子どもの子ども
目が覚めると、白衣の女性が自分の顔を覗き込んでいた。二十代後半くらいの印象の女性だった。
エルデは、自分はいつの間にかベッドに寝かされていたらしいということに気付いた。
「おはよう、地上人さん。気分はどう?」
「あ、俺……」
「君をベッドに運ぶの大変だったんだから。これからは、どうせ保健室に来たのなら、せめてベッドに潜り込んでから気絶してね」
過剰にエルデを心配する様子もなく、実にさっぱりとした物言いだった。
「あの、どうも、お手数をおかけしました。あなたは先生ですか?」
「養護教諭のフレーディンだよ。体調はどうかな? まだ気分が優れないようであれば、もう少しここで休んでいっても構わないけれど。たぶん、まだここの環境に慣れていなくて、高度障害の症状が一時的に悪化したんだろうね」
「いえ、もう大丈夫だと思います。俺はどれくらい眠っていたんでしょうか?」
「そうだね、一時間くらいかな。起きないようなら、そろそろ起こしてみようかと思っていたところだよ。バイタルサインも正常だったし、倒れたときに頭を強く打ったわけでもないって聞いていたし、あまり心配することはないかも」
「聞いていたって、誰にですか?」
「あ……おっとっと」
フレーディンは、明らかに「まずい」という顔をした。エルデはそれを見逃さなかった。
「俺が倒れたところを見ていた人が、言っていたってことですよね?」
「いや、それは私が見ていたんだよ。君が倒れたのと同時に、保健室に帰ってきたからさ」
「今、『聞いた』って言いませんでした?」
「言ってないよ~?」
「言いましたよ。誤魔化さないでください」
エルデは遠慮なく切り込み始めた。
この養護教諭が焦っている様子からして、明らかにヒメルのことを知っているのだろうと、確信を持ったからだ。
「俺、倒れる直前に、この部屋で赤ん坊を見ました」
「ふ~ん、そうなんだ」
「赤ん坊に授乳している女子生徒も」
「それはまた君、マニアックな夢だね~」
「俺は、気絶したとはいえ、そこまで意識がもうろうとしていたわけじゃありません。それだけははっきりと覚えています。あれは、絶対に夢なんかじゃない」
自信を持って言い切るエルデを、「まあまあ」とフレーディンはたしなめた。
「君が特殊な性癖を持っていることは良ぉ~くわかった。でも、それは自分の頭の中だけに仕舞っておいた方がいいね」
「俺を変態扱いしないでください」
「だって君、夢の内容が内容だし……」
そんな言い合いが続いているところに、再び、微かに赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。やはりそうだ。幻聴でも夢でもない。
明らかに近距離から、おそらくは隣の部屋から、漏れ聞こえてくるのだった。
フレーディンは、「あちゃー」と片手で顔を覆った。
「ほら。いくらなんでも、これは絶対に本物の赤ん坊ですよね?」
「もう、仕方ないな~。降参だよ。―――おーい、ヒメル。入っておいで」
隣室の倉庫部屋からよたよたと出てきたのは、やはり幻でもなんでもない、赤ん坊を抱きかかえたヒメルだった。
エルデと別れたときの落ち着いた雰囲気の彼女とは違って、明らかにバツの悪そうな、どこかふてくされた様子だった。
赤ん坊は、「ふにゃあ……」と少しぐずりながらも、外まで響き渡るような声を発してはいなかった。
フレーディンがヒメルの代わりに赤ん坊を抱きあげ、あやし始めた。
「まだ帰ってなかったんだね、ヒメル。折を見て窓から出て行けって言ったのに。ばれないうちに」
「無茶言わないでください、フレーディン先生。まだ下校していない生徒もたくさん残っている時間帯なのに、この子を連れて、帰れるわけないじゃないですか。だいたい、何で保健室を出ていくときに、鍵をかけてくれなかったんですか?」
「ごめんごめん。つい、うっかりしちゃって」
「そのうっかりのせいで、こっちは今、心底泣きたい気分なんです」
あの大人びた冷静な少女は、もうどこにもいなかった。嘘のように取り乱したヒメルが、フレーディンにひたすら食って掛かっている。エルデのことは、ちらりとも見ようとしない。いや、むしろ気まずいあまりに、見ることができないのか。
