちがきゃあっと歓声をあげる。
「マジ? やるじゃん美紗〜!」
「そんなことないよ! でも、まぁ、それなりに仲いいかな……?」
きゃあきゃあと一気に騒がしさが増す中、樹は情報を整理するので精一杯だった。
静は『シャベ』はめんどうだからやらない、と言ったはずだ。しかし、こうも言っていた。
『樹とはやらない』
つまり、自分以外となら良い、という意味だったのだろうか?
「なんだかご機嫌斜めだな」
今日も快晴、気持ちの良い空の下、学校への道を歩く。普段ならおしゃべりを楽しむはずの穏やかな時間なのだが、樹の口はへの字に曲がったままだった
あんな話を気にする必要はない、と里奈と愛美は慰めてくれたが、それでも心に残るモヤモヤは消えなかった。
それが結果として、子どもっぽい拗ねた態度に出てしまう。
「そんなこと、ないけど」
「さっきまで睨んでたスマホと関係ある?」
「……しらない」
内心ギクリとしながらも平静を装う。ふぅん、と静はそれ以上聞いては来ないが、じっと観察しているような目はそのままだった。
「で、今日は黙ったままなワケ? 昨日何してたか話してくれないの?」
「………友だちと『シャベ』ってた」
「なんの話?」
「どうでもいい話」
そのどうでもいい話、とは静のことだ。
毎朝こうして顔を合わせているというのに、『シャベ』は拒否するなんて!
そんな樹の気持ちは知らない静は、呆れ顔で簡単に言う。
「どうでもいいならしなきゃいいのに」
「静だって、他のヒトとはやるんでしょ……、あっ!」
「ん?」
ついうっかり自分から怒りの原因にふれてしまった。樹は歩調を早めて静を追い越すが、ニヤリと静が笑う気配がはっきり感じ取れた。
「へぇー、そういうコト。誰かに何か吹き込まれたな」
「……知らないっ!」
「あっ」
樹はそのまま走り出して、静を置き去りにした。
これ以上一緒にいたくない。なんだがぐずついた気持ちが余計にひどくなり、何かとんでもないことを言ってしまいそうな気がしたのだ。
幸い今日は木曜日だ。明日は静は部活の朝練のため早めに登校する。そうすれば土日をはさんであと三日は顔を合わせずに済む。
それまでに、どうにか気持ちを整えなくては。
樹はドキドキする胸を抑えながら、教室へ駆け込んだ。驚いた顔をする里奈たちの顔を見てほっとする反面、静は追いかけてこなかったな、と思ってしまう自分がイヤだった。
それから、うだうだ悩んだり、ぐだぐだ転がったり、すいすいスマートフォンをいじったり。
そうするうちにあっという間に三日間は過ぎてしまった。
気持ちの整理はいまだつかない。
そんな月曜日の朝のことだ。
「え?」
家を出る準備をしている最中、スマートフォンがポコッと音が鳴った。それを見て思わず口から出た声に気づかないくらい、樹は驚いた。スマートフォンは『シャベ』でメッセージが届いたことを伝えていたが、その差出人がなんと静だったからだ。
あわててアプリを開けば、静らしい完結な言葉でただ一文。
『風邪ひいたから休む』
「ねえ、仲上くん風邪だって! どうしよう、お見舞い行く?」
「ううん、明日には学校行くから来なくていいって! さっきスマホに『シャベ』きたよ~」
「え、仲上くんのID知ってるの!?」
「うん、よく話すんだ! それにしても風邪か、かわいそう」
美紗がそういう声がどこか自慢げに聞こえてしまうのは、樹の嫉妬心からだろうか。やはり静とは親しく『シャベ』っているらしい。
樹はカバンをちらりとのぞきこみ、なんの反応も示さない自分のスマートフォンを見た。朝の一言以降、なんの連絡も寄越さないのだ。
仮にも心配している幼馴染を差し置いて、別のクラスの女の子には返信するとは!
