1話
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夜、コンビニにアイスを買いに行ったら、道端で黄昏たままの幼女を見つけた。
これだけ言うと、何を言っているんだコイツ、と思うだろう。正直俺もそう思う。だが、落ち着いて説明させてくれ。俺自身も混乱しているのだから。
その幼女は白銀の髪を垂らしドレスのようなフリルの付いた白いワンピースを着て、暗がりの中ぽつんと道路わきに置かれた段ボールの中に入っていた。拾ってくださいと書いてある札を首からぶら下げ、中にいる猫を押し退けるようにして。
俺は思わず目の前の光景が夢であるかのように錯覚し目をごしごしと擦り、その不思議な幼女が夢なんかじゃないことを確かめた。
なぜ、こんなところに。俺はそう思わざるを得なかった。見たところまだ小学生低学年ぐらいの背丈で、けしてこんな日もすっかり落ちて真っ暗になった時間にいていいはずがない。普通ならばもう家に帰ってお風呂に入っているかおねむの時間になっているはずだ。しかし、この幼女はここにいる。こんな捨て猫みたいに、いや捨て猫と共に誰かを待っていた。
俺はどこかにいった親を待っているのかと思ってつい足を止めた。足を止めた俺に気付いたらしく、その幼女はくりんとした水晶のように透き通った目で俺のことを見詰めてきた。
「……ふぇ?」
まるで雪の妖精のような幼女はそう呟くと段ボールの中からいそいそと這い出てきて、ひしっと俺の服の裾を掴んだ。俺はしばし呆然としたが、状況を飲み込んで幼女に話しかけた。
「え、えっと何してる?」
「……服、掴んでるの?」
「なんで疑問形なのさ。そもそもなんでそんなことするんだ?」
「……なんとなく?」
そう言いながら服をぎゅっと握りしめたまま話す気配を見せない幼女。下から見上げてくる幼女がなんだか猫みたいに見えてくる。気まぐれでこっちのことなんか気にして無いように見せてるけど、ちょっとこっちが離れようとするとニャーニャー鳴いてうるうるとした瞳で引き止めようとしている感じ。そんな感じがこの幼女からした。いくらなんでも捨て猫みたいになっていたからと言って幼女を猫扱いする俺も俺だ。
「言うに欠いてそれかよ……まぁ、いいや。そもそも君はこんな時間に外を出歩いているんだい? お父さんとかお母さんは?」
「質問多い」
「ごめんなさい」
ただ心配して言っただけなのに、なぜか怒られた。
「それじゃあ、まずなんでこんな時間にここに?」
「……わからない。気付いたらここに」
「そうか……」
記憶喪失か、と一瞬思ったが相手は幼女だ。おそらく今まで寝てて気が付いたらこんなところにいたのだろう。問題はなぜなのかということだ。親が捨てたのか、誤って放置されたか。こんなご時世だからあり合える話だが、そう考えるには早計だろう。
「何か自分に付いて覚えているか? どんな名前だとか、どんなところにいたのか、とか」
「……金剛ヨミ。私の名前。それ以外は何も……」
「そうか……」
思わずしんみりとしてしまった。記憶喪失か。何か辛いことがあって名前だけしか覚えていなかった。だからこそ、俺の服をぎゅっと握りしめたままなのか。
何も覚えていないことの寂しさ、不安。この幼女、いやヨミちゃんは今その感情と戦っているんだ。何とかしてあげたいなぁ。
「ん。名前」
「え、あぁ俺の名前? 悟、真島悟だよ」
「わかった、悟。で、質問終わり?」
「……まぁ、な。特に何か知っているなら教えてほしいけど、覚えていないなら仕方ない」
「じゃ、家連れてって」
「あ、うん……えっ?」
たしかにこの子をここに置いておけない。家に連れて帰るのが最善だとわかっててもなんとなく躊躇してしまう。
何かわからない人を入れることを恐れてる?そうじゃない。
この子を家に連れて帰ることが運命の分岐点だと思うから慎重になっている?そうじゃない。
こんなまだあどけない幼女を家に連れて帰ることに怖気づいている? あぁ、そうだ。おっかなびっくりしているんだよ。
正直、家に女の子を連れ込むってだけでも小心者の俺にはハードルに高いことだし、ましてこんなまだ小さな子をとなると法的に大丈夫だろうかと気になってしまう。でもこんな子を置いておく方がもっと悪い気がする。そう、俺はこの子を保護するんだ。だから大丈夫、大丈夫、危ないこととかしないから、エロ同人みたいなこととかしないから!
