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飛行訓練

 何かと忙しなく過ごしているうちに、エルデはイーストスフィアに来て、そろそろ一ヶ月を迎えていた。

 高度障害の症状はもうすっかり影をひそめ、ようやくこの大陸での生活にも慣れてきた頃だった。保健室の世話になることは、結局あとにも先にもあの一回のみだった。

 それでも、彼は保健室に頻繁に通い続けることを止めなかった。表向きは、ときどき体調が悪くなるためということにしていたが、本来の目的はノインの世話を手伝うことにあった。

 最初は半ば仕方なくというスタンスで通っていたものの、最近では、保健室に行くことが意外にもエルデの密かな楽しみとなっていた。

 ノインはエルデが抱き上げると、最近よく笑うようになった。不思議なことに、ヒメルやフレーディンがどれだけあやしても泣き止まないときでも、エルデが抱くと落ち着くことが多いのだ。

 ヒメルもフレーディンも、当初はあっけにとられていたが―――何より一番不思議だったのはエルデ自身だったのだが、今では体よくお守り役に使われている始末。しかし、エルデはといえば、どういう風の吹き回しなのか、それが楽しくもあったのだ。

 こんな小さな身体なのに、ノインが自分の意思を懸命に主張する様子を見るのは新鮮だったし、何より自分のことを必要としていると全身で表現されている気がして、素直に嬉しかった。

 思い返せば、今まで生きてきた中で自分が本当に必要とされたことなど、ほとんど無いに等しいのではないかとエルデは振り返った。身近な人間は母しかおらず、その母はといえば、いつもエルデを「いない者」として空気のようにあしらっていた。叱られたり殴られたりということは今までに一度もない。ただ、近くにいるのに、ほとんどその存在を無視されていただけだった。否定も肯定もなく、母からの積極的な関わりは、とにかくほとんど無かったのだ。あの家において、エルデはまったく母から必要とされていない存在だった。

 その反動からなのか、この小さな赤ん坊が自分を必要としてくれることが、これほど嬉しいことなのか、とエルデは最近よく身に染みて感じるようになった。自分自身の急激な心境の変化に少々戸惑いもしたが、最近、自分の心がとても落ち着いて安らかになっているということに気付いて、こういう生活も悪くないのかもしれない、と思った。

 それに少しずつではあるが、日に日に泣き声や表情の変化が増えていく様子は、人間というよりも、むしろ動物的な側面が伺えて、単純に見ていて面白かったし、興味深くもあった。以前はぐらぐらと不安定だったノインの首も、最近では手で支えてやらなくても安定してきたように思う。

 人間は、こうして少しずつ成長の過程をたどっていくのかと考えると、自分に置き換えてみても、妙に感慨深い気がした。

 当の母親のヒメルはといえば、ノインがどんなに泣いても癇癪を起しても、決して感情的になることはなく、いつも穏やかに接していた。その根気強さには、エルデも素直に感心していた。

 エルデは育児に協力しているとはいえ、所詮は自分の片手間のうちでしかなく、ノインに対する責任のようなものは一切背負ってはいない立場にある。あくまでもノインの保護者はヒメルであり、彼女が主体となって育児は展開されているのだ。自宅では、まだまだ片時も離れられない毎日を過ごしていると聞いた。

 もしも自分が同じことをしなければならなくなったとしたら、エルデは、きっといけないと思いつつも、苛立ってしまうのだろうなと自分でも想像できた。ときどき会って接するからこそ、余裕を持って可愛がることができているだけなのかもしれない。

 ヒメルはエルデとそう年も変わらないはずなのに、本当に良くやっているなと、毎日思わない日はなかった。

 そして相変わらず、彼女が自分の過去を話す気配はなかったが、もともとエルデも深入りをするつもりはなかったし、現状で何か困っていることがあるわけでもないので、もうこのままで良いのかもしれないと、今では思うようになっていた。


 そして、とある休日のこと。

 エルデは学校で借りた個人用航空機の練習機で、初めて一人で外出する計画を立てた。

 学校の実技訓練で、小型航空機の基礎的な操縦は、この一月で多少はできるようになっていた。操縦士の資格が得られるのはまだまだ先のことだったが、授業外でも申請さえ出せば、練習機は普段も好きに乗り回して良いとのことだったので、エルデはかなり驚かされたものだった。