もはや気持ちの整理どころではない、時間がたてばたつほどモヤモヤは増していく。
そして、放課後、里奈と愛美に相談を重ねた結果。
「……きちゃった」
樹はコンビニで買ったゼリーを片手に、仲上家の門扉の前に立っていた。インターフォンにはまだ指が届かない。その最後の勇気がでてこないのだ。
もちろん静を案じる気持ちはある。だが、それが全てではない。素直に幼馴染を心配してやれない自分の器の小ささにイヤになる。
大きなため息が口から出れば、それを聞きつけたかのように玄関のドアが開いた。
「あら、樹ちゃん!」
「あ、おばさん。こんにちは」
「こんにちは!」
いつも元気な静の母親は、にっこりと静に似た笑顔で樹を迎えてくれた。エプロンをしたまま財布を片手に持っていて、どこかへ出かけるところのようだ。
「もしかしてお見舞いに来てくれたの?」
「えっと……はい」
「ありがとう! ちょっとコンビニまでスポーツドリンク買いに行ってくるから、上がっててもらえる?」
「え、あ、あの。それなら、わたし買ってきますけど……」
「いいのいいの! それよりごめんなさいね、静が呼びつけたりして。でも来てくれて嬉しい、あの子待ってるから早く行ってあげて!」
「……呼びつけた? 待ってる?」
「え? そうよ。樹ちゃんがお見舞いくるって静が言ってたんだけど。あれ、違うの?」
どうにも食い違う話に首をかしげつつも、まあいいわ、とおばさんは樹の背中を押した。
「とにかくどうぞ! あ、風邪移されないように注意してね! はい、紙マスク」
じゃあね、と手を振られてしまえば、もう言い訳も引き返す理由もなくなった。
幼いころから出入りしている勝手知ったる他人の家だ、樹は玄関横の階段をのぼり、まっすぐに静の部屋へ向かった。
「静? 樹だよ、入っていい?」
ノックのあとに返事を待つと、ごほん!と大きな咳の音が一つ返ってきた。それを了承ととらえドアを開ければ、勉強机に本棚、床には学校で配布されたテキストが山積みになっている見慣れた光景があった。しかし、その部屋の主がこうしてベッドで寝込んでいるのは珍しい。
「風邪、大丈夫?」
「……それなりに」
熱があるらしい赤い顔に、枯れた声が痛々しい。ゼリーではなく飲み物を買ってくるべきだったか。樹は申し訳なく思いつつ、レジ袋を持ち上げて見せた。
「お見舞い。ゼリーだよ。あとで食べてね」
「ありがと。……マスク、つけて。うつるから」
「あ、忘れてた」
おばさんからもらったマスクを手に持ったままだったことに気づくが、樹は後ろめたさもあり首を横に振った。
「えっと。すぐ、帰るからいいや。じゃあ、またね。明日もお休みなら、また『シャベ』で……」
「ダメだ。お見舞いに来たんだろ、マスクして、こっち来て、何か話して……」
上半身を起こし、樹へと長い腕を伸ばしたところで静はゴホゴホと盛大に咳をし始めた。
「し、静! ごめんね、いっぱいしゃべったら苦しいよね」
慌てて駆け寄り、涙目になった静を布団へ戻すと、樹は椅子をベッドに寄せてそこに座った。
マスクをつけている間にポコッと聞き慣れた音がポケットから鳴る。スマートフォンが『シャベ』のメッセージを受け取ったのだ。
「あれ?」
差出人は目の前で寝ている本人だ。静はとんとん、と指でスマートフォンをつついて見せる。メッセージは至って簡潔だ。
『かわりに樹がいっぱいしゃべって』
「……普段は絶対やらないくせに」
樹がじっとりと半目になって睨めば、またポコッと着信音。
『口が使えるなら必要ない。今は特別』
「……調子いいなぁ。それなら、なんで返信くれなかったの? 一言くれればよかったのに」
『そうしたらスマホの操作できるくらいには元気なんだなって思って、ここに来ないだろ』
「あー、うん。そうかもね……」
自分にも連絡が来た、と安心してまっすぐ家に帰る自分が想像でき、樹は苦笑いをした。すると今度は静が熱にうるんだ目で樹を睨んできた。目は口ほどに雄弁だ。
『薄情者め!』
「えぇ~、心配したから来たのに」
『まあ、来ると思ってたけど。樹はお人よしだから』
「何それ! だからおばさんにも言ったの? わたしが来るって。……なにも言ってないのに」
『でもやっぱり来ただろ。ところで、昨日は何してたの?』
また自分に都合が悪くなりそうだと話題転換だ。まったく調子がいいと文句もでるが、こういう一面を美沙は知っているのだろうか、とふと思った。
「……ええっとね、なんだか疲れちゃって。テレビ見て、ごろごろしてた」
『体調悪い?』
「ううん。静が休むっていうからびっくりして、それどころじゃなかった。……なんだか今は、変に元気がでてきた」
そうだ、今はなんだか気持ちが軽い。どうしたことだろう。静は寝込んで苦しんでいるというのに、我ながらひどいヤツだ。