そう自分自身に言い聞かされようにしながら、俺は結局目的のアイスを買わずに幼女を連れて帰宅することになったのだった。
この出会いが俺の人生を変えることになることを、この時の俺は知らなかった。
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真島悟。
それが俺の名前だ。なぜ悟を『さとる』を『さとり』だなんて読ませているかというと、親がそう名付けたかったからだそうだ。よくわからない。『悟り』という文字をバラすと『小五ロリ』となるから、と父親が酔った席で語ったことがあったがさすがにそれはないだろう。だけど、もしそうだったらロリコンな父親をぶん殴ってやる。あんな見た目中学生の母親を娶った父親が間違いなくロリコンで外道な野郎だと断じてやる。『YESロリータNOタッチ』の原則はどこいったんだと。
それはさえおき。
俺の両親は共々健在。だけれども、父親の出張に母親まで付いていって、ただいま絶賛一人暮らし。自分でやらなければならないことは多いけど悠々自適できる。いろいろ親の目があるとできないことができるからね。うんうん、大事なことだよ。
平凡。俺を評すにふさわしい言葉。背が高い訳でも、取り立てて高い訳でもない。不細工かと言われれば全力で否定するが、だからといってイケメンかと言われれば恐れ多くてそうだと頷けない。人並みに体を動かせて、人並みに勉強できる。良くも悪くも平凡、それが俺だった。何か突出したものをもっていない代わりに、何か不得意なことはない。なんともつまらない、と17歳にして俺は悟った。将来の夢は、どこか適当な企業に就職すること。内勤の公務員なら、なお良し。こんなご時世だから、荒事になりそうなものはパスだ。
以上が俺のプロフィールだ。正直退屈だっただろう。
さて、と。
そんなつまらない俺が、ヨミを初めて目にした時心の中に去来したものは、憐憫だとか慈愛だとかそんなものではなかった。なにか俺の人生を変えてくれそうな、そんな興味だった。
突然現れた白銀の天使。街灯の明かりに照らされてきらきらと輝く髪を縛ることなしにその美しさを撒き散らし、白磁のような真っ白な肌がその美しさに磨きをかけていた。言葉にならない美しさをヨミは持っていた。
俺はヨミがどこかに行ってしまわないように小さく柔らかな手を、握りつぶしてしまわないように軽く握り、自宅へ夜道を歩いていた。隣にいるその天使の姿は、改めてみるにもかかわらず美しく心を打った。思わずヨミの手を強く握ってしまったくらいだ。
「……痛い」
「あ、ごめん」
そう言われて俺は慌てて手の力を抜いて優しく握り直した。
それにしても、俺はヨミの顔を見詰めながら思いを張り巡らせる。
ヨミはどこから来たんだろうか。ヨミはなぜ記憶喪失になってしまったんだろうか。
知りたいことは多い。やらなければならないことも多い。
今日はもう夜だからとりあえず家に連れて帰るが、明日になったら警察に行って身元確認と迷子申請をして、もしも元の家が見つからなかったら施設に預ける算段を立てなければならない。親を亡くした子供というのは意外にも多く、そう言った子供を引き取ってくれる人が来るまで預かる施設もそういった子供の数に応じて多い。あれの出現によって変わってしまった世界において、親を亡くした子供というのはそう少なくない。そう考えると、このヨミも辛い目に遭って記憶喪失になってしまったんじゃないかと思う。だとすればすでに親はいなく、施設行きが目に見えているだろう。正直俺がヨミを引き取ってあげるにはよっぽどの理由がないと難しい。まだ18歳にもなっていない俺には、ヨミを施設に他なかった。
そんなことを考えながら夜道を歩いていると、ふとくいくいとヨミが俺の手を引っ張って来た。なんだと思いヨミを見れば、その透き通った水晶の瞳は俺のことを見通すかのようにこちらを見ていた。その瞳には憂いの感情が浮かんでいるように見てた。
