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白い記憶

作者: 高遠響

 冷たい硝子窓の向こうに広がる空は、どんよりと重たい雪雲で覆われていた。ガタガタと雨戸の戸袋を揺する強い風に電信柱が物悲しげに唸っている。


 びょおおおお

 びゅうううう


 聞きようによっては人の悲鳴にも聞こえる風の音を聞いていると、僕の頭は何か得体の知れない圧迫感に苛まれる。外からの圧力ではない。脳の奥の方から、深い深い海の底から、押し込めていた「何か」が出てこようとするのだ。それも訳のわからない不安と焦燥感を引き連れて……。息苦しくなり、呼吸が荒くなってくる。

 僕はきつく目をつぶり、耳を塞いだ。僕の異変に気がついた有紀が僕の顔を覗き込みながら、背中をさすってくれた。

「大丈夫?」

 僕は僅かに目を開けた。目の前に有紀の顔があった。色白で細面の上品な顔には心配そうな表情が浮かんでいる。

「また? 紙袋、持ってこようか?」

 僕の過呼吸発作に何度も遭遇している有紀は落ち着いた様子で僕の背中をさすり続けてくれる。

「……大……丈夫……。」

 僕は喘ぎながらなんとか返事をすると、有紀の膝の上に頭を預けて身体を丸めた。こうしていると不安が治まっていく。

 窓の外はまだ風が唸っている……。



 僕はある一時期から以前の記憶がない。「斉藤真之」という名前は五年前、僕の名前として覚えなおしたものだ。

 僕の持っている一番古い記憶は五年前。いわば僕が生まれた瞬間からだ。



 目を開けると、白い細面の女の顔が僕を覗き込んでいた。その女は僕の顔を見ながら恐る恐る声をかけた。

「斉藤さん?」

 僕は何も考えられずに、その女の顔を見つめていた。見覚えがなかった。その女の唇が「斉藤さん?」と繰り返すのを、ただぼーっと眺めていた。

 それが僕の最初の記憶だ。

 その時僕は病院のベッドにいた。後日聞いたところによると、火災現場から救急患者として運び込まれてきたらしい。身体の怪我は軽い火傷と浅い切り傷程度だったが、三日間昏睡状態にあったという事だ。そしてようやく目覚めた時、僕は全ての記憶を失っていた。

「心因性健忘といいます。貴方の場合は全生活史健忘ですね。」

 僕を診察した精神科医が説明してくれた。

 どうやら強い心的外傷による記憶喪失。

 僕が遭遇したらしい火災現場は古いアパートだった。火元からは一人の女性の遺体が発見された。警察の調べで僕「斉藤真之」の友人という事だった。

 友人だったのか恋人だったのか、僕にはわからない。記憶がないのだから。しかし、どうやらその女性が僕を道連れに無理心中を図った、というのが警察の見解だった。そして僕はそのショックで記憶を失った。そういうことらしい。


 僕の記憶は一向に戻る気配がなかった。催眠療法も試してみたが、上手くいかなかった。見覚えのない「家族」や「友人」が時々見舞いに来てくれるが、僕の中には戸惑いしかなかった。手の込んだ詐欺にあっているような気にすらなった。それでも呆然と立ちすくんでいる間に、時間だけは過ぎていく……。

 僕はしばしばパニック障害に翻弄された。火はもとより、強い風や雪を見ると、強烈な不安と恐怖感、焦燥感に襲われて、過呼吸の発作を起こすのだ。その度に倒れて動けなくなってしまう。なんでも火災に遭遇した日は酷い吹雪の日だったそうだ。風の音や雪の白さが僕の閉ざされた記憶の扉を激しく揺さぶるのだろう。

 そんな中、僕を支えてくれたのが有紀だ。

 彼女はナースだった。僕が目覚めた時、たまたま傍に居合わせて僕を覗き込んでくれたのも彼女だったのだ。

 彼女は本当に親身になって僕の世話をしてくれた。僕が「斉藤真之」として社会復帰するために、「斉藤真之」の歴史を調べてくれたり、家族を探してくれたりした。彼女のお陰で僕は「斉藤真之」の生い立ちを学習する事が出来たのだ。それどころか、僕にとってはまるで他人のような「家族」との仲立ちを直接的、間接的にしてくれた。「両親」もそんな有紀のことを心から信頼し感謝しているようだった。