『それならいいや。ゆっくりしてってよ』
病人が言うセリフではない、と樹はふふっと笑ってしまう。静はたまに咳をしながらも、そんな樹をじっと眺めていた。
「そういえば、わたしには『シャベ』やらないくせに、うちのクラスの子にメッセージ送ったでしょ」
『断らないと本気でお見舞いに来そうな危ないタイプだからな。釘さしておかないと』
「……わたしはいいの?」
ポロっと出た言葉は、なんだかくすぐったくて甘いような、ふしぎな感じがした。静は樹をじっと見つめて、それからすばやく指を動かしまたメッセージを送ってきた。
『スマホもアプリも便利だから使うけど、樹とはやらない』
「なんで?」
樹とはやらない、とはっきり告げられたにもかかわらず、悲しい気持ちにはならなかった。ただ純粋に、その理由を知りたいと思った。
だが、しかし。
『風邪が治ってからちゃんと口で言う』
「……も~」
スマートフォンを手に肩を落とす樹に、静は声を出さずくつくつと笑う。
『なにかしゃべって』
「なにかって、難しいよ」
樹は苦笑いするが、それもちょっと楽しかった。土曜日に見たテレビドラマ、今日の給食のプリン。樹はねだられるまま、熱のあがってきた静が眠ってしまうまでの二時間ばかりゆっくりと、たどたどしく話を続けたのだった。
結局静の春風邪は三日間続き、樹はその間しっかりとお見舞いに通い続けた。一緒に登校できたのは木曜日になってからだ。
久しぶりの外に、静は気持ちよさそうに伸びをした。
通学路沿いの家々の緑がだんだんと濃さをまし、夏が近づいている気配がする。
夏も、秋も、冬も、そしてまた春がきたとき。こうして静の横で、こうして歩いていられるだろうか。そんな想像をした樹の前髪を、気持ちの良い風が通り抜けてゆらしていく。
静は唐突に言った。
「樹は楽しいだろうけど、俺は『シャベ』が嫌いだ」
「なんで?」
「俺はもごもごしながらがんばって俺に話しかけてくれる樹が好きだから。ただでさえ話すの苦手なのに、『シャベ』なんてやったら次の日話すことなくなっちゃうだろ」
そんなことを思っていたなんて、ちっとも知らなかった。樹がぽかんと見上げれば、切れ長の目をやさしく細めて静は言った。
「普段おしゃべりじゃないのに俺にはおしゃべりな樹が好き。だから『シャベ』はやらない。わかった?」
「……じ、じゃあ、他の子は?」
「他の女の子とだって、スタンプ一つか二つ送るだけで終わらせてた。でも、イヤな思いさせたならごめん。妬いてくれたのちょっとうれしかったけど、それで樹から逃げられたら元も子もないから。この際ハッキリ言うことにした」
「な、なんで今なの?」
「ただの幼馴染じゃ足りないとは前から思ってた。迷っていたけど、三日間欠かさずお見舞いに来てくれて、確信が持てたから」
確信。それはいったい何のことだろう。
そう聞き返す前に、静は樹に問いかける。
「『シャベ』よりも、一緒にいる時間を増やすっていう選択肢もある。樹はどうだろう。やっぱり『シャベ』のがいい?」
「ええと、その」
「うん」
ついに口だけでなく足まで止まってしまった。静も止まって樹の返答を待っている。
いつだってそうだ。
樹がいくらどもっても、口で答えるまでに時間がかかっても、静はいつも樹を見つめ、せかすことなく待ってくれていた。樹が言葉にするのを待ってくれていた。
「わ、わたし、がんばって話す! ……だから、ええと……」
なんとか、続けなくては。そう思うのだが、顔がとにかく熱くて胸はバクバクして、正確に気持ちを伝え
る言葉がでてこない。こんなこと『シャベ』であってもできないだろう。
「好きで、いて、もらえるようにする……」
「俺、もう好きだよ。ずっと前から好きだよ。樹は?」
静は樹の両手をすくいあげるようにして握った。バスケットボールをつかむ手は大きく固い。でもあたたかかった。
最初に静を好きになった、幼稚園の頃を思い出す。
あのとき静はいっしょに言おう、と言ってくれた。
今も静が言ってくれたから、この失い難い関係は崩れないとようやくわかったのだ。
ちゃんと言う。静が好きな自分でいられるように。
樹は静の手を握り返す。
このままでは誰かに見られてしまうかもしれない。あっという間に噂になってしまうだろう。愛美と里奈からも、『シャベ』のメッセージが怒涛のように送られてくるに違いない。
しかし、何を困ることがあるのだろうか。
もう決めたのだ。
ただ、静とのことを伝えるには、たどたどしくともやっぱり自分の口で言うのが一番だろう。
誰に聞かれても、胸を張って答えよう。
その決意を込め、樹は小さな声で、しかしハッキリ伝わるように言った。
「わたしも好き!」