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もう一度、子どもに

作者: 江藤ぴりか
掲載日:2026/10/05

 先日書いた遺書の文面を眺め、老眼鏡を外す。顔をあげると「やっと気づいたか」と詰襟の若い男が少し微笑んでいた。


「お前の願い、短い命と引換えに叶えてやろう」


 まさか、と思った。


 息子夫婦たちがわしの死後、揉めるのを見るのは忍びない。二束三文の土地と不動産の相続税。誰が一番介護したか、そんなものを幽霊になってまで見たくない。

 子どもの頃は、明日のことしか考えていなかった。大人になると、明日の先にあることまで考えるようになる。老後、死後、相続。――そんなものを考えずに済んだ頃に戻れたなら。


「あいわかった。ならば子どもに還るがいい」


 わしはなにも言っとらんぞ。なぜ納得するのだ。


「いえいえ、しがない通りすがりの善人ですから。考えていることなぞ、お見通しなんですよ」


 ……慇懃《いんぎん》な物言いだ。確かに子どもに戻りたいとは思ったが、そんなこと――。




 お義父さんは最近、老人ホームに行く日にちを忘れたり、町内会の集まりも行かなくなってしまった。


「今日は老人ホームに行く日ですからね」

「そうだったか? それにしても最近は蚊が多くてかなわんな」

「……今は十二月ですよ。マフラーと手袋も机に置いてますから、早く着替えてください」


 のっそりした様子でズボンとセーター、上着を羽織るが腕が上手く使えないのか「すまんが里美さん、手伝ってくれ」と声がかかる。苛立ちが声に乗っているもんだから、こっちまで移っちゃうじゃない。左腕、右腕と通すとやっと表情も柔らかくなった。


「ニット帽は?」

「……いらん」

「マフラーも巻きましょうね」


 私の後ろを凝視するので振り向くけど、なにもいない。猫みたいな人ねとため息を吐くと、お義父さんはまたぼーっとしている。

 笑ったり、無表情になったり、ひとりで忙しい人。

 また転ばないように背中を支えて見送ると、やっとひと息つける。私はお義父さんが見ていた部屋の端を見るけど、やはりなにもない。明日は病院の日だから私もついていかなくちゃ。




 契約してから二年か。稔《みのる》は随分、子どもに還れているようだ。

 ワタシも人間と向き合って長くなるが、老人は皆一様に「子どもに還りたい」と願う。若い人専門の〝善人〟は希望に溢れたものだと言う。しかし、彼らは回復することもあってワタシには荷が重い。もう無理やり回収するのも体力がない。その点、老人はいい。寿命で死んでも、病気で死んでもこちらの言うことを聞いてくれる。

 稔も順調に子どもになっている。


「お兄さん、暑くない?」

「大丈夫ですよ。ワタシは暑さは感じませんから」

「お母さんがね、お父さんとケンカするんだ」

「そうですか。大変ですねぇ」


 今は十四歳くらいだろうか。目の前の老人にも若い頃があったのだとほくそ笑む。

 お母さんと呼ぶそれは自分の息子の奥さんだということも忘れてしまっているようだ。


「……なんでお兄さん夫婦は別居なのに、うちは」

「仕方ないだろ。母さんが死んでから寂しそうにしてたし」


 次男夫婦は稔のことで揉めている。


「ほら見て。また部屋の端に話しかけてる。気味が悪いわ」

「病気なんだからそういうこともあるだろ」

「あなたは介護しないから気楽にいれるのよ。私なんて四六時中――」


 そう言ってやるな。いずれは我が身だ。

 次の目星もついている。女の目の前にいる男だ。




 きょうは おてんきがいいので せんせいに さんぽしようって いわれた。たんぽぽが きれいで きいろかった。

 せんせいは わたげをもってきて ふーってしてごらんって いわれたから ふーってしたら ぱやぱやが そらにきえちゃった。

 きれいだねっていったら こまったようなかおをして わらってた。

 つめえりの おにいちゃんが てをふってくれたので ぼくも てをふったよ。せんせいは おにいちゃんのほうをみて 「誰かいたの?」って きいたの。「おにいちゃんが いるの」っていったんだけど ふしぎなかおを していた。


 あ、きょうは おかあさんが きてくれたんだ。おとうさんは? ってきいたら くびをふっていた。ぼくは おとうさんが いそがしいの しってるから がまんしたよ。でも おかあさんの ひざで ちょっとだけ ないちゃった。




