高度一万メートルの世界
母の元を去ることができるのなら、この際どんな劣悪な環境の土地に身を置いても構わないとエルデは思った。
母が無言で差し出してきた書類の文字にひととおり目を通し、署名する。たったこれだけの簡単な作業で、自分の今後の人生が大きく変わるのかと思うと、実に感慨深い。
これでエルデは生まれ育ったエンデスの大地を離れ、晴れてイーストスフィアの民となる。つまり、彼は空の住人の仲間入りを果たすということだった。
イーストスフィアは、地上から約一万メートルの高度にある浮遊大陸だ。人間が無酸素状態で生活することのできる、限界すれすれの高さを常に浮遊していると聞く。しかも、その高度は年々少しずつ上昇しているらしく、エルデにとっては、非常に厳しい環境の土地であることは、まず間違いないだろう。
まったく未知の世界だが、それでも今より悪いということはないだろうと、エルデは根拠のない自信を持っていた。少なくとも、人的環境においては。
エルデがイーストスフィアに移り住むことで、母には彼の移民年金が今後継続的に支給されることになっている。そして、エルデ自身は母の元を去ることによって、長年の苦痛からようやく解放される。お互いに利が得られる選択肢というものは、この親子にとって、なかなかに珍しい。
浮遊大陸に移住するには、十七歳のエルデは比較的年をとりすぎているため、彼のような前例はあまりなく、通常の移住モデルに比べて、かなり特殊な高度適応訓練を受けなければならなかった。それでも慣れないうちは過酷な生活になるとまで、教官にとくとくと釘を刺される始末だった。
通常の移住例では、胎児のうちから移民申請が出され、生後間もなくカプセルに入れられて、空へと運ばれていくものらしい。まったく、この世はろくでもない親であふれていると、説明を聞きながら思ったものだった。
浮遊大陸への移住は、片道切符も同然の、ほぼ確定的な生涯契約がほとんどだ。現在の空人の中にも、一時契約者は今のところ皆無らしい。
それに、大人になって地上に帰ったところで、待っているのは、年金支給を打ち切られて心底不機嫌な親と、常に曇った空に淀んだ空気、荒廃した大地、おまけに酸素酔いで体調を崩す―――ということくらいしかないだろう。
書類の重要事項の欄には、「移民者が環境に適応できずに、重度の高度障害にかかることがあります」という旨の説明も、赤字でかなり強めに書かれていたが、母は素知らぬ顔で全て了承する旨のサインを記していた。
「つまり、俺は死んでも構わないってことか……」
母に何かを期待することは、とっくの昔に諦めた。それでも、母から「自分が死んでも何も厭わない」という意思をこれほどはっきりと示されたことはなかった。エルデにとっては、かろうじて繋ぎとめられていた一本の細い糸すら、断ち切られたという思いがした。
もはや、この地上に何の未練もない。誰も自分を大切に想う人がいないのなら、せめて自分だけは自分のことを慈しんでやろうと思った。
これからは、自分だけのために生きようと。
*
地上からカプセルに乗って、初めてイーストスフィアの大地に足を踏み入れたエルデは、美しい風景に感動する余裕もなく、間もなくして盛大に吐いた。
カプセルの中で、高度に合わせて酸素濃度や気圧調整が自動でなされていたはずだが、意味があったのか、それとも、それをもってしても身体がこの薄い空気と気圧の低さに適応できなかったということなのか。
あらかじめ装備していた酸素マスクにすらも息苦しさを感じて、取り外したくなるのを必死で耐えていた。嘔気がまだ続いているのも、苦痛の原因の一つなのかもしれない。頭痛と耳鳴りもひどく、出だしから踏んだり蹴ったりだと思った。
小型のパルスオキシメーターを人差し指に挟み、自身の脈拍数と酸素飽和度を測定しながら、地上で教わった基準値を上回るまでは、酸素吸入が必要だと判断した。
周囲に人の気配はなく、この場には自分一人しかいないようなので、なんとかこの症状が治まるのを待って、役所に手続きに行かなければ、今晩寝るところもないのが現状だった。
エルデは、半ば倒れこむようにして、足元の草原に寝そべった。背負いこんだ酸素ボンベが邪魔で、身体はずっと横向きでいるしかないが、立っているよりかはずいぶんと楽だ。
もうろうとした意識の中で、皮肉なほどに晴れ渡った青空と、地上の何倍も強い日差しを浴びせかける太陽が、エルデの脳裏に強く焼き付いた。のちのちに、この景色は長きに渡って、彼のイーストスフィアのイメージと強く結びつくことになった。