「ヒメル、すまなかった。今回は私が全面的に悪かったよ。うっかりじゃ済まないものな。でもね、ヒメル。私は、いつかはこうなるような気がしていたよ。こうなった以上、とりあえずのところ彼には事情を話して、わかってもらうしかないんじゃないのかな。例えば、もしもクラス内でばれそうになったとき、彼がとっさに口裏を合わせてくれれば、ヒメルも助かるんじゃない? 一人くらいはそういう味方がいた方が、むしろやりやすいと思うんだけど」
(おいおい、ちょっと待ってくれ)
エルデはそれを聞いて、この二人が意気投合してしまう前に、早く何か言わなければと思った。
今のところ事情はよく知らないにしろ、率直に言って、面倒事に巻き込まれるのは勘弁してほしかった。
「すみません。あの、ちょっといいですか? さっきかなり追及しておいて、何を今さらと思われるかもしれませんが。俺自身は、別に彼女を糾弾しようとか、秘密をばらしてやろうとか、そんなことは最初から一切思ってはいなくてですね。ただ純粋に、さっきのが夢じゃなかったっていうことが知りたかっただけなんです。なんというか、ここまで彼女を困らせたり動転させてしまうつもりもなかったですし。だから、もちろん今後も口外する気はありません。俺も編入早々、トラブルが起こるのは避けたいので。その辺は安心してください」
エルデは巻き込まれたくない一心で、とにかく自分は敵ではないということを強調することにした。事実、先ほどは好奇心の方が上回っていたが、今は少し罪悪感のようなものも感じている。誰でも人に知られたくない秘密というものはあるものだ。まさか、こんなに大きな他人の秘密を知ってしまうことになるとは、さすがに想定してはいなかったが。
ヒメルとフレーディンは、お互いに顔を見合わせた。
「何だ。結構良い子っぽいじゃない。ヒメル、これは本格的に協力者になってもらうチャンスかもよ?」
(待て待て、そうきたか)
エルデの思惑は見事に外れ、彼の意思はとことん無視されたまま、強引なフレーディンがヒメルを説得するという形で、話がどんどん進んでいった。
「―――というか。そもそもの話、この赤ん坊は本当に彼女の……」
エルデはその質問を、当人のヒメルにではなく、フレーディンに投げかけていた。無意識に、今のヒメルは答えられる状態ではないと察したからだ。
「もちろん。本当は、私の子だって誤魔化そうかなとも考えたんだけれど。授乳しているところを見られちゃあね。もう言い訳はできないでしょう」
たしかに、そのとおりだった。
「その、事実を知っているのは、フレーディン先生と……?」
「君だけだよ。学内の他の教師も生徒も、誰も知らない。学校外で言えば、もちろん彼女の親御さんはご存知だけれど。でも、実際のところそれくらいにしかまだ知られていないんだよね?」
聞かれたヒメルは、微かにだが、わかるくらいには小さく頷いた。
「じゃあ、病気で一年休学していたっていうのも……」
「もちろん、嘘。その間に出産していたなんて、まさか誰も思わないよ」
ヒメルはずっとうつむいていた。校舎内を案内していたときは、あれほど知的で大人びていると感じた彼女が、今では叱られてうな垂れている子どものように見えた。間違いなく赤ん坊の母親のはずなのに、エルデには、今の彼女は完全に子どもにしか見えなかった。
そのとき、フレーディンの腕の中にずっと大人しく収まっていた赤ん坊が、突然また泣き出していた。
「あらら、起きちゃったね~。大変」
「おなかがすいたのかしら」
ヒメルはフレーディンから赤ん坊を受け取ると、ベッドの端に座り、胸元をはだけ始めた。その光景に、エルデは慌てて背を向ける。しばらくすると、赤ん坊の泣き声はおさまり、こくこくと嚥下音が聞こえてきたので、大人しく母乳を飲んでいることがわかって、エルデは何故かほっとした。
保健室の周囲は人通りが少ないとはいえ、もしも泣き声が本格的に外に漏れ聞こえてしまったらと思うと、見ているこちらがはらはらしてしまうのだった。
