41 境界横断
雨に煙る十字路でレオナルドは猟兵のコインを投げた。竜の面が出れば左、〈放蕩息子〉の面が出たら右へ行こうと思った。結果は竜、コインを拾うこともせず、歩き去る。
街は静かで――打ち付ける雨音を除いて――全てが蒼白く揺らめいている。ところどころに、猟兵や、猫の着ぐるみ、謎の肉塊、巨大蟲、恒星兵などが横たわる。何枚もの猟兵のコインもあちこちに散らばっている。恐らく、自分と同じようにどっちの道へ行こうか皆が迷い、この方法で決めたのだろう、とレオナルドは思った。
高速道路の高架下に、かつて見た歪なハートマークが描かれている。誰かへ向けた罵倒もだ。貼り付けられたずっと昔の新聞記事、指名手配、尋ね人のポスターも。猟兵募集の知らせもあった。コインに描かれていたのと同じ男、アル・クックがこちらを指差している。しばしの間道路の下でレオナルドは休むことにした。もっとも、肉体的な疲れというものはかなり前になくなってしまった。食事もしていない。もはや、姿かたちは同じでも、怪異そのもの、人でないものに近づいているのだろう。
これだけ雨が降っているのだから、ミカエルとどこかで会えるかもしれないと思っていたが、いくら都市をさまよっても彼どころか生きている人間にすら会うことはできない。あたかも個人用のウェスタンゼルスに入り込んでしまったかのようだ。
猟兵社は、いや、リンダリア政府はまだ存在しているのか、とレオナルドは考える。
レオナルド・バードが仕事を始めた統一暦一七一五年から、一七一八年にかけて終わらない夏が続き、ウェスタンゼルスに怪異が頻出し、そこから大陸中にこの異形なる晴天が広がった。
一七一九年になるころ、それまで影響を受けていなかった猟兵にまで怪異の被害が出始め、レオナルドの周囲の人間も巻き込まれていった。
ある週末、天空教会の大聖堂が周辺十キロごと空に浮かんだ。続いて、銀輪地区そのものが海になってしまった。巨大な獣がある朝いくつも沸き、その戦いでアベルやデレクは行方が知れなくなった。
サンドラは駅での待ち合わせに来ず、二度と現れなかった。ジョセフとルシアも、なんの前触れもなく消えた――西七番隊のメンバーは皆、〈消失〉に関連した怪異を持っていたのだとレオナルドは遅ればせながら気づいた。仲のよかった友達が音信不通になるようにいなくなり、それに対してなんの感慨もなく、レオナルドは一人怪異を狩り続けた。
そんな中、自宅に手紙が届いた。猟兵社からの文書で、レオナルドの内包する怪異についてだった。最近の研究の結果、彼がまどろむたびにウェスタンゼルス、リンダリア大陸、あるいは世界そのものに怪異が到来しているのだということが分かった。すべてが置き換えられているか、あるいは世界が消失し別世界にレオナルドだけが転移しているのかもしれないということだった。言われてみると確かに眠くなってまどろむと家にいたり、その直前に一緒にいた相手の記憶がおかしくなっていたりした。手紙には、まさか眠るなと言うわけにはいかないので今後どうするかは貴殿の判断に任せますという旨が書かれていた。そう言われてもどうすることもできないのでとりあえず眠った。
そのあと何が起こったのかはあまり明確には覚えていない。長い眠りの間に、人々の騒ぐ声や銃声、聞いたことのない生き物の叫び声などか耳に入った気がする。しかしそれはいつもの都市の光景だし、夢かもしれないので、気にしなかった。
花屋の前に公衆電話があったので、そこらにコインが落ちていないか探す。錆び付いた車にもたれ掛るように、一人の猟兵が倒れていたので近づくと、それはシャーマン隊長だった。
コインは手の中に握られていた。それを投げて、進む道を占うところだったのだろうか。レオナルドはコインを拝借すると、花屋から適当に白い花をいくつか持ってきて、隊長の前に供えた。彼女は死んでいるのか、眠っているのか、あるいはそれがキンバリー・シャーマンという人物を模っただけの置物にすぎないのか、いずれにしても彼女の心臓は動いておらず、目を開けることもなかった。
コインを電話に入れると、番号を押してもいないのにどこかに繋がり、相手がいきなり大欠伸をするのが聞こえた。
「レオ……ド……境界を……越えてしまったのね?」雑音混じりに聞こえた声には聞き覚えがあった。
「〈欠伸〉のヒルダ」
「そう、よく覚えていたわね……良き混濁を味わってる? もっとも既にあなたは……に到達しているから気持ち的には……でしょうけど……」
「ウェスタンゼルスはどうにかなってしまったのかな?」
「それは愚問よ……」ヒルダはまた欠伸をした。「もとよりその場所は怪異の渦の中、巣の中……今回致命的エラーに繋がったのも頷ける……疑念も後悔も無意味と分かるわよね?」
「うん、それはないし別にいいんだけど、これからどこへ行ったらいいのか」
「まどろみの中へ、はどう? さらなる境界を越えて……へ向かうため」
「寝てもずっとこの雨が止まないんだ。最近では眠くなくなってきたし」
「なら今はもう少し、徒歩でさ迷う必要があるかもしれないわ……あなたが寝ている間に……が帝国に到来して周辺の並列的……をほとんど冒したのでしょう。まだ歩く必要が…………」
声は聞こえなくなった。受話器を置いて、レオナルドが振り向くと、景色は一変していた。街ではなく、海上に架かった長大な橋の上にいた。海は荒れていて、相変わらず雨がすべてを蒼白く煙らせている。
振り返ると、遥か向こうに街が見えた。怪異で変異したウェスタンゼルスらしいとレオナルドは推察したが、まったく知らない都市に見えた。空に伸びる建造物はやがて雨靄に隠れ、レオナルドは歩き始めた。
これからいくつ境界を越えなければならないのかと少し憂鬱だったが、疲れはなく、眠くもなかったので、足取りは強かった。
少年は猟兵の外套と雑種刃の短剣をその場に捨てようかとも思った――既に怪異はこれで突き刺せるほど小さくもないし、近くもない。しかし、猟兵をやめても自分が〈まどろみ〉のレオナルドでなくなるわけでもないので――腰に剣をぶら下げ、薄汚れた灰色の制服を雨に濡らしたまま進んだ。
雷鳴が轟くとともに、雨雲の彼方を一匹の竜が飛んでいくのが見えた。今がいつかも、この橋がどこに繋がっているのかも分からないが、気長に晴れるのを待っていようと思いながら、レオナルド・バードは境界の彼方へ去った。