 二年経って、ようやく社会復帰の目途が立ち退院が決まった時、有紀は涙を流して喜んでくれた。そんな彼女を僕は愛し始めていた……。


 退院してから僕と有紀は付き合うようになった。有紀は僕の全てを知っている。なんといっても僕の生まれた瞬間に立ち会ったのだから。僕は卵から孵化したヒヨコのように、有紀の愛情を刷り込まれて成長してきたのだ。有紀は僕の全てだった。

 初めて有紀を抱いたのは寒い雪のちらつく夜だった。恋人達にとってはロマンチックなはずの白い雪が、僕には恐怖でしかなかった。その恐怖を忘れるために、夢中で有紀を抱いた。

 有紀の身体は最初のうち、それこそ、雪のように白くて冷たかった。しかし僕の動きを受け止めながら、次第に熱く蕩けていく。彼女を抱いている時だけは雪も風も怖くなかった。

「有紀って名前のせいか、雪女みたいだな。色も白いし。」

 そんな事を言ったことがある。有紀は僕の腕の中でクスクスと笑った。

「小学校の時、そんなあだ名をつけられた。真之って子供と発想が一緒ね。」

「しょうがないよ、まだ生まれて三歳だもん。」

 僕らは額を寄せ合って笑いあった。

 ふと有紀が真顔になった。

「ねぇ、雪女って人間に抱かれても溶けないのかな。」

 僕は布団の中でごそごそと有紀の身体をまさぐる。

「どうだろう。少なくともこの布団の中の雪女は溶けないみたいだよ。」

 有紀はくすぐったそうに身をよじっていたが、やがて笑い声が切ない吐息に、そして熱い喘ぎ声に変わっていった。

 僕らは幸せだった。


 僕らは一緒に暮らし始めた。連名で借りたマンションは、お世辞にも高級とは言えないけれどとても見晴らしが良くて、二人で新しい生活を始めるのにはふさわしい空間だった。

 僕はようやく「斉藤真之」が身体に馴染んできて、僕自身として受け入れる事ができるようになっていた。過去の記憶はさっぱり戻らなかったが、それでもいいと思えるようにすらなっていたのだ。

 そう思うと過呼吸の発作も完治した訳ではないが、徐々に減ってきた。発作が起きそうな時は自分でコントロールするという方法も身につけた。それもこれも医療的な知識のある有紀が傍にいてくれるからだ。

 


 その日は雪の混じった強風が容赦なく吹き付けた。苦手なモノがダブルパンチで重なるような日は、さすがに外に出るのは怖かった。外で発作を起こしたら大変だ。僕は会社を休んで家にこもった。

 有紀もちょうど夜勤明けで家にいた。僕は窓から見える重たく寒々しい景色に耐えられず、コタツにもぐりこんでいた。

「大丈夫?」

 有紀が熱いお茶を入れてくれた。僕は身体を起こすとコタツの板に額をくっつけた。

「……うん。気分はあんまり良くないけど。」

 ようよう頭をあげ、熱いお茶をすすると気分が少し落ち着いた。

 部屋の隅においてあるストーブの上のやかんがしゅうしゅうと音を立てている。雨戸の戸袋がガタガタとぶつかりあい、電信柱が寂しい悲鳴を上げている。

 時々雪のつぶてが鋭い音を立てて窓硝子にぶち当たり、砕け散る。

「最悪の天気だな。」

 僕はどんよりと呟いた。久しぶりに頭の奥の方で、「何か」が蠢いている。ざわざわと気持ちの悪い触手が脳の芯から出てこようとしているのが怖かった。次第に呼吸があがってくる。

