母というもの
ヒメルは、突然降り立った小型航空機に驚いて、降りてきたエルデを見て、さらに目を見開いていた。
「エルデ……? 何してるの、こんなところで」
「それはこっちの台詞だ」
エルデは、半ば呆れたようにため息を吐いた。
「航空機の操縦の練習をしてたんだよ。そうしたら、こんな人気のない場所でお前たち親子を見かけたから降りてきた。ヒメルこそ、こんな遠くまで来て何をしているんだ?」
「何って、ただの散歩よ。たまには遠出をしたくなることだってあるでしょう」
「それにしたって、いくらなんでも足を延ばしすぎじゃないのか。ここから家まで相当距離もあるだろう。だいたい、こんな時間からどうやって帰るつもりだったんだ」
「さあ……。そうね、どうやって帰ろうかしら」
ヒメルはエルデの方を見ることもなく、ただぼうっと眼前に広がる雲海を眺めているだけだった。いつものヒメルとどこか様子が違うと感じたエルデは、衝動的にヒメルの肩を掴んでいた。
「おい。どうしたんだよ、ヒメル」
ノインがふいに泣き出したが、ヒメルはあやそうともせず、ただノインを抱きかかえたまま、それでもエルデと目を合わせようとはしなかった。
その空虚な目にエルデは驚いた。とっさにエルデは彼女からノインを奪い取るようにして抱き上げたが、ヒメルは抗議の声をあげるどころか、何の反応も示さなかった。
エルデは、そんな彼女にひどく不信感を抱いていた。
「本当にどうしたんだ、ヒメル」
「別に、どうもしないわよ……」
「なかなか泣き止まないな。おむつは替えたのか? 最後に授乳をしたのはいつだ?」
エルデがそんな質問をすると、今まで虚ろな目をしていたヒメルが、みるみるうちに表情を歪めて、顔を覆った。
「もう嫌なのよ。お願い、私を解放して」
「ヒメル……?」
「お願い、一人になりたいの」
そうして、ヒメルは堰を切ったように泣き始めた。こんな手の付けられないような状態のヒメルを見たのは初めてで、非常に戸惑った。
エルデはこのとき初めて、彼女がノイローゼ気味になって、心身ともに疲労しているということに気が付いた。かなり追いつめられた顔をしている。
「私は何も悪いことなんてしていない。それなのに、私ばっかり、私ばっかり。私だって、みんなと同じようにもっと自由にしたい。友達と遊んだり、一人で気ままに出かけたりしたい。もう疲れたわ。もうたくさんよ。どうして、私だけがこんな目に遭わなくちゃいけないの?」
「それは……。子どもができるようなことをしたからだろう?」
エルデの辛らつな言葉を聞いて、ヒメルは初めて彼に視線を向けた。
エルデは、ノインの前でこんな風に本音を吐露するヒメルが許せなかった。ヒメルが大変なのは百も承知だ。しかし、子どもの前でだけは、こんな風に子どもを否定するようなことを言ってほしくはなかった。必要があれば、いつだって自分は相談に乗るつもりでいたし、フレーディンに預けている間などに、弱音はいくらでも吐けたはずだ。それなのに、今この場でノインを目の前にして、こんな風に取り乱してほしくはなかった。
「エルデ。あなた、私がだらしない女だと思っているんでしょう?」
「そうは言ってない」
「いいえ。あなたの目は、ときどきそんな風に私を非難することがあるのよ。私が気付いていないとでも思った? この女が大変なのは、結局のところは自業自得だから、仕方ないって。むしろ、大変な思いをして当たり前なんだって。あなたは、いつも私をその目で責めていたのよ」
「そんなことは……」
エルデは、これには一瞬ぎくりとした。
エルデに対してとことん無関心だったはずの母親にも、昔、一度だけ同じことを言われた記憶があった。珍しく母が自分にかけた言葉が、たしかそのような言葉だったのだ。「その目でいつも私を責めている」と。
何も言えなくなってしまったエルデに、ヒメルは続けた。