「ん?」
「……きた。きちゃった」
ヨミが何のことを言っているかわからなかったが、すぐに俺はその意味を知った。
ずがぁん、と何かが崩れ落ちる音を立てて黒い何かが目の前に現れたのだった。黒光りする塔、いや脚。こうして見ると何か嫌悪感を覚える虫じみたフォルム。ちちち、と耳障りな音が聞こえその姿を仰げば、予想通り大型トラックほどの大きさの甲虫もどきがいた。頭にそびえ立つ巨大な角がその存在感を露わにしている。
その甲虫もどきの名は“妖魔”。
悪鬼とは10年前、この世界に突然現れて崩壊と混乱を巻き起こした特殊災害生命体。どこからとなく現れ、破壊を撒き散らす生きた災害。その姿は千差万別で、動物を模したものやら虫を模したもの、あげくに伝承にある妖怪・精霊などの姿をしたものだったりする。10年前初めてその姿が観測された際には、数多くの妖魔が攻め寄せてきて世界は混乱と崩壊の渦に巻き込まれた。軍隊が死力を尽くして、よくやく撃退した頃には世界は半分以下の姿になっていた。後に『百鬼夜行』と呼ばれるその事件から10年経ち、妖魔との幾度とない小競り合いを繰り返しその生態を観測し続け今に至る。妖魔は通常兵器ではその巨体と堅牢な表皮ゆえに効果の効きが良くない。ゾウに豆鉄砲を投げつけている感じだ。
しかし、人類は妖魔を退ける手段を得た。妖魔が出現するとほぼ時を同じくして特別な力を持った人が現れた。彼らはその特別な力を用いて妖魔を次々と蹴散らしていったのだった。現在も時折こうして現れる妖魔を倒すべく、その人たちは『妖魔対策部隊(Yo-ma Measure Unit)』通称『YMU』を組織し、日夜妖魔と戦っているそうだ。俺は実際に見たことはないが父親から散々YMUの話は聞かされたから大体のことは知っている。少なくとも生活圏内でこうして妖魔に遭遇することは今の今までなかったことからYMUが頑張っていることは窺えるだろう。
しかし、なぜ妖魔の侵入してこないはずのこの街に妖魔がいるんだ?
「キシャアアアアアア」
「と、とにかく逃げるぞ」
なんで甲虫があんな気持ち悪い鳴き声しているんだよ、そう思いながら俺は道を引き返すようにしてヨミを連れてひたすら逃げる。まっすぐ逃げるのではなく道を曲がり、出来る限り遠くへ。途中ヨミが付いていけなくなったのでヨミの小さな体を抱き寄せて抱えながら走った。きっとYMUが駆けつけてくれるに違いない、そう願いながら。
しかし現実は非情だった。
息を切らしながら、ある程度逃げれたとふり返ってみれば、甲虫妖魔が辺りの建物をなぎ倒しながらそこにいたのだから。角を振り上げ勝ち誇るかのように、今にも振り下ろしてこちらの命を刈り取ることができる体勢をしていた。
あぁ、終わった……
「悟」
「……どうしたんだ、ヨミちゃん。ごめん、俺が不甲斐無いばかりに、君を危険に晒して。君はなんとか逃げて、それだけの時間は稼げたらいいなぁ」
「ん、諦めないで」
「諦めないで、ってこの状況をどう見たら諦めないでいられるんだか……」
「わたしの手」
「え?」
「はやく握る。そしたら強く念じる。自分の思い描く未来を」
「思い描く未来だなんてなんかかっこいい言葉だね。どうせ、殺される運命ならなんだってするよ」
そう言って俺はヨミの手を改めて握った。はぐれないように握っていた時は緊張で、さっきの逃避行中は無我夢中だったからあまりわからなかったが、ヨミの手ってあったかいんだな。子供特有なんだろうか、このふにふにぽかぽかな手は。握っているだけで絶体絶命な状況だというのに癒される。癒されるのと同時にパニックに陥っていた頭の中がすっきりとしていく感じがする。冥途の土産になんというご褒美、いやそんなことはどうでもいい。たしかヨミは自分の思い描く未来を念じろって言っていたな。自分の思い描く未来ねぇ……
未来未来未来……
こんなところで死んでたまるか!
俺は、俺は!