「大丈夫? また? 紙袋、持ってこようか?」

「……大……丈夫……。」

 有紀が背中をさすってくれる。僕は有紀の膝の上に頭を預けた。

「顔色、悪いよ。無理しないで。」

 僕は目をきつく閉じたまま頷いた。

 しばらくそうしているうちに、少し気分が落ち着いてきた。

「雨戸閉めようか。」

 有紀はそう言うと、僕の頭をそっと膝から下ろし立ち上がった。僕はぼんやりと有紀の姿を目で追う。

 有紀は窓を開けた。強い風が一気に吹き込み、有紀のセミロングの黒髪が風に煽られて乱れた。有紀は一瞬風から顔を背け、僕の方を向いた。

「!」

 僕の頭の中で何かが弾けた。


 倒れた石油ストーブ。

 炎が這い上がっていくカーテン。

 血まみれで倒れている女。

 風の音。

 窓に叩きつける雪つぶて。

 僕の顔を覗き込む白い顔。

 連続ストロボのように映像が僕の中を駆け巡っていく。


 僕は絶叫した。土石流のように恐怖が襲ってくる。

「真之?!」

 有紀は慌てて僕に駆け寄った。そして暴れる僕を抱きすくめる。僕は有紀にすがりついた。有紀はバランスを崩して僕の上にのしかかる。

「どうしたの?!」

 僕を押さえ込むようにして僕の頭を抱きしめる。僕は有紀の身体に埋もれながら震え続けた。

 どのくらい時間がたったのか。ようやく大人しくなった僕から有紀はゆっくりと身体を離した。

 僕は呆然と有紀を見上げていた。目を見開いて、口をぽかんと開けて、有紀を凝視していた。きっととんでもなく間抜けな顔をしていたに違いない。僕の思考は完全に停止していた。

 有紀は怪訝な顔で僕を見つめていたが、やがて哀しそう表情に変わっていく。

「……真之。」


 燃え盛る部屋の中。痺れて動けない僕。横には血にまみれて倒れている女。そして、もう一人の女が僕の上にのしかかって覗き込んでいた。

「どうして起きちゃったの?」

 哀しそうな表情で僕の首筋に刃物を当てる。鋭い痛みが遠のきそうになる意識を引き戻した。

「や……め……。」

 僕は必死で呻いた。意識が朦朧としているが、このままではこの女に殺されるという事はわかった。

 女の白い顔には殺気は感じられなかった。ただ哀しみだけが伝わってくる。

「……そうよね。貴方は巻き添えだもの。」

 そしてゆっくりと僕から離れた。手にした刃物を息も絶え絶えで倒れている女の右手に握らせる。冷たい声で話しかける。

「アンタは一人で逝くのよ。さようなら。」

 女は玄関へと向かう。扉を開けると一気に風が流れ込み、女の髪がかき乱れた。女は一瞬顔を背け僕の方を見た。

 そして哀しそうな微笑を浮かべた。

「助かるといいわね。」

 その女は……。


「有紀……おまえ。」

 僕は呆然と有紀を見つめた。白い、細面の有紀の顔。僕の愛おしい女の顔が知らない女の顔に見える。

「……思い出しちゃったの……ね?」

 有紀は僕から身体を離すとふわりと立ち上がった。

「あの女は私の恋人を誘惑して、その気にさせて、捨てたの。彼は自殺したわ。なのにあの女ときたら、何ヶ月も経たないうちに貴方とつきあい始めた。それも、彼をさんざん連れ込んだホテル代わりの安アパートに。……許せなかったのよ。

 彼の遺品にアパートの合鍵があったの。それを使って忍び込んで、冷蔵庫のお酒の中に睡眠薬をたっぷりいれてやった。後はわかるでしょ?」

 血まみれの女。倒れた石油ストーブ。燃え上がる炎。身体が痺れて動かない。フラッシュバックする記憶の激流に僕はなすすべもなく押し流されていく。

 有紀は血の気のない顔で僕を見つめた。

「部屋の外から119番したの。まさか貴方が自分の勤務先に搬送されるなんて、ね。出勤してびっくりだったわ。」

 有紀は寂しそうに微笑んだ。

「記憶喪失だと知って、正直ほっとした。でも同時にいつ思い出すんだろうって、不安で仕方なかった。だからずっと傍に貼り付いて……。

 でも、でもね、真之。……幸せだったよ、とても。」

 有紀は哀しい微笑を浮かべたまま、ゆっくりと後ずさった。そしてきびすを返すと、ふわりと窓を乗り越えて、僕の視界から消えた……。



                                              了


雪女をモチーフに書いた短編です。怪談に出てくる女達は皆、純粋で可愛いです。私に彼女達の魅力の1パーセントでもあれば……。もっと人生変わってたと(笑)。

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