「私が後先のことなど考えずに、ただ快楽に身を委ねた結果がこの子だって、思っているんでしょう? だから自業自得だって。直接言われなくたってわかるのよ」
「でも……。実際にそうなんじゃないのか。違うのか?」
エルデが苦し紛れに反論すると、ヒメルはとても自嘲気味にほほ笑んだ。
「そうね。何を言ったところで、そういう行為なしには、子どもは絶対に出来ないものね。それでも、そういうことをしたのは……一度だけ。たった一度だけよ。それも、先生に押し切られたら断ることなんてできなかった。あのときの私は、本当にバカだったから。大丈夫だから、何もかもすべて任せなさいって、先生が言った言葉を鵜呑みにした結果が、今の私なのよ」
「先生……?」
「もう嫌よ。何もかも全て、もうどうでもいいの。私は本当は、一年休学する必要なんてなかったのに。今頃みんなと同じように、普通に学生生活を送っていたはずなのに。ただ、普通に暮らしていけるだけで良かったのに。こんなに縛り付けられることもなく、こんな苦労をすることもなく……」
そう話し続けていたヒメルは、急に、ふと冷静な口調になっていた。
「でも、それでも育てていかなくちゃいけないの。この子を。ノインを。だって生きているんだもの。立派な一つの命なんだもの。それなのに、なかったことにできれば良いのにって、いつもそればかり考えてしまう自分が大っ嫌いなの。私だって、こんな自分が大っ嫌いなの。人のせいにしたところで、結局は私の責任でもあるんだもの。私が何も考えていなかった……浅はかだったのがいけないんだもの。あのとき、学校に残らずにさっさと帰っていれば。先生の誘いを断っていれば。責任は私にも十分にあるのよ。だから、余計に苦しいの。どこにも逃げ場がないの。あれほど、『二人で育てよう』って熱心に私に言った先生は、あっけなく亡くなってしまうし、無責任すぎるわ……」
ヒメルはひとしきり泣いたあと、少し落ち着いたのか、エルデの方に向き直り、彼に頭を下げた。
「……ごめんなさい。こんなことを、エルデに言っても仕方ないのに。本当に私、何してるんだろう」
エルデは、涙を拭うヒメルを見ながら、なんて愚かで弱い女なのだろう、と思っていた。しかし、それと同時に、とても憐れでかわいそうだなという気持ちにもなっていた。
思えば、ヒメルは今まで一切の弱音も吐かずに、ノインに辛く当たることもなく、それなりに「良い母親」をやってきていたのではないか。
彼女が大人びていて、何でもそつなくこなしているからつい忘れてしまいそうになるが、ヒメルも、エルデや他のクラスメイトと同じく、まだ十代の学生なのである。それが自分の意思に反して、ある日突然、いつもの日常が奪われてしまうような事態になれば、誰だってパニックになるのは当たり前だ。
ヒメルには、今のようにときどきは自分の気持ちを吐き出す機会が必要なのだろうと、エルデは感じていた。
「ヒメル。俺は、お前に出会えて良かったよ」
「何……? どうしたの、急に」
エルデは少しだけ、ほんの少しだけではあるが、母の気持ちを、たった今初めて理解できたような気がした。お互いに一番身近な存在であったにもかかわらず、誰よりも一番遠くに感じていた母に、多少なりとも近付けたような思いがした。
「俺の母親も、俺が産まれたときからずっと片親で、きっと、ヒメルみたいな境遇だったのかもしれない。一人で誰にも相談できずに、抱え込んでいたのかもしれない」
エルデはそれからふと、ヒメルに「怒らないで聞いてほしいんだけど」と話した。
「俺は、自分の母親についてもずっと疑問に感じていたんだが。……いっそ、産まないという選択肢はなかったのか?」
「それは……」
ヒメルは、それについては少々戸惑う姿勢を見せながらも、落ち着いた様子でぽつぽつと話し始めた。
