秘密の共有
幸いにも赤ん坊は、なんとか暴れることもなく、エルデの腕の中にすっぽりと収まってくれている。赤ん坊の顎が、ちょうど肩に乗るような位置で縦に抱いているので、呼吸を首元に感じて少しくすぐったい。
(赤ん坊って、こんなにあったかいものなのか。知らなかった)
もぞもぞとした動きを感じる。きゅっと、制服の布を掴まれているのがわかった。
子育ての経験などもちろん皆無なので、エルデには、この赤ん坊がまったくの未知の存在であることは間違いなかったのだが、それでも、一つだけわかったことがあるような気がした。
(きっと不安なんだ。母親が不安になっているから、余計に……)
なんとなくだが、そう思った。
「あの……エルデ。重いでしょう? 代わるわ」
今までずっと目を合わせない、口すらまともにきいてくれなかったヒメルが、今初めてこの場でエルデに声をかけた。
エルデは少し驚いていた。
「大丈夫だよ。今のところは大人しくしてくれているし。先生も言ってたけど、疲れてるんだろう? 今のうちにちょっと休んでおけば? 困ったら声かけるから」
「でも……」
「俺は子育てのことなんて全然わからないけど。今見た感じだけでも、赤ん坊の世話ってかなり大変そうだもんな。これを毎日しなきゃいけないんだろう? しかも学校と両立しながら。俺ならたぶん、参ってしまいそうだ」
ヒメルに親切にするつもりなどは毛頭なかったのに、自然とこんな労いのような言葉が自分の口から出て、驚いているのはむしろエルデの方だった。実際に現状を目の当たりにして、本当に大変そうだなと思ったので、率直な意見ではあったが。
「ありがとう。まさか、そんな風に言ってもらえるとは思ってなかったわ」
ヒメルは、ぽつぽつと自分の気持ちを話し始めた。
「でも、一人で抱え込んでいるわけじゃないから。両親もかなり協力してくれているし、もちろんフレーディン先生も。日中は、両親は二人とも仕事に出ているから、私が学校に連れてくるしかないの。家は辺鄙なところにあるから知り合いも近くにいないし、この子のことは今のところ誰にもばれていなくて。……あなた以外だけれど。だから余計に、ばれないように、ばれないようにって、ちょっと気負いすぎていたのかもしれない」
先ほどフレーディンから、赤ん坊の父親は亡くなっていると聞いた。つまり、ヒメルはいわゆるシングルマザーということだ。地上では、エルデはあまりそのような母親を見かけたことがなかった。
一人っ子政策の影響もあってか、大抵は、産まれてくる子どもはみんな貴重児で、両親が二人揃っているというのが一般的な家庭だったのだ。唯一、自分の家庭を除いて。
どういう事情で今に至ったのかエルデには知る由もなかったが、現在、ヒメルは学校に子どもを連れてきてまで、必死で面倒を見ている。そして、学校も辞めていないということは、学業も可能な限り育児と両立していこうという意思の表れだ。その姿勢には、素直に尊敬の念を抱いた。
(子どもを手放そうと思えば、何かしらの方法でできたはずだ。それこそ、俺の母親のように)
エルデはふと、そんなことを考えた。
そのとき、ガラッと勢いよくドアが開いて、フレーディンが大量のバスタオルを持って帰ってきた。
「お待たせ~。タオル持ってきたよ。……おや?」
フレーディンは、エルデを凝視する。
「あらまあ、えらく馴染んじゃって。もう寝てるじゃない」
「あ、本当ですね」
エルデ自身も気付かないうちに、ノインは彼の腕の中ですやすやと吐息を立てていた。
フレーディンは、エルデとヒメルを交互に見比べたあと、ノインの頬を軽くつついた。
「やめてください、起きちゃいますよ」
「まさか君、こう見えて実は育児の経験が……?」
「もちろん、ありません。さっきそう言ったじゃないですか」
「でも、抱き方もなんだかそつがない感じ」
フレーディンは、不思議そうにノインの安らかな寝顔を見ていた。
エルデは、ずり落ちてきたノインを起こさないように、できるだけ慎重に元の位置に抱え直してから、ヒメルとフレーディンにこう告げた。
「あの……俺にできることなら、今後協力しても良いですよ」
「え、本当?」
「はい。もちろん口外もしません。安心してください。……ただし、俺からも一つお願いがあります」
エルデは真剣な目で、目の前の二人の女性に言った。
「この子を、これからもきちんと愛情を持って育ててください。それが条件です」
「そんなの、当たり前じゃない」
フレーディンが、きょとんとした顔で言った。
「なら、それで良いです」
エルデは、ちらりとヒメルを見た。彼女は一瞬戸惑ったが、こくりと今度ははっきりとわかるように頷いて見せた。
「エルデ、だっけ。君とは今度ゆっくり話がしたいね。地上から来たというだけでも興味は尽きないけれど、それ以外でも君はなかなか面白そうだ」
フレーディンが、悪戯っぽくエルデの顔を覗き込んだ。
「買いかぶりです。俺はどこにでもいる、平凡でつまらない人間ですよ」