このかわいい幼女をもっと愛でたいんだぁ……‼
もっともっとこの世界にいる幼女(ただし母親は除く)と触れ合いたいんじゃぁ……‼
いつか父親のようなロリコンと罵られても平然と幼女と結婚するような男になりたいんだ……‼
突如として俺は光に包まれた。俺の真摯な(邪悪な)願いを頭の中で埋め尽くしている中、そんな状況になっていることに気付くのに時間がかかった。気付いた時には光で前が見えなくなり、いつの間にか握っていたはずのヨミの手の感触が消え失せていた。
「な、なんだ!?」
『突然でごめんなさい。こうする他なかった』
そんな俺の戸惑いの声に答えるかのように、頭の中から言葉が返って来た。
「え、その声は……」
『ん、わたしはヨミ。今、悟の中にいる』
「中に……えぇ? つまりどういうこと?」
『詳しい説明は省く。簡単に言うと、悟とわたし合体→強くなった→妖魔倒せる→いえーい』
「わかりやすい説明をありがとう。で、俺はどうやって……ってあれ、いつの間に俺の右手に剣が」
『剣じゃないの。それは刀』
見れば俺の右手には一振りの刀が握れられていた。俺には刀の良し悪しはわからないが、透き通るように白く輝く刀身は目を惹くものがあった。これは良い刀に違いない。そう思わせる何かがそこにあった。
「おぉ、刀なのか。たしかに言われてみればそうだよな。つまりこれであれを切ればいいんだな」
『ん、多少の怪我ならわたしの武装が防ぐからとにかく切ればいい』
「アーマー? 特に何か俺着てないんだけど」
『そんなはずは……! あれ、こんなものだったっけ? 思い出せない。むむむ』
「……と、とにかくあれを倒すよ。それからでいいよな」
俺は半ば目の前の非現実的な現象が舞い降りたことを考えないようにして、目の前の障害を排除するべく動いた。
俺は甲虫もどきの妖魔に近づこうとして気付いた。体が軽い。一歩一歩が大きく踏み出せる。体を動かすのがあまり得意でない俺なのに、まるで一流の兵士のような動きができるなんて。これがヨミの力だというのか。それがなんであるかわからないが、俺は素直に感謝しておいた。命の危険から少しでも抜け出せる手段を与えてくれたことに。
それまでの動きと違うことに気付いたのか、甲虫妖魔は丸太よりも太く、針の如く鋭い角をまっすぐ振り下ろした。その一撃は地面を抉り地響きを立てる。しかし、俺はすでにそこにはいなく、右に転がっている。ステップでは間に合わないと感じた俺は転がって回避するという手段を選んだ。転がった俺は強く足を蹴って体勢を立て直し、刀を構えて妖魔へ突進する。刀の使い方は碌に知らなかったが、今はこの刀自身が教えてくれる気がする。どう振るえば肉を切り裂けるのかわかるのだ。これは面白い、命が掛かっているというのについ今までの感覚と違うことに夢中になってしまう。
「らぁああああっ!」
俺の右手にある刀が煌めき、甲虫妖魔の横を通り抜けると同時に目の前の右前脚を真一文字に切り裂く。真横に切ったせいかすぐに切り口が開くことはなく、甲虫妖魔は動こうとして初めて俺に斬られたと理解したようだ。動こうとして動かない脚、無理に動かそうとして形がずれ、自重に耐えかねて甲虫妖魔は斬れた脚を地面について体を傾かせた。斬られた脚はごろんと地面に転がり、切り口から黒い靄が血のように吹き出し空気に消えていく。まるで何か妖魔の体にあったものが役目を終えて世界に消えていくような感じがした。
「ッ、シャキャアアアアア!」
「お、っと」
悲鳴を上げながらそれでも別の脚でなんとか立て直す甲虫妖魔。その姿に俺は思わず呆けて体を止めてしまったことを後悔し、刀を構える。ちゃきり、と金属音を奏でて刀はその存在感を示す。これがあればこの妖魔を倒せる、そう思わせるほどに。
刀を胸の高さまで持ち上げ視線の先にいる甲虫妖魔に刃を向ける。動いたら斬るぞ、という意思を込めて俺は相手の出方を窺う。先ほどまではまさか俺が反撃に出ると思わず油断していた甲虫妖魔だったが、あの不快な模様の赤目の点滅は俺を脅威と判断したように思える。現に俺は甲虫妖魔の右前脚を切り落とした。残り5本の脚で体を支えられるようだが、それでも甲虫妖魔の力を削ぎ落したことには変わらない。ぎちぎちと歯ぎしりのような音を立て、甲虫妖魔は油断ならぬ様子で俺の出方を見据えている。天にそびえ立つ角は相変わらず当たればタダで済まない威風を漂わせ、背中に生えている甲殻に包まれた羽はばさばさと羽ばたかせこちらを威圧している。
