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猫と私

作者: 大西カズ

 私は猫が嫌いだ。子供の頃からずっとそうだった。夫に先立たれ、息子も立派に一人立ちして、この大きな家に一人きりで過ごすようになってからもそれは変わらない。

「家に一人でいるというのも寂しいでしょう? 何か動物でも飼ったらどうですか?」

そう息子の嫁に言われたことがあったが頑なに否定し続けた。犬は嫌いではないが散歩に連れて行けるほどの体力は残っていないし、小動物系は最初から飼う気にはなれなかった。2,3年で死んでしまうらしいからまた先立たれるのが嫌だったからだ。なら猫はどうかと言われたがそれこそお断りだった。

 私はどうしてここまで猫が嫌いなのかというとこれと言って思い当たるところもなかった。もしかしたら小さな頃に猫に引掻かれたとかそんなのかもしれない。人が何かに負の感情を向けるきっかけなんて本当に些細なものだ。

 私がこの家に一人で住むようになって1年が過ぎた。夫が死んでからしばらくの間は毎日涙を流していた。気がつけば涙が流れているのだ。あれには驚いた。涙腺が壊れるというのはああいうことをいうのだと思った。涙もここの所まったく出ない。時間というのは私の体を蝕むと同時に心の傷は修復するという難しいことを平然とやってのけたようだ。いや、悲しみを感じる部分を蝕んでしまったのか。そちらの方が幾分納得出来る。

 私の夫は頑固者だった。亭主関白を絵に描いたような男だった。育った家の影響が大きいのだと思う。逆に私の家は母の方が断然強かった。だから私も結婚したら夫の手綱をしっかりと握らなければと思っていた。そんな私達が衝突するのは当然だろう。

 結婚して間もない頃のことだ。アイツは真顔で私にこんなことを言った。

「いいか、俺がカラスが白だといえばカラスは白。俺が天動説を唱えれば天動説だ。分かったか?」

分かるわけが無かった。私は真っ向から反発した。これが始めての大喧嘩だった。あまりの騒ぎにご近所さんが慌てて飛び込んできて仲裁に入ってもらいどうにかその場は収まった。

 それからも何度も衝突は続いた。さすがに最初の事を反省して騒ぎ立てるようなことはしなかった。もう数えるのも億劫になるほどの何回目かの喧嘩の時だった。アイツは肩で息をしながら私に言った。

「俺は猫になりたい。何故かって? そうすればお前は俺に構うこともなくなるだろう。お前は猫が嫌いだそうだから。お前が構わなくなれば俺の心からお前が消えてくれるかもしれない。何度心の中から追い出そうとしても、戻ってきてはちらつくお前の笑顔が目障りなんだ」

その言葉を聞いて私の目から涙が零れた。どうしようもなく泣けてきてしまった。愛の言葉に取れなくも無いセリフだったが、頭に血が上った私には負の部分にしか思考が回らなかった。喧嘩の最中に泣いたことなど後にも先にもこれだけでよく印象に残っている。その涙を見たときのアイツの顔も。私は当時の様子を思い出してくすりと笑った。あの人が私の前でうろたえたのも後にも先にもそれきりだった。

 長い時が流れた。私達の顔にも深い皺が刻まれた。若い頃のように派手に喧嘩する体力も気力もなくなっていた。まあ小さな言い争いはなくなることはなかったが。

 立派に勤め上げて定年を迎えたあの人はよく縁側で昼寝をするようになった。日向で気持ち良さそうに腹をかく姿はまるで猫のようだった。私はため息をつきながらそれでも腹が冷えないようにと何かかけてやっていた。

 ある日あの人が縁側で寝転がっているところに猫がやってきた。鈴も何もつけていなかったので野良猫だったのだと思う。灰色で無愛想な猫だった。どことなくあの人に似ていた。私が追い払おうとするとあの人が止めた。猫が嫌いだと言っているのに。その時はあきらめたがそれからふらりと現れるようになった。あの人がいない時は追い払っていたのだが、少しするとまた懲りずに来るのであきらめた。その猫はどういうわけかあの人によくなついた。