「本当は、ずいぶん迷ったのよ。でも、先生―――相手の男性にも説得されて……。私自身、自分が受け入れるまでに時間がかかってしまって、結局その答えが出せないまま、今に至っているだけなのかもしれない。……でもね。今となっては、産まない選択肢なんてもう考えられない。だって、ノインはこんなに可愛いんだって知ってしまったんだもの。こんなに可愛い子を、そんな風にとてもじゃないけれど、もう考えられないの」
(なるほど、矛盾してるんだな)
だからこそ、彼女は余計に苦しんで、余計に混乱しているのだろう。
「よくわかったよ。つまらないことを聞いて悪かった。それはともかく……。そろそろ帰らないと、本当に日が暮れるぞ」
「……帰りたくない」
「何だって?」
エルデは己の耳を疑った。
「帰りたく、ないの。家に帰ったら両親がいる。今から帰って、何事もなかったかのように普通に接することなんてできない。いつも通りに笑わなくちゃいけないなんて……」
「でも夜は冷える。俺たちはまだ大丈夫だとしても、ノインが夜の寒さに耐えられるかどうか……」
エルデにそう言われて、ヒメルははっとした。
「……そうね。帰らなくちゃ。ごめんなさい、変なわがままを言ってしまって」
「家まで乗せて行ってやるよ」
そう言って、エルデは練習機に乗り込み、行きと同じようにコックピット内の装置のセットアップ作業を行った。そして、エンジンを起動する―――が、ここでトラブルが起こっていることに気が付いた。発電機が作動していないことを示す警告灯が点灯している。これはどうしたことかと思い、持参した説明書の指示に従って、落ち着いて冷静にトラブルシュートを一つ一つ試みてみた。しかし、何度試しても復旧の兆しは見えない。
「故障……?」
ヒメルが、おそるおそるエルデに尋ねた。
今度は、エルデが泣く番だった。
「嘘だろ。よりによって、こんなところで……」
「落ち着いて、エルデ。ここに降り立つまでは何ともなかったんでしょう? もしかしたら、ここに止めている間、待機エンジンが起動したままだったのかも。待機電力を使い切って、内部のバッテリーが不足しているだけなら、明るくなれば、ソーラーパネルが電力を充填してくれて、また飛べるかもしれないわ」
ヒメルの言い分には、一理あると思った。
とにもかくにも、ここから動くことができないということに変わりはなく、結局、今夜はここで野宿をするしかないということを受け入れるほかなかった。
エルデはがっくりとうな垂れた。自分のミスで、まさかこの草原に二回も野宿する羽目になってしまうとは。しかも、ヒメルやノインを道連れにして。
「あれ? そういえば、そもそもヒメルはどうやってここまで来たんだ?」
「私はここまで航空タクシーで連れてきてもらったのよ。やけになって、とにかく世界の果てまで行きたいと思ったの」
「世界の果てまで……って。まさか、ノインと一緒に無理心中とか考えていたんじゃないだろうな」
「自分一人で浮上できなければ、そうなっていた可能性もゼロではないのかもね」
「おいおい。さらっと怖いことを言うなよ。それじゃあ、一応はここで出会って良かったんだな。俺は無駄足を踏んだわけじゃなかったってことか」
エルデはそう言って、一人で胸を撫で下ろしていた。
ヒメルは彼の様子に、不謹慎とは思いつつも、少しだけ笑ってしまった。
「ここでの野宿は、俺は一回経験しているから、たぶん死ぬようなことはないと思う。でも、いかんせん食糧が手持ちの分だとやや少ない気もしていてだな……」
「食糧なら私も持っているわ。そんなに多くはないけれど。二人で一晩くらいならなんとかなるんじゃないかしら」
「一歩間違えたら死ぬつもりでいたのに、飯は用意しているのか」
「失礼な言い方ね。おっぱいをあげていると、ものすごくのども渇くしおなかもすくのよ」