さぁ、どう出る? 実戦経験なんてないに等しい俺に刀が、いやヨミが全力でサポートしてくれているのがわかる。敵を斬り付ける力はもちろんのこと、知識や経験というものも俺の助けになっている。俺が敵の機動力を奪うべく左脚を斬り付けに行こうとすれば、すぐに敵は角で俺を突いてくるだろう。それを躱すには大きく後ろに下がるほかない。上に上がるのは論外として、横に転がるのはあまりいいと思えない。先ほどの様子からあの角は突き出したまま横に振れるようだ。それじゃあ、面倒な角を切りに行くか? この刀、どんな素材でできているのかわからない代物であるが、いくら甲虫妖魔の脚を一刀両断できるものであれ、さすがに塔のように太い角を切り落とすのは無理である。どれだけ力を込めなければならないというのか。切り落とす前に角で突かれてデッドエンドだ。ヨミが武装がどうのこうのとか言っていたが、正直あの角で突かれたらひとたまりないんじゃないかと思う。良くて穴が開く、悪くて木端微塵。となると……
「ギィ、キギシュアアアアア!」
「来た!」
先に痺れを切らしたのは甲虫妖魔の方だった。不安体な体をどういう訳か先ほどと変わらぬ俊敏な動きで、掲げていた角を振り下ろすようにしてこちらに突進してきた。俺は正眼に構えていた刀を軽く引き寄せながら地面を蹴り飛ばした。ぐんと加速する体を操って、俺は甲虫妖魔と交差する。引き寄せた刀の刃を向って左側にいる甲虫妖魔の方に向け、振り下ろされる角を掻い潜る。その先にあるもぞもぞと動く触角目掛けて刃を当て、そのまま切り捨て勢いを殺さぬままに甲虫妖魔の左後脚へ刀を突き立てた。ぶしゅっと耳障りな音を立てて刃は甲虫妖魔の脚を切断し、黒い瘴気とでも呼びそうな靄を吐き出させた。
行ける、このまま攻撃していけばいつかはこの甲虫妖魔を倒せる。そう思っていた俺を嘲笑うかのように甲虫妖魔は蠢いた。斬り落とされたはずの右前脚と左後脚がもぞもぞと蠢きめきめきと再生していく。甲虫妖魔の体が黒い靄に包まれ、より吐き気のする存在感を示す。思わず俺が気圧されて一歩引いてしまうほどに。
俺は刀を構えながら様子の変わった甲虫妖魔を窺う。視線の先にいる甲虫妖魔がどのように出てくるのか、それを見極めないといけない。緊張のあまり目が乾く。ぱちりぱちり瞬きをして目の渇きを宥める。それでも甲虫妖魔の挙動を見逃さないように気を払いながら隙を伺った。
油断はしていなかった。それどころか今までにないほど集中して挙動を観察していた。動いたらすぐに行動できるようにと。それだというのに、甲虫妖魔の動きを追うことはできなかった。甲虫妖魔の姿がぶれ、地面が抉れる音が聞こえた時にはすでに甲虫妖魔は俺の鼻先まで接近しており、その自慢の角で俺の体を突き刺していた。
「がっ、はぁっ!」
目の前が真っ赤に染まる。痛い。痛いという言葉じゃ足りない、死にそう。今までに何度か壮絶に尽くしがたい痛みを味わってきたが、今のは人生最大級だ。もう今後の人生においてこれほどまでの痛い思いを味わうことはないかもしれない。もっともここで俺の人生はデッドエンドを迎えるだろうが。自分の体を見ることは叶わないが、きっと酷い惨状になっていることだろう。
俺は我武者羅に体を動かし、甲虫妖魔に刀を叩き付ける。しかし先ほどと違い、甲殻に阻まれて攻撃が通らない。俺は一旦引いて、心を落ち着ける。
「キシェエエエエ!!」
「……ぐぅ、っぁ」
痰が絡む。口から血が飛び出す。目の前が霞んで見える。手の感覚が曖昧で刀が手にあるのかあやふやになっている。あぁ、俺はここで死ぬのか。でも、できるところまでやりたい。
「せいぃ!」
今度は我武者羅ではなくちゃんと力が伝導するように左袈裟がけにずっぱりと刀を振り下ろす。しかし結果はそう変わらなかった。斬れるはずの脚が切り傷を残すばかりで切り落とすことは叶わなかった。
