取り残された者
地上での大災害が起こってから、約半年の月日が経過していた。―――にもかかわらず、地上はいまだ混乱の真っ只中にあるらしいという知らせが、サウススフィアの伝令便によって、イーストスフィアに届いた。
前回の五十年前の暗黒時代と呼ばれる期間は、約一年ほど続いたという。今回の大災害が、正式に第二の暗黒時代とまだ総称されているわけではないにしろ、地上の世界各地での自然災害は、落ち着く気配をまだまだ見せてはいないらしい。その間にも、死傷者・行方不明者はものすごい勢いで増加し続けており、正確な数がいまだ把握できてはいないものの、噂によると、地上人口の約三分の一にまでついには到達しつつあると聞く。
生き残った者同士の間でも、食糧や土地を奪い合って争いが起きたり、大量の死体をそのまま放置して、そこから疫病が流行ってさらに死者を増やしたり、気候が急激に変化して各地で異常気象が続いたりと、誰もが、このまま何もしなくても、地上は遅かれ早かれ滅びゆくのだろう、と悟っていた。
しかし、浮遊大陸に住まう人間は、地上がそんな状況であるにもかかわらず、危機感を持つことはあまりなく、どこか別次元の話のような感覚でいるのだった。
それもそのはず、浮遊大陸と地上の狭間は厚い雲に覆われて、一切の様子を垣間見ることができないので、ある意味で仕方のないことではあった。誰しも自分たちが当事者になってみないことには、現実味が一切感じられない、虚構じみた話ばかりなのだ。
そして、現在の空人の多くは、地上がどんなところかもよく知らなければ、自分たちの今住んでいる大陸からすら出たこともない者たちばかりなので、余計に閉鎖的な思考にとらわれる傾向にあるのだろう。
しかしながら、四つの浮遊大陸同士においては、今まで以上に結束を固めつつある兆しを見せていた。今までは、それほど盛んではなかった大陸同士の交流が徐々に増えていき、イーストスフィアにおいても、少しずつ、他大陸の文化を取り入れる柔軟性を見出しつつあった。
浮遊大陸同士での結束を固めなければならないのには、理由があった。大災害発生以来、地上から少数ではあるが、難民が少しずつ各大陸を押し寄せ始めていた。この空まで生きてたどり着いただけでも、彼らは大したものではあったが、中には疫病罹患者・保菌者も決して少ないわけではなく、大陸に足を踏み入れる前のリスクスキャニングの時点で、健康面で淘汰され、大陸に入ることすら許されず、再び地上へ送り返すということもかなりあった。
無慈悲な行いではあるものの、浮遊大陸までも地上の道ずれにされる謂れはないという主張において、その決断は下された。
かつて、地上から浮遊大陸への数少ない移動手段であったカプセルも、現在は全てのシステムが停止状態になっている。もはや、地上との繋がりは、ほぼ完全に断ち切られたと言って良かった。
ヒメルは、そのような噂を耳にしては、いつも気が気ではなかった。
彼女は、ノインがさらわれてしまったあの日以来、ずっとふさぎ込んでいた。なんとか地上に行くために、地上への緊急応援要請員に応募もして掛け合ってもみたが、彼女は十八歳にはまだあと数ヶ月の期間が足りなかったため、地上に行く望みは叶わなかった。そして、そうこうしているうちに、応援要請制度自体も間もなく打ち切られ、地上に行く術はもはや完全になくなり、どうすることもできなくなっていた。
自身では航空機も操縦することができないのに、無断で乗り込もうとして、学校からは謹慎処分を受けたりもした。
ヒメルの両親は、そんな彼女を見てとても悲しんだ。「ヒメルが今こうして無事なだけでも、私たちは嬉しい。それなのに、ノインに続いてお前まで失ってしまったら、私たちは一体どうしたら良いのか」と説得され、ヒメルは泣くことしかできなかった。両親の気持ちも、ノインを失った今のヒメルには、十分すぎるほどに理解できたからだ。
しかし、ヒメルの中にある絶望が消えることは決してなく、この半年の間、死んだように無気力に生きていた。自分が生きている心地がまったくない。ただ、死んでいないだけだと、彼女は思った。
ノインがいなくなってからは、母乳を持て余すことにもなり、乳房が張って、ヒメルは痛くてどうしようもなかった。時折自分でも絞ってはいたが、そのたびに、使い道がなくなって捨てるしかない母乳を見ては、涙を流した。そんな日々を過ごすうちに、完全に止まったわけではないが、今では母乳の出もかなり少なくなってしまっていた。
ヒメルは航空タクシーに乗って、以前エルデと野宿をした草原に来ていた。
前に来たときよりも草が方々にいっそう伸びており、月日の流れを実感した。
ふと、涙がこぼれた。あのときは、なんて幸せな時間を過ごしていたのだろうか、と。
草原の端の際の、ぎりぎり行けそうなところまで進んでみることにした。そこからなら、少しでも地上が見えるのかもしれないと思った。しかし相変わらず、この浮遊大陸からでは、地上の世界は一切垣間見ることができなかった。
イーストスフィアから眺めることのできるこの見事な雲海は、いつも心が洗われるように綺麗な景色だとヒメルは思っていたが、逆に考えると、それだけ地上の世界が常に曇っているという証とも言えた。
エルデにも少し聞いたことがったが、地上は常に曇っていて、ときには濃霧やスモッグで視界がほとんど遮られてしまうこともあるし、当たり前のように頻繁に酸性雨が降っていたと彼は話していた気がする。
そんな過酷な環境の中のどこかに、今もエルデとノインは晒されているのかと思うと、本当に気が気ではなかった。あまり考えないようにはしていたが、二人はとうに亡くなっていてもおかしくはない状況だった。たとえ幸運にも生きていたとしても、イーストスフィアに帰ってくる手段も、ほとんど現実的なものは残っていないのでは、と考える。
ヒメルは雲海を眺めながら、ふと思った。雲海とは、雲の海ということだ。海というものを今まで目にしたことは一度もないが、地上には、海と呼ばれる大きな大きな水溜まりがあるのだという。川や湖よりももっと大きく、それこそこの空のように、どこまでも果てしなく続いているらしい。
もしも、ここから足を滑らせて落ちてしまったとしても、下に海が広がっていれば、そこに落ちて自分は地上に行くことができるのではないかと、ぼんやりと空想していた。そして、馬鹿げた考えだと自分でもすぐに思い直した。いくら水の上とはいえ、高度約一万メートルの高さから落下すれば、水面にぶつかったときの衝撃は尋常なものではないはずだ。少し考えればわかることなのに、そんな淡い期待を抱いてしまうほど、ヒメルは今、エルデとノインがいるはずの地上の世界が恋しくて仕方なかった。
涙が強風に煽られて、滴が零れた。せめて、この涙が自分の代わりに地上に届いてくれれば。そして、エルデやノインのことを守ってくれれば。そんな無意味な感傷に浸るだけだった。
(もう、帰ろう。いつまでもこんなところにいたら、またお父さんやお母さんを心配させてしまう。それに、エルデにも怒られてしまうだろうな。お前は全然成長していないなって……)
ヒメルがそう考えて、立ち上がろうとした、そのとき。
足首に何かが触れて、彼女はその場で大きく悲鳴を轟かせた。
「何……?」




