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空と地上

 エルデがイーストスフィアに移住して、約三ヶ月ほどが経過した。航空機の操縦にもようやく慣れてきて、休暇になると彼はたびたび練習機で大陸内を飛び回っていた。時折、ヒメルとノインを連れて空のドライブを楽しむこともあった。

 ノインは日ごとにすくすくと育っており、抱くと以前よりも明らかに体重が増えたということがわかるくらいには、目に見えて成長していた。表情もさらに豊かにくるくると変えるようになり、見ていて飽きることがなかった。背後で誰かが背中を支えていれば、座ることもできるようになり、また、手の届く範囲のものは何でも手に取ってすぐ口に持っていったりもするので、ノインの周囲に置くものには、十分気を付けなければならなくなった。

 手や目で物を把握することがまだ難しい時期なので、口に入れることで、物の味や感触を知り、その物自身の性質を知ろうという赤ん坊の習性なのだと、フレーディンから教わった。

 そろそろ、離乳食を始める時期でもあるとのことで、ヒメルが看護学科の小児学や栄養学の本で熱心に勉強している姿も時折見かけた。彼女が看護学科で学んでいる分野が、育児には大いに役立っているらしく、たまたまだったがこの学科に進んで良かったという風に、嬉しそうに話していた。

 それぞれが毎日を穏やかに、ときに慌ただしく過ごしていた。


 そして、いつものように授業を受けていたある日のこと。

 起きてはならないことが、ついに起きてしまったのだ。

 ほとんどの人々が、半信半疑に思っていたことが、現実として直面することとなった。誰もが「まさか」と思う出来事だった。

 緊急校内放送が入り、授業の真っ最中にも関わらず、全校生徒や教師たちが全員体育館に召集されることになった。

「皆さん、落ち着いて聞いてください」

 そう話し始めた学長自身の声が、マイクを通して震えているのが伝わった。

「地上で、今大変なことが起こっています。世界のありとあらゆる国で、大規模な自然災害が、ほぼ同時期に頻発しました。暴風、豪雨、豪雪、洪水、地震、津波、火山噴火……。まだはっきりとした確実な情報は入ってはいませんが、概算だけでも、すでに地上人口の約五分の一の死傷者、行方不明者を出しているとのことです。今後、二次災害などでその数はまだ増えていく可能性も十分にあります」

 生徒たちは、この話に皆強い衝撃を受けていた。口を覆う者、どんどん顔が青ざめていく者、パニックで泣き出してしまう者、反応は様々だ。

 誰も直接口にはしなかったが、この場にいる者たちは皆同じことを考えていた。「暗黒時代の再来だ」と。

 学長は、生徒たちがパニックを起こさないように、まずは深呼吸をして落ち着くようにと促した。体育館内には、ゆったりとしたオルゴールの音楽がいつの間にか流れていた。きっと誰かの配慮なのだろうが、おかしなほどにこの場の空気にまったくそぐわず、かなり不自然な雰囲気の中で、その曲はただ延々と繰り返されていた。

 学長はそれでも、「君たちが心配する必要は何もありません」と強気に語った。

 この頻発している大規模災害は、あくまで地上だけの出来事であって、四つの浮遊大陸にはほぼ影響はないということだった。地上と浮遊大陸は、あくまでそれぞれが地理的にも立場的にも独立した関係であり、地上に依存している部分といえば、浮遊大陸における人口増加目的の移民制度以外にはほとんど無いに等しい。そのため、地上から何らかの影響を受けることは今後もあまり考えられないとの説明だった。

 そして最後に一言、あたかもそれほど重要なことではないかのように、さらりと学長は付け加えた。

「地上からの緊急応援要請を受けていますが、あくまで任意です。もし希望者がいれば、後で職員室まで来て下さい。ただし、応募資格は十八歳以上の方に限ります」

 不穏な空気が拭えないまま、結局この場は解散となった。本日の授業は全て休講となり、生徒たちは全員帰宅させられることになった。

「暗黒時代の再来の予言は、やっぱり真実だったんだ。未来史で習ったことは、間違いじゃなかった!」

「何が応援要請だよ。今まで俺たちのことを散々やっかい者扱いしてずっと差別してきたくせに。都合が悪くなったら手のひらを返しやがって。地上の奴らのことなんか、知るもんか」

 生徒たちは思い思いの言葉を口にしながら下校していった。彼らの大半が、この事態に驚いてはいるものの、どこか他人事として捉えている風だった。

 その一方で、その場で泣き崩れて動けない者や、パニックを起こしてよくわからない言葉を叫んでいる者もいた。察するに、おそらくはエルデと同じように、元は地上出身の移民者だったりするのだろう。もしかしたら、いつの日か地上に戻ることを夢見ている者もいたのかもしれない。

 エルデはこんなとき、自分は割とストレスに耐性がある方なのだということを思い知る。要するに、衝撃的な出来事を受け入れることに、少なからず慣れているのだ。

 生まれ育った地上が危ない状況にある。自分の見知った人たちが無事かどうかすらもわからない。そのような状況下でも、頭の中はひどく冷静だった。逆に、自分が少し冷たすぎるような気もして、気が動転している生徒たちのように、涙の一つもこぼせるものならと思ったが、まるで出る気配はなかった。