高度障害の症状は、身体が順応すれば、長くても数日で治まると訓練の際に教わった。それでも重症の場合は、脳浮腫や肺水腫を引き起こして死に至ることもあるという。
(大丈夫だ。今は辛い……けど、これは死ぬような苦しさじゃない。たぶん)
そうエルデは自分に言い聞かせ、苦痛が和らぐのをじっと待った。そして結局は、そのままその草原で一夜を明かすことになった。
昼間は照りつける日差しで暑いくらいだったが、夜は風も強く、とても冷え込んだ。加えて明かりといえば、夜空の月と無数の星々のみで、人工的な照明はこの付近には一切なく、その夜はかなり心細い時間を過ごした。
脅威となる野生の獣などはいないと、事前に知らされていたから良かったものの、もしそれを知らずに野宿することになっていたら、かなり神経をすり減らしていたことだろう。
しかし、孤独な寒空の下でも、防寒具で暖をとれば、幸いにも凍死するほどではなかった。この大陸に大量に植えられている浮遊樹という木々が、光合成により大量の酸素を輩出し、さらには気温を上昇させる働きをする物質も同時に作り出しているのだという話だ。そうでなければ、空人たちは全員とうに凍え死んでいるところだ。
地上から念のために持参した携帯食もあったので、空腹もどうにか凌ぐことができた。
深夜になるころには、「空にはこんなにたくさんの星があったのか」とぼんやり考える余裕もできていた。
朝方になると、酸素マスクなしでも、少し付近を歩き回れるくらいには体調は回復していた。
エルデは無理をしないように、途中頻繁に休憩をはさみながら、慎重にゆっくりと移動することにした。とにかく役所に行って、移民申請の手続きを完了させなければ、自分のこれからの衣食住すらままならないのだ。
エルデはこれから、イーストスフィアの中心部に位置する、全寮制の航空機乗員養成所に入り、成人になるまでの間、そこで勉学や訓練に励む予定となっている。
入学理由は単純で、イーストスフィアには、学校はその一校しかなかったのだ。そして、今後浮遊大陸で暮らしていく上で、ここでの移動手段には欠かせない、航空機の操縦士や整備士などの資格を持っていれば、とりあえずは運搬業や整備の仕事にありつける。加えて地上からの移民であれば、学費・寮費は無条件に免除され、最低限の生活費も成人になるまでは支給される。むしろ、ここで暮らしていくには、それくらいしかもはや将来の選択肢は用意されてはいないのだ。
広大な草原を地図の通りに抜けると、ようやく人の限界集落のような場所にたどり着き、エルデはやっとの思いで役所に駆け込んだ。
建物自体は新しく小綺麗ではあったが、地上に比べれば、役所という施設としてはかなり閑散としている。歴史の浅いイーストスフィアは、住民人口自体がまだ少ないのだ。
「ようこそ、浮遊大陸イーストスフィアへ。移民申請は受理されました。私たちは、若いあなたを歓迎いたします」
窓口担当の女性は、にこやかにそう言った。
それからエルデは、そのまま役所で簡易健康診査を受診し、特に異常なしの診断書を受け取ったのち、施設内で食事を一食提供された。地上でいつも食べていた学食と同じような定食メニューだったが、ここにたどり着くまでにもはや空腹を通り越していたので、今まで食べたことがないくらいに美味い食事だと感じた。
食事を終えたあとに、今日から過ごすことになる養成所の寮まで、航空タクシーの手配があると言われ、自分一人にやけに手厚い待遇なのだなと、エルデは少し不思議に思った。
あとから聞くと、一般の民間人の中年男性が、彼個人の好意でエルデを自称「航空タクシー」に乗せてくれただけだったそうだ。
地上の一般的な自家用車よりも一回り小さい、小回りのききそうな屋根のない個人用航空機は、初めてながら、乗り心地は悪くなかった。
操縦士の男性も、どうやらエルデの通う予定の養成所の卒業生らしかった。エルデも近いうちに、この自由自在に空を飛ぶ航空機を、自分でも操縦できるようになるだろうと言われて、少し養成所に通うことが楽しみになっていた。
男性曰く。「イーストスフィアには住民自体が少ないから、困ったときはお互い様。皆で助け合って生きていくのが、この大陸のルールだ」と、明るく豪快に語った。
なるほど、ようは田舎気質の土地なのだな、とエルデは感謝よりも先に、まずそんなことを真っ先に考えていた。
(助け合うとは、どういうことだろう。相互扶助ということか? 互いの利が一致したときにのみ成り立つ関係なのだから、「利用し合う」の間違いだろう)
空腹と疲労を癒したエルデの頭の中は、ようやくすっきりとしてきたところだった。