 地上では土地面積自体がかなり狭く、人口密度も異様に高かったこともあって、まだ操縦士でもない人間が航空機を乗り回すなど、到底考えられないことだった。しかしここでは、むしろどんどん乗って、身体で覚えろという教育方針なのだ。

 最初はかなり無茶なやり方だと思ったが、自分の責任のもとでなら、ある程度好きにやっても構わないという大雑把で野放しの環境は、自立心の強いエルデのような生徒には、存外好都合だった。ゆくゆくは卒業までに、操縦士と合わせて整備士の資格も取りたいと考えていたので、操縦士の方を早く取ってしまうに越したことはない。

 エルデが借りてきたのは、二人乗り用の小型練習機だった。練習機の中でも一番初心者向けのもので、飛ばしやすいように可能な限り軽い機体となるように作られている。そのため、各パーツは必要最小限にまで小型化されていた。当然ながら屋根もなく、申し訳程度の風よけのウィンドウが付いているだけなので、ゴーグルは必須であった。コックピット内には速度計と高度計が一つに集約されたディスプレイが搭載されており、意外にもハイテク機である。操縦席と左隣の助手席があり、それから左右に翼を携え、エンジンは胴体の左右の両脇に一つずつ付いている。

 機体全体のフォルムは、やや丸みを帯びた野暮ったい見た目ではあるが、飛行において性能は十分であるため、エルデは文句なしにこの機体を気に入っていた。

 助手席兼トランクに荷物を詰め、コックピット内に乗り込み、装置のセットアップ作業を行う。エンジンを始動すると左右の発電機も問題なく作動し、間もなく練習機は動き始め、無事に滑走路を抜けて飛び立つことに成功した。

 どんどん小さくなっていく人や建物・景色を見下ろすのは、とても気持ちの良いものだった。ただでさえイーストスフィアは平地でも風が強かったが、高度を上げることでさらに強風にさらされることになった。しかし、それすらもとても心地の良いものだった。

 こうして大陸を見下ろしてみると、普段ではあまり気付かなかったが、至るところに大きな森がいくつかあることを知った。おそらくは、あの木々はこの大陸を空で支えている浮遊樹なのだろうと推測した。

 大陸の端の部分もここからであれば良く眺めることができた。

 この大陸に来た日のことはよく覚えている。あのときは、周囲の景色に目を配る余裕などはまったくなかった。今こうして改めて見下ろしてみると、イーストスフィアの下―――つまり地上は、とても分厚い雲海に覆われて、全く見える気配がなかった。

 地上から見上げていたときも、いつも天は曇っていて、太陽すらもめったに見ることはできなかったし、まして、このような浮遊大陸などは絶対に地上から眺めることはできなかったので、上からも地上が見られないのは当然のことかと納得した。

 地上ではよく酸性雨も降っていたが、イーストスフィアに来てからというもの、まだ一回も雨に降られたことはない。まったく雨が降らないわけではないそうだが、地上でよく雨を降らせていた乱層雲は、この高度では発生しないとのことだった。とはいえ、この大陸の上にも時折雲は見かけるが、その雲は上層雲といって、湿度が低い雲であるため、雨雲ではないそうだ。ここでは活発な積乱雲が作られた場合にのみ雨は降るため、普段はだいたい晴れているのだという。

 エルデは一通りイーストスフィア上空を探検し、概ね満足したところで、日も暮れてきたためそろそろ帰ろうとした。その矢先に、見知った人物を大陸の端の草原で偶然発見した。ヒメルだった。ちょうど、以前エルデが初めてイーストスフィアにたどり着いた辺りの場所で、彼女はノインを抱きかかえて座っていた。

 本当に、ただの遭遇だった。エルデがその草原を懐かしんで見下ろしていなければ、絶対に見つけてはいなかっただろう。

 こんな時刻にこんな辺鄙な場所に、ぼうっとたたずんでいるだけの彼女を不審に思い、エルデは近くの草原にすぐに離陸した。

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