「彼女は、その、寮暮らしなんですか?」
「まさか。特別に実家から通わせてもらっているよ。病気を理由に、病院通いを頻繁にすることがあるためって言ってる。登下校の送迎も、両親から自家用航空機でしてもらってる。移動中にノインを隠さないと、とてもじゃないけれど、目立って学校になんて来れやしないからね」
「ノイン?」
「赤ん坊の名前だよ。あ、ちなみに男の子ね」
エルデは一瞬だけ、赤ん坊の方に視線を向けようとして、授乳の最中だということを思い出して、また慌てて背を向けた。いろいろなことが非常にやりにくい、と思った。
「事情を知ってからは、日中は、ノインの面倒は私が見ているってわけ。授業の合間の休憩時間でヒメルはここで授乳できるし。休み時間のたびに、保健室に行って内服しないといけない病気だとあらかじめ周囲に言っておけば、頻回の保健室来訪も怪しまれないし、多少授業開始に遅れても、体調が悪かったのだと思われて、何も不自然じゃない」
「なるほど。徹底しているんですね」
「ここの学校の生徒たちは、みんな割と健康優良児そのものだから、そもそも保健室を利用しようという発想があまりないんだよ。たまに珍しい来客があったかと思えば、これだもの」
そう言われて、エルデは少々肩をすくめた。そうは言っても、保健室を生徒が利用して何が悪いというのか。
「日中に面倒を見ると言っても、先生は自分の仕事の方は大丈夫なんですか? いくらあまり生徒が来ないとはいえ、養護教諭といえば、それなりにやることはたくさんあるでしょう」
「ご心配には及びませ~ん。この部屋にこもってデスクワークがほとんどだから、子育てにはかなり融通のきく環境なんだよ。まあ、だからといって、私も別に毎日暇を持て余しているわけじゃないし、それなりに仕事もあるけれど。ノインは、私の友人の子でもあるから」
「友人?」
「父親がね。もう、亡くなってしまったけれど」
フレーディンがそう言いかけたとき、保健室中に赤ん坊―――ノインの泣き声が強烈に響き渡った。
「あらら、どうしたの?」
「わかりません、急に泣き出して……。おっぱいも結構飲んだのに」
ヒメルは少し疲れたような表情を見せた。
「おむつも見たんですが、特に汚れてはいませんでした。おっぱいが足りていないのかもしれません……」
「まさか。君のおっぱいはじゃんじゃか出てるよ。日頃からがんばってるからね。足りないなんてことは、まずないと思うよ」
フレーディンはノインを預かると、乳児用と思われる体重計にそっと乗せた。
「うん。授乳前よりも、体重も良い感じに増えてる。オムツも変えてから授乳したんでしょ? 量自体は十分飲めてると思うよ。ミルクは足さなくても、私は良いと思う」
「でも、寝てくれないと……」
「あんまり足しすぎると、次はなかなか起きなくなるよ。ぐっすり寝すぎておっぱいを吸ってくれなかったら、前みたいにまた詰まらせるんじゃない?」
「それは困ります。あんなに痛い思いをするのは、もう嫌です……」
ヒメルは泣きそうな顔で言った。
「詰まる」とは、母乳が詰まるということだろうか。エルデには全く馴染みのないことなので、いまいち会話の内容が理解できなかった。
「大きめのタオルでしばらくくるんでみようか。落ち着くかもしれないし。ちょっと倉庫から持ってくるから待ってて。あ、君、少しだけこの子を抱っこしといてくれる?」
エルデは、フレーディンに無理やりノインを押し付けられて焦った。
「無理ですよ。俺、抱き方とか接し方とか全然わからないです。赤ん坊になんて、今までほとんど触ったこともないのに」
「大丈夫。こうやって縦に抱いてお尻からしっかり支えてあげれば、身体が密着して安心して、自然と落ち着いてくれるから。あ、首がまだ座ってないから、がくんってならないように気を付けてね。ヒメル、見たところかなり疲れてるみたいだし、ちょっとだけで良いからお願い。よろしくね」
そのように、半ば強引に赤ん坊を押し付けられ、エルデは心底戸惑った。しかも、保健室内に沈みきったヒメルと二人きりで取り残されてしまっているこの状況は、なんとも耐え難いものだった。