「お前に嫌われているもの同士、気があうんじゃなかろうか」

アイツは猫を撫でながらそんな冗談を言った。

 あの人と猫は縁側でよく一緒に昼寝をしていた。妻の私でさえそんな事したことないのに。猫への嫉妬なんて恥ずかしい限りだ。あの頃はまだ若かった。

 しかしその猫もそれから5年後に死んでしまった。庭に倒れているのををあの人が見つけた。

「半身を失ってしまったみたいだ。たった5年しか一緒にいれなかったがコイツは俺の親友だ」

冷たくなった体を撫でながらそう呟いた。猫は庭の隅に埋められた。昼寝するときにいつも枕代わりにしていた座布団の綿も一緒に埋めた。

「あっちでも一緒に昼寝する相手がいないとアイツも寂しいだろ」

変なところで女々しいとからかったが、あの人は寂しそうに笑っただけだった。猫を埋めた場所には今は一本の木が生えている。妙にひねくれたその枝枝がなんだかあの無愛想な猫のようだと、生前あの人はその枝を見て笑った。

 それからまた長い月日が流れた。猫が死んでから10年ほど経ったとき、あの人が病で倒れた。その時は手術で一命を取り留めたが、次の発作がきたら手術は難しいと医者に言われた。もう体力が持たないだろうと。その言葉を言われた時のあの人の顔は穏やかだった。病院を出て帰りのバスに揺られている時にあの人はこんな事を言った。

「俺はもう随分と生きた。遣り残したことももうほとんどない。いつ迎えが来たって構わない。まあ一つ心残りがあるとすればお前を残してしまうくらいか」

どうにか涙を堪えた。そうだ、妻を残して先に死ぬとは何事だ。私は上を向きながら言った。声は震えていたように思う。

「悪いなほんと」

薄くなった頭をペチペチと叩きながらあの人はそう言った。

 それから6年後の事だった。恐れていた発作が起きた。病院に担ぎ込まれたが、やはり体力が持たなかったようで手術の最中に亡くなった。それが去年の今頃の出来事だ。

 それからは特にこれといった出来事がなかった。が、今朝のことだ。洗濯物を干そうと縁側に出てみると庭に猫がいるのが目に入った。灰色の薄汚れた猫だった。首輪はついていない。私は箒を手に取って追い払おうとしたがまったく庭から出て行く気配が無い。私は諦めて洗濯物を干す作業に戻った。

 それから毎日のように猫はやってきた。最初は追い払おうと頑張ったがまったく出て行く気配がないので諦めてしまった。今では図々しくも縁側に陣取って日向ぼっこを始める始末だ。

 その姿があの人と重なるようになったのは最近の事だ。ふてぶてしい態度といい、汚れ具合といいそっくりだった。そう考えるとこの猫が妙に身近に思えてきた。あれほど嫌いだ嫌いだと思っていた猫が、こんなことで嫌いじゃなくなるなんて思ってもみなかった。人が何かに負の感情を向けるきっかけは些細なものなんだろうが逆もそうなのかもしれない。

「よかったわね、思い通り猫になれて」

縁側に寝転ぶ猫に声をかけると可愛らしい泣き声で返事をした。

 息子一家が遊びに来てくれた。孫も大きくなったようだ。おばあちゃんおばあちゃんと甘えてくる姿が可愛らしい。

「あれ、猫?」

息子が縁側にいる猫を見つけたらしく驚きの声を上げた。

「母さん猫大嫌いじゃなかったっけ? どうしたんだよいきなり」

「さあねぇ。なんだかどうでもよくなっちゃってね」

私も縁側の方に行ってみる。猫はいつものように丸くなって日向ぼっこしていた。

「おばあちゃんオセロやろオセロ!」

孫が家から持ってきたらしいオセロを頭上に掲げながら走ってきた。了解して縁側に座り込む。盤上に並べられた四つの石を眺める。その様子を息子夫婦が覗いている。猫は依然として日向ぼっこに夢中だ。

「好きも嫌いも結局執着。まったく違うものに見えたって本当は凄く近いところにあるんだ。そんなの簡単にひっくり返る。このゲームみたいにね」

私は石を置いて黒い石を白に変えた。また少ししたら今の石もまた黒に戻るだろう。結局はそれの繰り返しなのだ。またふと黒に戻るかもしれないが、またいつの日かひっくり返る日も来るだろう。またひっくり返らないうちに私の座布団の綿も木の下に埋めておこう。あの人と二人きりでの昼寝というのは適わなかったが、二人と1匹でする昼寝というのも案外楽しいかもしれない。




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