そうこうしている内に甲虫妖魔はまるで獲物を甚振るように、角を横薙ぎにして俺の体を吹き飛ばす。意識が飛ぶ。意識が朦朧とする。そろそろやばいかもしれない。地面に横たわるばかりで、体がまったく動こうとしない。死んでいないというのが嘘みたいだ。
『悟! ねぇ、悟!!』
「……ぁ、なっんだ?」
『よかった、生きててくれて』
「かっ、口がべとつく。生きてるって言ったって、半死半生だけどな」
『それでも、生きてるだけで嬉しい……死んじゃったかと思った』
「縁起でもないこと言うな、それと無表情系キャラが崩れているぞ」
『悟、わたしを信じてほしいの』
「信じる、ね」
『会ったばかりでこんなこと頼むのは筋違いだと思うけど……お願い』
「そんなの余裕さ。ヨミちゃんを信じるっていうんならもう信じているさ。妖魔と対面してここまで生きていられるのもヨミちゃんのおかげだろうし、なんとかしてくれるんだろ? それと、こんなにかわいい幼女を信じられない奴はいねぇよ。俺は何があってもヨミちゃんを信じる」
『悟……ありがとう』
刀に宿るヨミちゃんがとくんと震える。顔を見ることはできないけど、きっと申し訳なさそうな顔を浮かべてんだろうな。柄でもない。幼女はただ、笑っていればいいんだよ。肝心の俺は地面に伏しているけど。
『悟、わたしの言葉に続いて!』
「おう!」
ヨミが何かしようっていうんなら、俺はそれに続いて支えるだけだ。
『我、金剛鉱石と契りを結ぶ。いかなる時もいかなる場所でも互いの力の限りを尽くすことを誓う。ここに刻め、契約の証を顕現せよ『黄泉』!』
「我、金剛鉱石と契りを結ぶ。いかなる時もいかなる場所でも互いの力の限りを尽くすことを誓う。ここに刻め、契約の証を顕現せよ『黄泉』、とおおっ!!」
俺がそう告げると、突如として目の前が真っ白に輝き視界が埋め尽くされる。光の帯は俺自身の体を包み込み、満身創痍だった俺の体が徐々に力を取り戻していく。近づこうとしていた甲虫妖魔は何かに怯えるように足を止めていた。俺は右手の刀を握り締める。刀身は神々しいほどに純白に輝き、力が溢れてくる。この刀の銘は『黄泉』。図らずともヨミの名前と同じだ。
『これが本当の姿。悟、倒そ、妖魔を』
「あぁ、もちろんだ」
ヨミと一緒ならなんだってできる。そんなことを思いながら、俺は『黄泉』を腰元にくくりつけてあった鞘に納刀する。誰しもが憧れる抜刀術。その技術に達するまでどれほどの修行が必要かわからないが、今の俺ならこの刀が教えてくれる。『黄泉』が、ヨミが映し出してくれるイメージのままに体を動かす。先ほどまで満身創痍だった体が思ったように動いてくれる。激昂して硬く素早くなった甲虫妖魔でも、この一撃で葬り去る。
『「抜刀術『瞬閃』!」!』
ヨミと俺の言葉が重なる。ただ目の前の甲虫妖魔を斬ることだけ考えて。
どどん、と地響きが立った俺はそこでようやく甲虫妖魔を倒したことを理解した。いつの間にか手にあった刀『黄泉』は姿を消し、代わりにヨミが様子を窺うように立っていた。
「あの、悟」
「なんだ?」
「迷惑かけてごめんさない。あの妖魔はわたしを追い掛けてきた」
「そうだったのか。たしかにこんな街中に妖魔が現れるだなんて滅多にないことだからな。そう言う考えもできるのか……」
「危うく悟を、死なせてしまうところだった、うぅごべんな“ざい」
「泣くな、泣くなって。結果的に倒せたんだから、いいじゃないか。俺はヨミのせいだとは思ってないぞ。きっと別の要因があったに違いない。な、な!? だから泣き止めって」
「わ“だじは、わ”だぢは、もう悟さんの隣にいられないよ“おおおお」
「そんなことないって。俺と一緒にいていいから、な。助けられたようなものだからな、俺の命は」
「悟……」
「とりあえず、家に帰ろう。下手にめんどくさいことにならない内に、な。どうせ、妖魔のことはYMUが勝手にやってくれるだろうし」
「うん」
その時のヨミの笑顔を俺はきっと忘れることはないだろう。思わず見惚れてヨミに突かれて正気に戻ったくらいだ。
その後俺とヨミは無事に家路に着いた。これ以上何かあったら卒倒してしまいそうだ。