 母のことも、正直あまり気にはならなかった。所詮、これが自分という人間なのだろう。エルデはそう思い、足は自然と保健室を目指していた。何故だか、無性にヒメルとノインに会いたくなった。

 保健室の扉をノックすると、中からヒメルが出てきて、突然「エルデ、助けて!」と腕を掴まれた。

 何事かと思い、エルデは目を白黒させる。

「どうした……?」

「フレーディン先生が変なの! 突然よくわからないことを喋り出して、ノインを連れて行こうとして……」

 ヒメルがこの上なく血相を変えて取り乱しているので、エルデも何やらただ事ではないとようやく気付いていた。

 フレーディンは、いつものようにノインを抱きかかえて立っていた。ただし、表情はぴくりとも動くことはなく、とにかく目が死んだように虚ろだった。

 エルデは彼女のその様子を見て、思わずぞっとする。

「先生、どうしたんですか? とりあえず、ノインをこちらに渡してください」

 エルデがノインを受け取ろうとしても、フレーディンはエルデをひらりとかわし、腕にはノインをしっかりと抱きかかえて離さなかった。

 フレーディンは、長い白衣をものともせず、軽い身のこなしでそのまま保健室の窓から外に飛び出していた。

「あっ……待てっ!」

 背後でヒメルの甲高い悲鳴が聞こえる。

 フレーディンはノインを抱えたまま、驚くほど身軽に走り出していた。

 エルデは慌ててその後を追う。明らかに、いつもと様子の違うフレーディンに得体の知れない畏怖のようなものを感じた。

 エルデは決して運動神経は悪い方ではなかったが、どれだけ息を切らして走っても、女性のフレーディンに追いつくことができないのが不思議でならなかった。しかも、相手は七、八キログラムもある赤ん坊を抱えて逃走しているというのに。

 フレーディンが学内の敷地を走り去る中で、まだ学校に残っていた生徒たちもちらほらとおり、当然彼らにはノインを見られてしまっているだろう。しかし、今はそんなことに構ってなどいられなかった。とにかく、今のフレーディンはどこか普通じゃない。彼女から一刻も早くノインを引き離さなければ、とエルデは全速力で追いかけた。

 嫌な予感がした。そして、その嫌な予感は見事に的中してしまった。

 フレーディンは、学内の航空練習場の広場に駆け込んでいた。そして、とんでもないことに、その場に並んでいた単身用の小型航空機のうちの一機に、ノインと共に乗り込んでいたのだ。

「フレーディン先生!」

 エルデは、必死の思いで大声で彼女を呼び止めた。すると、今までエルデがいくら呼んでも全く反応を示さなかったフレーディンが、ようやくエルデの方に視線をやった。

 そして、彼女は笑った。

「先生、冗談が過ぎます。止めましょう。いくらなんでも、これでは誘拐ですよ」

「君はおかしなことを言うね。この子は私の子でもあるというのに、何を咎められることがあるんだ?」

 何の躊躇いもなく、フレーディンはそう言ってのけた。

 エルデは、己の耳を疑った。

「先生の……子ども? い、一体何を言っているんですか? いい加減にしてください。人を呼びますよ」

「好きにするがいいさ。君が助けを呼びに行っている間に、私はここを飛び立ち、地上に向かうまでだ」

「え……?」

 エルデは、フレーディンが何を言っているのかまったく理解できなかった。今、なんと言ったのか。「地上に向かう」と彼女ははっきりそう言ったのだ。

「やっと……やっと訪れたのだ。待ちわびていた暗黒時代の再来が。これを見逃す手はないよ」

 フレーディンは、半ば興奮状態のような様子で熱っぽく語った。

 そのとき、ヒメルがやっとこの場に追いついた。彼女はかなり息を切らしており、限界まで走り続けたのか、その場にしゃがみ込んでしまった。

「せん、せい……ノインを、返して……」

 ヒメルの言葉は息も絶え絶えにかすれていたが、フレーディンにはしっかりと届いていたようだった。

 フレーディンはふっと笑って、ヒメルを静かな眼差しで見据えた。

「久しぶりだね、ヒメル」

「久し……ぶり?」

「私だよ。わからないのかい? 残念だ。愛する妻に忘れ去られてしまうなんて」

 ヒメルは、その大きな瞳をますます見開いて、唇をわななかせた。顔からは完全に血の気が引いてしまっている。

「そんな、まさか。そんなことって……」

「思い出してくれたかな?」

「アーベント、先生……?」

「もう一度君に会えて嬉しいよ、ヒメル」

 フレーディンは笑った。たしかに、彼女はフレーディンだった。しかし、言動や振る舞いは、いつものフレーディンとはまったく異質なものだった。

「どういうことだ? ヒメル、何か知っているのか?」

「あの人は……フレーディン先生じゃない。フレーディン先生の身体だけど、その中身はまったくの別人。あれは……アーベント先生。私が休学する前まで、未来史を教わっていた先生……」

 エルデは訳が分からずに、ヒメルとフレーディンを交互に見やった。

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