 お義父さんの症状は年々酷くなっている。

 介護施設に送り、たまに面会に行くが、私を「お母さん」と呼んでくる。介護職員さんは「否定しないでください」と言われるが、どうにも受け入れがたい。どうしても顔に出てしまい、訝しげな顔をされるのだ。

 そして部屋の隅にいるという〝お兄ちゃん〟の話をしきりにする。それは夫にも相談しているが、取り合ってはくれない。職員さんにも医者にも相談したが「存在しないものが見えるのは不思議な話ではありません」としか答えてくれない。


 だが、症状が進行する前から言っていたのを私は覚えている。

 五年前だったか、お義父さんの頭が冴えた時に「詰襟の若者が立っている」と部屋の隅を見ながら喋っていた。その頃はぼーっとする時間と、頭が冴える時間があり、症状が酷くなるのは決まって夕方以降だった。

 夜になると虫が出ると騒いだり、部屋の隅にいる〝お兄ちゃん〟に話しかけたりと病気のせいとはいえ、不気味ではあった。


 夫に相談しても「父さんのことは頼むよ。施設にも入れたんだし、里美も楽だろ?」となにもわかってない。


 離婚、という字が頭を掠めた。




 稔、お前は息子夫婦の中に亀裂が入っているみたいだぞ。そんなことも知らずもう十歳になったのか。

 施設に入れられていることにも知らず、職員のことを〝せんせい〟と呼び、次男の妻を〝おかあさん〟なんて呼んで呑気なもんだ。


 契約から八年か。もう長い付き合いになるな。前の契約者――稔の父だったか――の時も次男のようにお前は自分の妻に介護を押し付けていたな。だからワタシの存在にも気づかないんだろう?

 少しでも携わっていたらわかっていたはずなのに、お前の血統の男は身内に冷たいものだ。妻に父を任せて自分は外で仕事に呆けて。本当に業が深い。業が深いからこそ、この家族にワタシは取り憑いているのだ。


 稔、お前は本当に愚かな人間だった。家族を顧みず、仕事に専念し、時に社内の女に手を出し妻を泣かせたこともあったか。そんなとこも父親にそっくりだ。ついでにお前の次男もその〝素質〟があるようだ。さあ、妻には〝離婚〟の文字を送っておいた。そしたらお前の次男も終わりだ。

 長男。あいつも上手くやっているつもりだろうが、あちらもなかなかの薄情者だな。


 さて、次男と長男。どちらにワタシはつくべきかな。これは悩みどころだ。


「ちゅうがくせいに なったら おにいちゃんみたく かっこいい せいふくきれるかな?」

「ええ、着れますよ。きっと」

「やったー! あいたたた」


 肩や手先が動かないのに万歳なんてするもんじゃないですよ。あなたは〝老人〟で〝こども〟ではないのですから。

 ほら、様子を見に来た職員が医者を呼んでいる。ああ、今はパーキンソン症状って名前がついているんですね。

 どうして人間は名前をつけたがるんでしょう。名前がないのは怖いのですか? 不便な生き物ですね。長生きの秘訣なんでしょうけど、これが江戸時代だった時にはそんな名前はなかったのですけど。


 いやはや、本当に医療の発達とはこの世の生き地獄ですね。




 くろいおにいちゃん えっと、だれだっけ? ぼんやり してて わかんないや。おにいさんは みかづきのめで わらってる。


「おにいちゃん、だれ?」

「さあ、誰でしょうね」

「わかった! きんじょのひとでしょ!」

「そうかもしれませんね」


 ぼくは おりがみで つるをおって おにいちゃんに わたした。でもおにいちゃんは うけとってくれない。ぼくは かなしくなった。なかよくなりたいのに うけとってくれない。


 せんせいは「うまくおれたね」ってほめてくれたから あげたかったのに。ぼくは おにいちゃんと あそびたいのに。どうして うけとってくれないの?

 あ、おにいちゃんの にがおえなら うけとってくれるかな?くれよんで くろいおにいちゃんを こんどかいてみよう。


 きっと きにいってくれるから。

 せんせいは ゆるしてくれるかな? くれよんが おいしそうにみえて たべちゃったから ゆるしてくないかも。


 ぼく、もっといいこに なるね。


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― 新着の感想 ―
稔には優しいお兄ちゃんに見える詰襟の男が、次の相手を探しているのが怖かったです。最後に折り鶴を受け取ってもらえない場面が、つらく残りました。
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